破壊的構築と構築的破壊
●自分の代わりはいくらでもいるし、自分は常に誰かの代わりをしている。
自分の代わりはいくらでもいるし、自分は誰かの代わりをしているのだが、その誰かの代わりは自分にしかできない。
自分の代わりはいくらでもいる、というのは理論的にはその通りのはずだが、実際に自分の代わりを探しても、そう簡単に見つかるものでは無い。
自分が死んでも誰も困らないが、生きている限り誰かの役に立つ事はできる。
●多くの人は構築を脱構築に置き換える「日常的脱構築」によって何も構築しない。
脱構築=ディコンストラクションdeconstruction(破壊destructionと構築constructionを合わせた造語)の訳語。■ 百科事典マイペディアの解説
つまり「破壊的構築」であり「構築的破壊的」でもあり、そう考えるといろいろ見えてくるものがあるかもしれない。
破壊的構築=脱構築によって、何も積み上げない人たちがいる。
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