欲と認識
近所のブックオフに『老子』が置いてあったのでチラッと再読したのだが、欲があるから偏見が生じ、欲を無くせば偏見も無くなり、欲の無いところに認識が生じる。
欲が無い人は自分が損をすることを恐れず、損をする覚悟ができている。
欲が無い人は認識のために一切の言い訳をせず、自分への非難を甘んじて受け入れる。
欲が無い人は、欲が無い故に他人の欲望を知ろうとする。
大人は子供に比べ無欲であることによって、子供より優位に立っている。つまり、欲が無い人は欲が無いことによって他人より優位に立つことができるのである。
無欲な人は他人に誤解されることを損だとも惜しいとも思わず、一切の言い訳もせず、ただ相手の欲望を認識してこれを受け入れる。
欲がない人は他人からの誤解を恐れず、他人から誤解を受ける覚悟ができている。
欲がない人は、他人からの誤解に対し一切言い訳をせず、相手の「誤解したい気持ち」を認識しそれを受け入れる。
相手に誤解された場合、言い訳によってこれを解消することはできず、「誤解された自分に積極的になってゆく」事だけができる。
相手に誤解された場合、言い訳によってこれを解消することはできない。つまり「自分を誤解した相手」を変化させることはできない。しかし自分の方が「誤解された自分」に変化することはできる。そのように無欲な人は、欲によって生じる偏見に惑わされずに、認識を深めることができる。
「欲」というのは瞼であって、目を閉じれば自分の欲によって作り出された世界だけが見える。欲の無い人の目は開かれている。
「他人に誤解されている」と思うこと自体が「自分をよく見せよう」と思う「欲」から生じる誤解なのであり、欲がなく目の開かれた人にそのような偏見は存在しない。
| 固定リンク
「思想・哲学・宗教」カテゴリの記事
- 2010年3月tweet(2010.03.31)
- 存在と証拠(2014.04.21)
- 自己保身と自己犠牲(2014.04.21)
- 鏡のアフォーダンス(2014.04.20)
- 犯人と証拠(2014.04.19)
この記事へのコメントは終了しました。


コメント