自制心とはブレーキであり、自制心のない人々はブレーキのない自動車のようにお互い衝突し合っている。
欲望とはアクセルのようなものであり、欲望の無い人は停車して動くことがなく、他の自動車の通行の妨げになる。
欲望があり、自制心がある自動車は良くコントロールされて走る。
欲望の無い自動車は走らす、自制心の無い自動車は暴走する。
自動車の運転が楽しいように、欲望を自制するのは楽しい。
欲望を自制しない人は、ブレーキのない自動車を暴走させているに過ぎない。
馬力が大きく、スピードが出る車ほど、それをコントロールするのは難しくだからこそ楽しい。
同じように、欲望が強い人ほどそれを抑制するのは難しくだからこそ楽しい。
例えば飲酒の欲望が強い人ほど禁酒は難しくだからこそ楽しい。
強い欲望を持ちながら、ブレーキを踏まずアクセルも踏まない人がいる。
そのような人は、夢や理想を語りながら具体的行動は何一つ起こさず、何も実現させようとはしない。
小さなことからコツコツと。
一度に全部やろうとすると何もできなくなるから、小さなことをコツッと一つだけやって、あとは何もしない…というのを繰り返す。
目の前のものを「実体」だと捉えると、目の前のものに縛られる。
目の前の世界を「実体」だと捉えると、世界に縛られる。
目の前の他人を「実体」だと捉えると、他人に縛られる。
自分自身を「実体」だと捉えると、自分自身に縛られる。
自分以上に優れた人に際限が無いように、自分以上に知識を持つ人に際限が無い。
自分以上に成功した人に際限が無いように、自分以上に幸運な人に際限が無い。
自分以上に豊かな人に際限が無いように、自分以上に不幸で不運で不遇で苦痛を味わっている人に際限が無い。
迷いとは躊躇であり、迷いがある人は躊躇して何事もなさず、迷いが無い人は躊躇せず何事もなす。
生きとし生けるものは安楽を求める。
多くの人々は暴力によって生き物を害することを肩代わりしてもらいながら、食物を得ている。
暴力を振るわず平和で安楽に生きる人の多くは、他者に対する暴力を肩代わりしてもらっていることを忘れている。
芸術の本質とは、施しであると言えるかもしれない。
真に優れた芸術は、遥か後の時代の我々にまで、施しを与える。
歴史に残らない芸術は、施しが同時代人に消費されてしまう。
同時代人にとって施しにならず、消費もされず、歴史を通して人々にとって施しとなる芸術がある。
お金とは施しであり、商品もまた施しである。
施しを与えた者は施しを得る。
施しを与えたいと始めに望む者と、施しだけ受けたいと望む者とがいる。
勝利からは恨みが生じる。
賞賛からは妬みが生じる。
自由な人は不自由な人々の恨みや妬みによって縛られる。
執著の心がなく施しの心のある人は、優れた芸術家になり得る。
執著の心がある芸術家は、人々の執著の心を作品によって肯定し、執著の心のある人々からの賞賛を得る。
自分の束縛を断ち切り、自分を壊し、別のステージに立つのは楽しい。
平和な時代に暴力は隠される。平和な時代に暴力を肩代わりする人々によって、暴力が隠される。
黙って、様々な事を肩代わりする人々によって、この世の平和(と言う幻想)は保たれている。
楽しさには二種類がある。苦しみに打ち勝つ楽しさと、安寧に浸る楽しさと。
苦しみに打ち勝った後に安寧があり、足元を救われる。
勝利の先に安寧を求めることなく、勝利の先にさらなる戦いを見出すならば、苦しみに打ち勝つ喜びも継続する。
例えば酒の楽しみを知りながら、禁酒を続ける人がそれである。
優れた人と共に歩み、優れた人と共に住むのは楽しい。
愚人と共に歩み、愚人と共に住むのは辛い。
優れた人と歩み、優れた人と住みたければ、自分が愚人であってはならない。
実験として、辛いこと、苦しいことだけをやってみよう。実験だから、水の中でしばらく息を止めるのと同じ。
実験として、楽しいこと、気持ちのいいことを我慢しよう。実験だから、水の中でしばらく息を止めているのと同じ。
人は日常的感覚に縛られる。日常的感覚が人を最も強く縛る。自由な人は、日常的感覚の束縛を断ち切っている。人を縛る日常的感覚を断ち切る方法が存在する。
子供の心がいかに汚れているかは「子供のような大人」を見ればよくわかる。
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