神と試練
「神が与えし試練」とは便利な言葉でそう思えば何でも乗り切れるかもしれない。
神様は意地悪く人の邪魔をし、そしてパワーを与える。
気付いた人だけがその恩恵を受ける事ができる…というのもまた意地悪だが。
科学の時代に「神」は否定するのではなく、乗り越え内包すべきものではないか?
生物も古い形質を否定ではなく内包し進化する。
人体もナメクジや魚やトカゲや猿の形質を内包する。
ナメクジが嫌だと言って自分の「舌」を除去する人がいるならば、それは明らかに異常である。
神もまた同じではないか?
一日は短く、人生は短い。
今から、時間を1分でも無駄にしないようにすれば、全部取り返しがつく。
不用意で行こう!
用意周到で用心深く、計画的で理性的な人は、結局は何もしないのだから。
不用意な人には自己決定能力がある。
用意周到な人は決定してくれる誰かを探すことに、エネルギーを注ぐ。
殺される人より自滅する人の方が多い。
文明が外敵によってでなく内部崩壊で滅びるように、自分も外敵によってでなく内部崩壊によって滅びる。
権利を主張するが責任や義務を忘れる人たちが存在する。
「大衆の要求はとどまる事を知らない」と知って、まず自分自身が自制する事しか出来ない。
文明が廃れ始めると野蛮が台頭する。
文明は本質的に野蛮を内包し押し殺している。
文明の基礎の一つが農業であり、植物の野蛮を押し殺し文明的な野菜に仕立てる。
アートもまた同じで、文明が衰退すると雑草が生い茂り、野蛮なアートが台頭する。
技術が発達し、何もかもが自動化し便利になると、世の中が「お母さん化」する。
人々が子供化、幼児化するのは実に当たり前である。
世の中便利になり「お母さん化」する一方で、パソコンの操作はおしなべて煩雑で不親切で、リテラシーを身に付けないと手も足も出ない事がある。
「お母さん」に見捨てられた子供がいる一方、リテラシーを身に付けた「母子密着」の子供もいて、それがパソコンに詳しく他人には閉鎖的なオタクなのかもしれない。
『ソクラテスの弁明』の冒頭、一言も真実を言わない人の存在が示されているが、確かに多くの人は欺瞞を生き、真実を語らず、しかもその事を忘れ、思い出さないよう鍵を掛けている。
「感謝の心」が忘れ去られるとともに、その人の関心は自分自身へと集中する。
「感謝の心」とはさまざまな物事を「関係」として捉える心であり、これを失った人は自分を絶対視し身動きが取れなくなり自滅する。
無償の愛に対する感謝を、相手との一対一の関係と捉えると話がこじれる。
なぜなら人は単独では存在せず、様々な関係に依って存在するから。
目の前の相手を通し、その背後のすべてに感謝です!
文章がうまい人は、自分が見たり体験した事を、他人が見たり体験した事のように書く事ができる。
つまり客観化の能力で、これがない人は自分の体験にくっ付き過ぎて、独りよがりの文章になる。
ぼくはこれがちょっと苦手で、独りよがりで書いたものを見直しながら客観化する。
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