借り物と返却
持っているために自由になるものと、持っているために不自由になるものがある。
同じものを持っていても、それによって自由になる人と、不自由になる人とがいる。
不自由な人は持ち物を自分のものとして執著し、自由な人は全てが借りものであると知っている。
それが例え我が身、我が心であったとしても。
我が身は借り物であり、やがて返却しなければならない。
我が心も借り物であり、それを自分のものとして執著することは間違っている。
心は借り物であり、いかようにも借り変えることができる。
すなわちいらないものは返却し、必要なものを借り足す事ができる。
自分の心は借り物であり、レンタルビデオのようなものである。
一度借りた映画を「自分のもの」とみなして返却せず、同じ映画を繰り返し見続ける事は本来的に間違っている。
自分の心は借り物だと認識すれば、一つの心の在り方に執著する事なく、様々な心を採り入れながら、心の幅を広げることができる。
物事が上手くいかない時、その原因となる自分の悪しき心はどこから借りてきたのか、を反省してみよう。
大抵は親からの借り物だったりするので余計な心は返却し、新たに有効な心を他から借りてこよう。
心は様々な人や本などから借りることができる。心はそのように、お互いに貸し借りしあっている。
心は借り物であり、レンタルビデオのようなものである。
だが多くの人は一度借りたビデオを「自分のもの」と思いなし返却せずそれを繰り返し見続ける。
そのように異なる映画を借りっ放しの人同士では、共通の話題もなく心が通じ合うことはない。
様々な映画を借りて見ている人同士では話題が豊富で心が通じ合う。
自分が幸福だと思っている人は、他人の不幸から目を背けているだけであり、本当の意味で幸福とは言えない。
他人の不幸から目を背ける人は、不幸な人に冷たい。
なぜなら彼らの認識の中に、不幸な人は(自分を含め)存在しないからである。
今、不安だと思う心を借り物の心だと知って、惑わされず落ち着くこと。
今、怒りに思う心を借りものの心だと知って、惑わされず心落ち着けること。
今、恥じ入る心を借り物の心だと知って、惑わされず心落ち着けること。
今、悔しいと思う心を借り物の心だと知って、惑わされず落ち着くこと。
今、苦痛だ思う心を借り物の心だと知って、惑わされず心落ち着くこと。
今、快楽だと思う心を借り物の心だと知って、惑わされず心落ち着くこと。
今、劣っていると思う心を借り物の心だと知って、惑わされず心落ち着くこと。
今、優越していると思う心を借り物の心だと知って、惑わされず心落ち着くこと。
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