写真家 リチャード・ミズラックの言葉
写真家 リチャード・ミズラックの言葉
*アート作品というものは、意識しているいないは別として、全て作者の政治性を反映している。
*ぼくは、美は難しい思想を伝えるのに有効な手段だと信じるようになった。美によって、目を背けようとする人々の注意を惹きつけることができる。
*作品の外見上の美しさは、人生の肯定を意味すると同時に、通念を覆すようなやり方で、包囲されたこの世界から送られてくるニュースとまっすぐに向かい合うように、ぼくらをうながすのだと思う。
写真家 リチャード・ミズラックの言葉
*アート作品というものは、意識しているいないは別として、全て作者の政治性を反映している。
*ぼくは、美は難しい思想を伝えるのに有効な手段だと信じるようになった。美によって、目を背けようとする人々の注意を惹きつけることができる。
*作品の外見上の美しさは、人生の肯定を意味すると同時に、通念を覆すようなやり方で、包囲されたこの世界から送られてくるニュースとまっすぐに向かい合うように、ぼくらをうながすのだと思う。
絵画の構図はおそらく、生物の細胞をその起源のひとつとする。細胞があるから構図がある。人間が忘却した細胞が、構図という形で想起される。
プラトンの想起説が正しいように思えてきたのだが、何も知らない赤ん坊は全てを忘却してこの世に生まれ、様々な事柄を想起しながら大人になり、やがて死ぬことで全てを忘却する。
生命の歴史は人体そのものに刻まれているのだが、人はそれを忘却している。自然科学とは、人が忘却した生命の歴史を想起することに他ならない。
人の作る道具は生物が持つ様々な機能の外在化であり、人は生物が持つ様々な機能を想起しながら道具を発展させてきた。人が作る道具は想起が進む度に進歩し、より本物の生物に近づいてゆく。例えばカメラがデジカメに進歩することで、よりイカに近づいてゆく。
キルケゴールが人間とは精神であり、精神とは関係の関係だと説くように、生命のは関係の関係であり、関係なきところに生命も精神も存在しない。そして芸術とはそれ自体が生命であり、精神であり、関係の関係として存在している。
芸術として生きている作品と、芸術以外のものとして生きている作品とがある。例えばヘンリー・ダーカーの作品は、芸術としての構造を欠いており、芸術としての生命を宿していない。
やり方が乱雑で力づく。
強弁とは乱雑な手法で、知識のない人、実力に乏しい人は、思考の繊細さが欠如し、やり口が乱雑にならざるを得ない。しかしかと言って、乱雑を恐れては成長はできない。大切なのは乱雑を自覚すること。
『アトリエ 構図入門』藤本藤一良 1959年12月号、を適当に抜き書きしながらメモ。
絵を描くと言うことは、家を建てることに似ている。
絵を描く際に、画面の上に表現すべきものの設計図を考える、これが構図である。
感激や直感だけで絵を描こうとするのは、甚だ危険を伴う。
人は感激を持って何かを表現しようとするならば、それは理性を持って規制されなければならない。
従って、子供が自由に描く絵は芸術になり得ず、自然の造形物も芸術とはならない。
画面の上でのいろいろな要素や約束が結合されて構成されるものが構図となる。
例えばリンゴが一つ画面の中央に置かれているだけは構図にならない。
これが二つになると、お互いの対応関係が生じて、二つは単なる二つではなく、画面上においては一つであるという関係になる。
画面に二つのリンゴを置くと、そのことにより生ずる空間の量、すなわち周囲との関係が生じる。
しかしデザイン的に、例えば上下左右等間隔に置かれた場合には、構図とは言えない。
二つのリンゴが置かれる場所により、画面上の役割や働きが生じ、その効果を踏まえて決定されなければならない。
画面上に一本の地平線が引かれると、空と陸それぞれの量的な関係が生じる。この区切られた一本の地平線というものは、一画面上の面積を分割する大切な位置であり、二つの空間の量を決定して、構図上の重要な効果を生み出す要素となる。
画面の中に水平線が無意味に適当な位置に引かれた場合と、充分に面積の量的関係とを考えて惹かれた場合とは、画面構成上大きな違いが生まれる。
それは一本の木をどこに建てるかと言うことにも成り、リンゴをどこにまず置くかという問題にもなる。
絵画の画面は小宇宙、すなわちミクロコスモスなのである。
つまり画は単なる自然の一部の切り抜きではなく、一個の独立した世界であり、すなわち小宇宙であらねばならない。
そこには抜き差しならない統一された宇宙、すなわち空間があり、それを統一するものが構図なのである。
構図がある。そして形と色がある。
それには線の美しさ、量感(ボリューム)、運動(ムーブマン)、物の対比(コントラスト)と相似、連結などと言う心理的な要素、数理的なものから来るリズムや距離感などがある。
これらを全部兼ね備える必要は無く2、3あれば良い。
イザヤ・ベンダサン『日本教について』を読みながら、抜き書きしたり思い付きを書いたり。
日本では、こういう(意味が通じにくい)文章が書かれるときは必ず「実体語」の世界に解決不可能なほどの重荷があり、それとバランスをとるために分銅すなわち「空対語」を次々に作り出して天秤皿に載せ、かろうじて平衡を保っているはずです。(イザヤ・ベンダサン『日本教について』)
自然災害を天誅とみるように、人間の暴力をも天誅(自然的、物理的力)と見る世界がある。
字義通りに発言を受け取らず、発言の「政治的効果」のみを考慮する。
がんらい神は、本質的には空名(名ばかり)であるが、その名があると言うことはすなわちその理があることで、その応はまたむなしくない。そうであるから、これらの神や仏はただ空名だけれども、すでにその名があると言うことは、それなりの理があるのであって、従って応はない、と言ってはならない。
「言葉を字義通りに捉える奴はバカ」
原始人の宗教
文明人の宗教を原始人が原始に押し戻す
神様なんているはずもないし、誰も信じてないけど、「神」という言葉がある以上、その名前には存在意義があり、実在物と同様の作用と効果をもたらし、人々を絶対的に規定する。
神様なんて誰も信じてないが、誰もが「神を信じます」と言う言葉の「政治的効果」をアフォードされながら、それを口にする。
日本人の「二人称の世界」「お前のお前の世界」はアフォーダンスの認知世界!
誰も信じていない神だからこそ、「神」という言葉に政治的作用が生じる。
「自分」とは人工的に作り上げるものであり、そんな「自分」がない人は原始人に過ぎない。
「自分」がない人はアフォーダンスを生きる。
アフォーダンスを脳内に取り込み自律させたものを「自分」と呼ぶ。
人による暴力を天誅と言い換える人はアフォーダンスの世界を生きている。
思想とは、人に差し出して何かを認めさせるものだ。という一貫した思想。
暴力は思想であって“物理的力”ではない-山本七平
嘘つき=言葉の秩序の崩壊、は暴力の始まり。
人にとって自由とは、一つの視点から、同時代の、あるいは異時代の二つ以上の対象を見て、それによって自らの位置を自ら測り、自分で自分の位置を定めることに過ぎない。-山本七平
つまり、比較ができない人は自由を奪われている。
歴史というものは本来、大虚構であることをわれわれは知るべきである。by司馬遼太郎
現実とは無関係に成立する思想、すなわち現実とは無関係に、言葉とそれが織りなす概念の関係性によって成立する、虚構としての思想が存在する。
日本人の多くは歴史的にものを捉え考えることが苦手である。
なぜなら日本人の多くは、自らの感性や価値観や思想信条が歴史的帰結だと捉えずに、すなわち他人からのコピーに過ぎないとは夢にも思わず、自分だけのオリジナルだと固く信じているから。
満腹は精神の毒。
ウサギが草を食べる生き物で、オオカミが肉を食べる動物だとすれば、満腹状態のウサギはウサギではなく、満腹状態のオオカミはオオカミではなく、満腹状態の人間は人間ではない。
人間性を維持するためには空腹であらねばならない。
満腹したウサギと満腹したオオカミと満腹したヒトは同じであり、空腹においてそれぞれ異なる動物となる。
どんな動物も死ねば皆同じであり、どんな動物も満腹になれば皆同じである。
例えば、満腹したライオンはシカの隣で寝る。
空腹に囚われる人は、空腹以外の苦痛を認識せず、空腹以上の苦痛が存在することを見逃し、これらを放置したままの人生を送る。
空腹を除いて満足するのではなく、空腹のままこれをよく認識し、空腹を基準とし、空腹以外の様々な苦痛のあることを認識すること。
●多くの人に対しては、合理的な説明や礼節や義理に訴えることは無駄であり、不安をあおったり、おだてたりすることだけが有効である。
無駄とは意味が通じないということで、有効とは意味が通じるということ。
つまり、不安やおだて以外の意味を理解できない人は実に多いのである。
●表面的な言葉にこだわり、話がそれてしまう人は実に多い。
●表面的な言葉の下には文脈が流れている。
●真実を語ることが難しいのは、誰もそれを信じないし、理解しないし、聞きたくないと思っているから。
人は夢を見るのが好きなのだが、大抵の夢はそれを見たことすら忘れてしまう。そこで人工的な夢として、遊園地や映画が作られる。
全ての人工物が人間の精神の表れだのすれば、自然の生成物とはいったい何なのか…⁈
自然物を人工的に改良した野菜だからこそ、人間の精神が明瞭に現れている。
ネギにも人間の精神が明瞭に具現化されているのが見て取れる。
●知性は外部に存在する!のアフォーダンス理論を全面採用すること。
そもそも知性が脳内に存在することに明確な証拠は存在しない。
知性は外部に存在する、と言うアフォーダンス理論を採用するならば、知性が足りない人はより孤独で、知性が豊かな人は人間関係が豊か、と言うことになる。
例えば本を読む人は読まない人より人間関係が豊かで、読解力が高い人は人間関係を作るのが上手い、と言い換えることができる。
知性は外部に存在する!
目に見える一つ一つが知性‼︎
知性は外部に存在し、目の前の他者が自分の知性なのである。
アフォーダンスは「外部知性」と翻訳することができる!
例えば脳が小さなカブトムシは外部知性によって生き、人間は外部知性によって呼吸や歩行を行う。
目の前の他者に対し、外部知性としてアクセスするかしないかの分かれ道が常に存在する。
●「目から鱗落ちる」とは新約聖書の記述だが、使徒行録9章を確認すると、イエズスを迫害する側の手先であったサウロは、3日間目が見えず、飲食もできない状態が続いた後、目から鱗が落ちて再び見えるようになったとある。
つまり「目から鱗が落ちる」とはそれほどに大変なことなのだった。
3日間、目が見えず飲食もできないほどの価値転換が、新約聖書に書かれた本来的な意味での「目から鱗が落ちる」なのだった。
「目から鱗が落ちる」ほどの価値転換をするには、3日間目が見えず、飲食もできないことに相当する何かが必要になる。
目が見えても本質から目を逸らし、そのようにずっと盲目だったことに気づいた者は、その途端に盲目になり、3日後に目から鱗が落ちて再び見えるようになる。
●自分にとって愚か者の鏡となる人物がいるのであり、目を背けずに見続けていなければ鏡像を消すことは出来ない。
●人々のシステム1を捉えること。
●学説には学説の生態系が、常識には常識の生態系がある。日本の自然に固有の生態系があるように、日本の学説にも、日本の常識にも、固有の生態系がある。
●歪の蓄積とその解放。
●洗練に屈服する野蛮。
●天然のアフォーダンスと人工のアフォーダンスとがある!
道具を作ることとは、人工のアフォーダンスを作ることであり、人類は人工のアフォーダンスを拡大することで知性を拡大してきた、と言える。
●快楽とは何か?
楽をして得られる快楽と、苦を伴いながら得られる快楽とがある。
例えば飲酒の快楽と、禁酒の快楽。
飲酒の快楽を知るものは禁酒の快楽もまた知ることができる。
快楽の否定がより高次元の快楽を生むのであり、快楽の否定の否定はさらに高次元の快楽を生むのであり、快楽の否定の否定の否定はよりさらに高次元の快楽を生むのであり、快楽の否定の否定の否定の否定はよりさらにより高次元の快楽を生むのであり、快楽の否定の否定の否定の否定の否定の否定の否定の
大きな快楽を得るほど喜びは小さくなり、大きな喜びを得るほど快楽は小さくなる。
人は時として大きな喜びを得ているつもりで、その実大きな快楽に耽っているに過ぎない事がある。
便利になると仕事が増える。
怠け者になるためのテクノロジーが新たな苦労を生み出す。
生きなが死の悦楽を悦楽を得るのが怠けることであり、死が悪でないように、怠けることも悪ではない。
●ぐずぐずしてることがどれほどの代償を支払うことになるのかを知らなければならない。
●ちゃんと作らなければ芸術はゴミになる。
●断片的な情報をむやみに精密に分析しても大して意味はなく、総合的判断こそが意味を持つ。
そして、よりスケールの大きい総合が意味を持つ。
リテラシーを刷新しなければ新しいものは理解できない。
リテラシーを常に刷新し続けるための総合力を!
●人は誰でもいずれは必ず死んでしまうのだから、わざわざ人を殺す必要がどこにあるのか?
●岡本太郎が『今日の芸術』などで主張した芸術論は「無教養主義」とも言えるものであり、大半の日本人アーティストはこの「無教養主義」の流れを汲んでおり、ぼくももちろん例外ではなかったのだった。
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