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2014年1月27日 (月)

イザヤ・ベンダサン『日本教について』

イザヤ・ベンダサン『日本教について』を読みながら、抜き書きしたり思い付きを書いたり。

日本では、こういう(意味が通じにくい)文章が書かれるときは必ず「実体語」の世界に解決不可能なほどの重荷があり、それとバランスをとるために分銅すなわち「空対語」を次々に作り出して天秤皿に載せ、かろうじて平衡を保っているはずです。(イザヤ・ベンダサン『日本教について』)

自然災害を天誅とみるように、人間の暴力をも天誅(自然的、物理的力)と見る世界がある。

字義通りに発言を受け取らず、発言の「政治的効果」のみを考慮する。

がんらい神は、本質的には空名(名ばかり)であるが、その名があると言うことはすなわちその理があることで、その応はまたむなしくない。そうであるから、これらの神や仏はただ空名だけれども、すでにその名があると言うことは、それなりの理があるのであって、従って応はない、と言ってはならない。

「言葉を字義通りに捉える奴はバカ」

原始人の宗教

文明人の宗教を原始人が原始に押し戻す

神様なんているはずもないし、誰も信じてないけど、「神」という言葉がある以上、その名前には存在意義があり、実在物と同様の作用と効果をもたらし、人々を絶対的に規定する。

神様なんて誰も信じてないが、誰もが「神を信じます」と言う言葉の「政治的効果」をアフォードされながら、それを口にする。

日本人の「二人称の世界」「お前のお前の世界」はアフォーダンスの認知世界!

誰も信じていない神だからこそ、「神」という言葉に政治的作用が生じる。

「自分」とは人工的に作り上げるものであり、そんな「自分」がない人は原始人に過ぎない。

「自分」がない人はアフォーダンスを生きる。
アフォーダンスを脳内に取り込み自律させたものを「自分」と呼ぶ。

人による暴力を天誅と言い換える人はアフォーダンスの世界を生きている。

思想とは、人に差し出して何かを認めさせるものだ。という一貫した思想。

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