死にかかった悪人
人は誰もが死にかかっているのであり、人は生まれながらにして死にかかっている。
生き生きと、元気で幸福な人も死にかけている!
頭が悪いことは果たして本当に「悪」なのか?
頭の悪い人は「悪」を抱えた「悪人」なのか?
人は誰もが死にかかっているのであり、人は生まれながらにして死にかかっている。
生き生きと、元気で幸福な人も死にかけている!
頭が悪いことは果たして本当に「悪」なのか?
頭の悪い人は「悪」を抱えた「悪人」なのか?
●自分の頭は空っぽで他人の頭でしか考えることができず、自分の心は空っぽで他人の心でしか感じることができず、自分の体は空っぽで他人の体でしか行動できない。
●空洞が常に流れによって清浄な人と、空洞に汚れが溜まりそれを充溢だと思いなしている人がいる。
●「写真」を撮るためにはまず「写真とは何か?」を考えてはならず、「写真は芸術か否か?」を考えてはならず、まして「芸術とは何か?」を考えるなどもっての他である。
写真家を名乗りながら「写真とは何か?」という疑いを持つ者は非国民ならぬ非写真家であって、絶対に許されるべきではない!
写真家になるには写真家のフリをしながら写真を撮るフリをして作品が完成したフリをすること。
フリではない本当の写真とは何か?を考え始めるともうそれは「写真」ではなくなる。
書きたい気持ちはあるのに実際には何も書くことがなく、描きたい気持ちはあるのに実際には何も描くことがなく、何かしたい気持ちはあるのに実際には何もすることがない。
学びたいという気持ちは人一倍あるのに実際には何もしたくないという気持ちだけがある。
何を書いても書いた先から文字になってしまうのが実に不思議だ。
カゴの中の鳥のように安全に自由に羽ばたきたい!
カゴの中の鳥は目の前のカゴを見ないようにしている。
金魚鉢の金魚は鉢を見ない。
何もしないと退屈だが、ハムスターのように同じ場所でくるくる回っているだけで大満足‼︎
やるべき事は沢山あるのに何をすべきか分からない。
やりたい事は沢山あるのに何をしたいかが分からない。
●「自分はいずれ死ぬ」と知識として理解していることと、実感として自分の死が想像出来ないことのギャップを、注意深く意識すること。
●自分はどうせ死んでしまうのだから、自分のため生きても仕方が無い。
では自分は何のために生きるべきか?アーティストだったらアートのためでしょ‼︎
●人はしばしば自動機械のように反応し作動するのであり、それにつたれて自分もまた自動機械のように反応する必要は無いのである。
感情が自動機械のように反応すると、理性もまた自動機械のように作動し始める。
一連の自動作用を真に受け心を乱すことはない。
●人として汚れた心を持つ人は、動物として清らかな心を持っている。
例えば動物として清らかな心を持つ政治家とかヤクザとか。
自分が最初に理解した定義にいつまでも縛られる性質は、産まれたばかりのヒヨコが最初に見た動くもの、例えばボールでもラジコンカーでも何でも「親」だと認識する性質と似ている。
しかし自分はヒヨコではないし、芸術はポールでもラジコンカーでもないのであり、その認識は修正することができる。
人は芸術を追いかけているつもりで、転がるボールやラジコンカーを追いかけている事がある。
あたかも産まれたばかりのばかりのヒヨコが、初めて見る「動くもの」を何でも、例えば転がるボールでもラジコンカーでも、親だと思って追いかけるようなものである。
山本七平によると、旧日本軍の規律も、憲法も外国からの「借り物」で、「借り物」だから勝手に改訂してはならず内容が固定化し、さらに本家より厳しさを増すことで「こちらこそが本家」という感覚に陥るらしい。
方や本家の欧米では、自分で作ったものは自分で作り変えてバージョンアップさせてゆく。
言わば、自分で書いた文章を自分で校正するようなもので、適宜書き換えてゆくことができる。
しかし他人の文章を借りてきた場合、これは書き換えるなぞもっての他の、絶対的で神聖なものへと祭り上げられる。
「借り物」だから内容を吟味せず疑いもせず理解もしないで、表面だけをなぞって有り難がる。
日本人の「借り物主義」は根が深く、ぼくが知る限りは『法華経』がまさにそうなのだ。
法華経は仏典の重要な内容は一切明かさず「法華経という素晴らしい経典があって、素晴らしすぎて内容は誰も理解できない」と延々と賛辞が述べられる自己言及的な内容で、この感覚まさに現代日本にまで通じている。
●専門家は素人集団から排除される!
素人は素人同士で楽しくやりたいのだから、うるさい専門家は排除されるのが当たり前。
自分たちはただ楽しみたいだけなのに、専門家は常に余計なことを持ちかけ遊びを台無しにする、と思いなしている。
時に専門家にとって仕事は遊びなのだが、素人集団にとっては遊びはあくまで遊びで、この温度差から軋轢が生じる。
すなわち専門家が遊びに対し仕事同様の情熱を燃やし始めると、それが素人集団には重荷になって、排除せざるを得なくなる。
ですので住み分けは大事です!
仕事が遊びとなり生き方そのものになる人と、仕事は仕事、遊びは遊びで区別する人がいる。
苦しみが楽しみと同一化する人と、苦しみと楽しみとを明確に区別する人がいる。
前者は専門家で、後者は素人で、両者の壁は厚く混じり合うことがない。
●大人のはずの人が子供のように反応し、人間であるはずの人が動物のように反応し、生き物であるはずの人が機械のように反応する。
大人のはずの自分が子供のように反応し、人間であるはずの自分が動物のように反応し、生き物であるはずの自分が機械のように反応する。
●最良ではなく最短の方法を考えること。いや、考えると長くなるので最短の方法を瞬時に嗅ぎ分け選択する!
ある人から嫉妬の感情をむき出しにされ、自分なんて売れっ子でもないのになぜ?
と思ったが、人は思った以上に嫉妬深い。
というより多くの人は思った以上に子供っぽい。
もちろんぼくも子供っぽいが、ではそれ以外の人はちゃんと大人なのかと思ったら、そうではなくみんな子供で、子供のように嫉妬深い!
嫉妬は子供の感情で、子供っぽい大人は嫉妬深い。
というよりも、嫉妬は人間の自然な感情で、大人は自らの内に沸き起こる自然な感情をモニターし、コントロールする。
ぼく自身もたびたび嫉妬はするのだが「自分はまたつまらないことで嫉妬しているな」と自覚すれば、嫉妬の情も消えてしまう。
大人は自分の自然な感情を自覚し対象化することで、それを抑える術を心得ている。
しかし実際には多くの大人は子供のままで、自分の自然な感情を自覚しないままそれを剥き出しにして、振り回される。
例えばつまらないことで嫉妬し、その感情をむき出して、人間関係をこじらせる。
山本七平『日本はなぜ敗れるのか』 http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/404704572… を読み終えたが、この本の締めは「日本人には自由がない!」だった。
日本人には自由がない、かわいそう!日本人は自由を求めない、かわいそう!
人は誰でもいつか必ず死ぬ、という不幸を負っているが「自分だけは死なない」と思いなし幸福感に包まれて生きる人は幸福か?
不幸か?
どちらとも取れるようだが「それこそが不幸だ」と解釈することで見えてくるものがある。
その一つが「平等」であり、これによって「自分だけが不幸だ」という思い上がりが是正される。
しかしそれは見方の一面だけでしかない。
別の見方をすれば、以前の自分の感覚を思い出せばわかる通り「自分だけは死なない」と思いなし、自分が死ぬ可能性を心の底から実感できず、その意味での不幸が存在しない人間は、やはり幸福なのだ。
幸福と不幸の不平等性は確かにある。
不幸には、間接的不幸と直接的不幸との二種類がある。
例えば学校や職場で虐められる人の不幸は直接的不幸であり、直接的であるがゆえに状況が変われば一挙にいじめる側へと反転し、不幸を脱し幸福を得る可能性がある。
直接的不幸は状況に依存しているのであり、だから人々は幸福を得るための状況を作り出すことに躍起になる。
社会とは人々の直接的な不幸を解消するためのシステムであり、その第一の目的は食物の分配による餓えの解消にある。
たとえ空腹が恒常的に満たされ、直接的不幸が解消されようとも、誰もがやがて死を迎えるという問題は解消されず、それが間接的不幸である。
間接的不幸は状況に左右されない絶対的不幸であり、誰も逃れることはできない。
日本人を恨むのはもう止めよう!ぼくには日本人に対してというか、世間に対して深い恨みがあって、それがぼくの アートの根拠にもなっていたのだが、そう言うルサンチマン・アートはもう止めよう!そもそもアーティストは傍観者でなければならず、恨みの感情は目を曇らせるだけ!
ウラミハラサデオクベキカ!という浦見魔太郎のような気分でここまで来たのだが、実際に恨みというものは仕返しに よって晴れる分けではなく、気分が晴れるのと同様に、自分と向き合い内部処理して晴らすしかない。そのようにして、日本人に対する、世間に対する恨みが晴 れて、視界がクリアになった!
他人への恨みは自分への恨み。自分への恨みが晴れれば世間への恨みも晴れる!視界がクリアで爽やかな気分!
自分だけが苦しいのではなく、世間の誰もが苦しいのであり、苦しいからこそ、これを忘れるための世間が形成される。
恨みの気持ちは怯えの表れであり、怯えの気持ちは無理解から生じる。相手を理解し、同時に自分を理解しようとすれば、恨みの気持ちは自然と晴れてくる。
相手を理解することは相手の苦悩を理解すること。苦悩する相手を恨んでも仕方なく、つまり怨みは理解によって晴らすことができる。
人間の精神は、各自が体験したさまざまな不幸によって歪んでいる。
人は誰でも不幸であり、誰もがその不幸を他人に対しても、自分に対しても剥き出しにせず、他人に対しても自分に対しても幸福を装う。
小さな幸福を手にした人は、その前提に大きな不幸を負っている。
幸福感に包まれている人は、現実の不幸を幸福な感じで包み隠している。
不幸は絶対的に消えらさないところに幸福の秘密がある。
自分の不幸から目を逸らす技術と、自分の不幸を直視する技術とがある。
大抵の想像が心配事に過ぎないのは、人間が生きることのベースに不幸があるからであり、怯えの産物である。この不幸を吹っ切るには想像ではなく現実を直視する必要があり、現実は勇気ある実際の行動によってのみ直視できる。
幸福は不幸を隠蔽するためにしか存在しない。
資本主義社会には不幸を紛らわすための商品があふれ、情報化社会には不幸から目を逸らすための情報があふれている。
幸福に至る道はなく、あらゆる道は死に至る。
最近のコメント