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2014年1月29日 (水)

デジカメと想起説

絵画の構図はおそらく、生物の細胞をその起源のひとつとする。細胞があるから構図がある。人間が忘却した細胞が、構図という形で想起される。

プラトンの想起説が正しいように思えてきたのだが、何も知らない赤ん坊は全てを忘却してこの世に生まれ、様々な事柄を想起しながら大人になり、やがて死ぬことで全てを忘却する。

生命の歴史は人体そのものに刻まれているのだが、人はそれを忘却している。自然科学とは、人が忘却した生命の歴史を想起することに他ならない。

人の作る道具は生物が持つ様々な機能の外在化であり、人は生物が持つ様々な機能を想起しながら道具を発展させてきた。人が作る道具は想起が進む度に進歩し、より本物の生物に近づいてゆく。例えばカメラがデジカメに進歩することで、よりイカに近づいてゆく。

キルケゴールが人間とは精神であり、精神とは関係の関係だと説くように、生命のは関係の関係であり、関係なきところに生命も精神も存在しない。そして芸術とはそれ自体が生命であり、精神であり、関係の関係として存在している。

芸術として生きている作品と、芸術以外のものとして生きている作品とがある。例えばヘンリー・ダーカーの作品は、芸術としての構造を欠いており、芸術としての生命を宿していない。

やり方が乱雑で力づく。

強弁とは乱雑な手法で、知識のない人、実力に乏しい人は、思考の繊細さが欠如し、やり口が乱雑にならざるを得ない。しかしかと言って、乱雑を恐れては成長はできない。大切なのは乱雑を自覚すること。

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