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2013年10月

2013年10月12日 (土)

うどんと洗濯

今朝は家族でバラバラに朝食を作って食べることになった。

ぼくは土鍋に酒とうどんを入れて火にかける。朝から酔っ払ってしまう、と思ったが、酒を調味料にするのは美味しいし、まあいいかと思う。醤油を入れなければならないが、それは後回しにする。

しかし父親が、ぼくの分の朝食も一緒に作ってくれているという。
見ると、洗濯物とうどんを一緒の鍋に入れ茹でている。
どうせ洗濯物もしなくてはならないのだし、うどんと一緒に煮るのは確かに合理的ではある、と思った。

ぼくのうどんが先に茹で上がると、うどんは少し焦げていた。
父親はうどんを焦がしたことをぼくに謝ったが、これはちょっと変だと思った。
醤油を入れ忘れたことを思い出すが、味見すると塩見は普通に効いていた。

父親のうどんも茹で上がり、一緒に食べようと思ったところ、「先に修理した車を修理工場に取りに行く」という。
バイク出てかける、と言われるが、自分が原付免許しか持って無いことを伝えると、一人で食事をして、修理した車が部屋に入るよう片付けをしておくよう言われる。

父親が出かけた後部屋をみると、ピアノを移動させる必要があったりと、片付けはそれなりに大変そうだ。
しかしともかく朝食を食べようと思い、父親の作ったうどんの鍋をつつくが、洗濯物の下着や靴下がうどんに混じっていて、合理的とは言え流石に無神経だとあらためて思った。

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これは今朝二度目に見た夢で、起きてすぐ書き留めたもの。
一度目の夢は、目覚めてからしばらく経って思い出したのだが、頭の中で文字化して書き留めようと思ったのだが、どんどんディテールが失われ結局忘れてしまった。
夢は鮮度が命です。

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2013年10月11日 (金)

理由と物語

●貧乏人は「大きな数字」が想像できず、ますます貧乏になる。
大きな借金を背負う人は、「大きなお金」をリアルにイメージできるが故に、お金を回してゆくことができる。

●人は理由もなく生まれ、理由もなく死ぬ運命に定められている。
故に、全ての物事には理由がなく、因果関係もなく、それらの「ない」ことを忘れさせるための「物語」だけが存在する。

●「芝居」の世界を生きる人と、「地」の世界に生きる人と、芝居と地の二重性に生きる人とがいる。

●困っているのに他人に助けを求められない人たちがいる。

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2013年10月 9日 (水)

水彩画と時計

現在の年齢のまま?で自分は小学校の生徒?のような立場にいる。
水彩で絵を描いていて、やっと自分でもえが描けるようになったと喜ぶ。
これだけ描ければ、写真家としてだけでなく、画家としてもやっていけると思った。
昼休みのため教室?に戻る。
パンだけ食べて、時間短縮すればすぐにまた絵を描きに行けると思った。
しかしどういう事情か、教室にある二つの掛け時計のうち一つを取り外し、何かいじって再び壁に戻したら、時間が大幅に狂ってしまった。
それを見て教室中の子供たちから大ブーイングを受ける。
ぼくは特に精神的ダメージを受けるわけでもなく、ともかく時計を元の時間に戻す。
もう一つの時計はアナログの文字盤にデジタル時計を備え、正確な現在時刻である10時12分を示している。

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今朝の夢は起きた直後はすっかり忘れていて、しばらくしてからお終いの時計の時間を直すシーンを思い出し、それから、それ以前に絵を描いていたことを思い出したのでした。

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認識と節約

自分が聞きたい自分の言葉を、相手に言わせないと気が済まない人がいる。

正直に言うと嘘だと言われ、相手の望む嘘を付くと正直者だと褒められる。

人は膨大な事実のうち自分の知りたいこと以外は全部捨てている。

人はつい、「見たものが全て」だと思ってしまうのだか、そのような節約の仕方で世界を捉えなければ、取り止めもなく収集がつかなくなってしまう。

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2013年10月 8日 (火)

怠惰と希望

疑うより信じたい。
疑うことより信じる方が楽だし心地良い。
疑うことは脳にも心にも負担がかかり、これを避けるため人はできるだけ信じようとする。

システム1は、現実以上に筋の通った現実像を作り上げる。(カーネマン)

連想マシンには、原因を探すという特性がある。

情報のシニフィアン=情報の信憑性。
情報のシニフィエ=情報の意味内容。
多くの人は情報のシニフィエに目を奪われ、情報のシニフィアンを見落とす。

事実を事実として認識するのを妨げる数々のバイアスが存在する。
夢想バイアス!

お互いに自分の言いたいことだけを言い、自分の聞きたいことだけをピックアップして聞き、対話の形を取りながらお互いに独白しているに過ぎない、という場合がある。

野蛮な人はあらゆるものごとの二重構造を理解しない。
どのような事物も二面性で捉えることができるし、二重構造として認識できる。

何一つ達成できなくとも、少しでも前に進む方が、何もしないよりマシである。結局のところ人は何も達成し得ず、少しでもマシになることしかできない。

何一つ達成し得ないからと言って、絶望する必要はない。ほんの少しでも前に進み、その分だけマシになることは出来るのだから。

希望を失った者は怠惰であり、怠惰な者は希望を失っている。

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2013年10月 6日 (日)

原子炉とマンション

家族でマンションに住んでいたのだが、家庭用原子炉?をベントして放射能を少し漏らして冷や汗をかく。
次の晩にはさらに大きなミスをして、核物質の小さな破片を道路の下水溝の中に落としてしまう。
核物質はみるみる温度を上昇させ、下水溝の蓋が光って溶け出すのが見える。
通声人が一人、不審に思って見ているが、構わず自宅に戻り家族に事情を話し、「もう逃げられないがともかく逃げよう」とマンションを出る。
そして、高層ビルの一室にある小学校に行き、そこで教鞭をとっている自分は、生徒たちにも逃げるよう呼びかける。しかしビルの窓から遠くの自宅マンション付近が光っているのが見え、熱気もどんどん増していて、自分も含めた一帯の住民全員が助かりようもないことも分かっていて絶望している。

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今朝のこの夢のポイントは、出てきた家族が実際の自分の家族とはメンバーが全く違ったことで、特にいないはずの祖父がいたのが印象的。
この祖父も遺影で見た実際の祖父ではなく思い返すと知らない頭の禿げた老人だった。
住んでいたマンションも見覚えがなく、職業もなぜか小学校の先生で、実際の自分とは全く異なるが、夢の中では何の疑いもなく役?になり切っていたのが不思議です。

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2013年10月 4日 (金)

電車と旅館

ツアーで尾瀬?に虫の撮影?に行く。
しかしぼくは団体行動をとらずに、一足先に現地に行く事にする。
二両編成のローカル線に乗るが、のりかえの駅を降り忘れて別の線に入ってしまう。
どこの田舎なのか?と思えるような景色に驚く。
戻るための電車に乗るが、ローカル線なのに入り口から乗客を何人もの駅員が押し込んでいる。
「そうだiPhoneで窓から景色を撮ろう」と思ってカメラを構えると、ホームにいた駅員が「撮るな!」とものすごい形相で怒鳴る。
車窓からの景色は非常に美しく、何度もiPhoneのシャッターを切る。
雲がダイナミックで、氷河?のような山並みが見える。
この氷河のような山の先端だけを切って、線路ぎわにおかれた箇所もあって、これも面白いと思った。
目的地の駅につくと、撮影のためものすごく疲れた。駅を降りると、ツアーの人たちがやってくる。ベンチで休みながらその人たちとちょっと話して、それから旅館に戻る。旅館街は台風?の被害で道が土砂崩れで埋まってたり、家が斜めにずれている箇所がある。
旅館の大広間にいくと、時間帯をずらしたグループ?の人たちが食事をしている。
ぼくは友達の宮田さんたちと一緒の席に合流する。
ぼくは出発前に食べた自分の時間帯グループ?の残り物を物色して食べるが、時間が経っているせいか不味い。

夢の記述は、映画の出来の悪いノベライズのように別物になってしまうのですが、今朝覚えてた分を何とか再構成して書きました。

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破壊的構築と構築的破壊

●自分の代わりはいくらでもいるし、自分は常に誰かの代わりをしている。

自分の代わりはいくらでもいるし、自分は誰かの代わりをしているのだが、その誰かの代わりは自分にしかできない。

自分の代わりはいくらでもいる、というのは理論的にはその通りのはずだが、実際に自分の代わりを探しても、そう簡単に見つかるものでは無い。

自分が死んでも誰も困らないが、生きている限り誰かの役に立つ事はできる。

●多くの人は構築を脱構築に置き換える「日常的脱構築」によって何も構築しない。

脱構築=ディコンストラクションdeconstruction(破壊destructionと構築constructionを合わせた造語)の訳語。■ 百科事典マイペディアの解説

つまり「破壊的構築」であり「構築的破壊的」でもあり、そう考えるといろいろ見えてくるものがあるかもしれない。

破壊的構築=脱構築によって、何も積み上げない人たちがいる。

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2013年10月 1日 (火)

才能と動機

●程度の低い人間ほど自分を疑わず、根拠の無い自信に満ちている。
その反対に、程度の高い人間ほど自分を疑い、絶望している。
つまり人間の程度とは、自分をどれだけ疑い得るかの程度であり、どれだけ絶望しているのかの程度ダと言える。

●才能に頼ろうとする人はやがて失敗する。
例えば、車やパソコンやカッターナイフは頼るものではなく使うものであり、才能もまた同じ。

刃物は研がなければ使ううちに鈍になるし、研ぐ度に小さく摩耗する。
カッターナイフはポキポキと刃を折りながら使用する。
車やパソコンやケータイは定期的に買い換えなければ時代遅れになる。
才能もまた同じ事で、「自分の才能」のあり方を固定しそれに囚われる事に意味はない。

免許があっても車を運転しないペーパードライバーのように、才能があってもそれを発揮する動機を持たない人たちがる。
一方で、動機があっても才能が無い人たちもいるが、動機さえあれば運転免許のように才能を新たに取得する事はできるし、そのための手続きも存在する。

●人は新しい時代に適応するため、過去を再構成し自己正当化を図る。

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