« フロイト『機知』(1905年)抜き書き03 | トップページ | フロイト『機知』(1905年)抜き書き04 »

2013年7月10日 (水)

欲とバイアス

●精神が無くて欲だけがあり、欲が精神のフリをしている、という人間が存在する。

●精神が無くて小さなこだわりだけがあり、小さなこだわりが精神のフリをしている、という人間が存在する。

●精神が無くてただ臆病で、臆病が精神のフリをしている、という人間が存在する。

●少なくとも自分の意見には、自分の「欲」によるバイアスが掛かっている可能性があるが、他人の意見にはそれがない。
しかし他人の意見にはその人の欲によるバイアスが掛かっている可能性がある。
従って、自分の欲を差し引き、あらゆる他人の欲を差し引いた意見が「客観」と言えるのかもしれない。

●少なくとも自分の「欲」によるバイアスが掛かっていないという意味において、あらゆる他人の意見は傾聴に値する。

●自分は自分自身の「欲」の奴隷だが、その支配領域は他人にまでは及ばない。
だからもし自分自身の「欲」から逃れたければ、他人に従うことである。

● 自分のしたいことをするのではなく、他人が自分に何をさせたいのかを理解し、それを自分のしたいことに転化すること。

●屈辱を感じるのは、屈辱を与える相手に自分が賛同しているからであり、その意味で自分に屈辱を与えるのはいつも自分なのである。

|

« フロイト『機知』(1905年)抜き書き03 | トップページ | フロイト『機知』(1905年)抜き書き04 »

思想・哲学・宗教」カテゴリの記事

コメント

屈辱を感じるのはマゾ。
屈辱を与えるのはサド。
屈辱を与えた側の人に辱めを与える役に回ればいい。

投稿: (・∀・) | 2013年7月28日 (日) 10時40分

屈辱を受けるだけでなく、屈辱を受けることが喜びと感じる人がマゾですね。
性的関係以外の日常生活でも、そうした趣味の人は少なくないように思えます。

投稿: いとさき | 2013年7月28日 (日) 17時31分

この記事へのコメントは終了しました。

« フロイト『機知』(1905年)抜き書き03 | トップページ | フロイト『機知』(1905年)抜き書き04 »