イザヤ・ベンダサン『日本教について』
イザヤ・ベンダサン『日本教について』を読みながら、抜き書きしたり思い付きを書いたり。
日本では、こういう(意味が通じにくい)文章が書かれるときは必ず「実体語」の世界に解決不可能なほどの重荷があり、それとバランスをとるために分銅すなわち「空対語」を次々に作り出して天秤皿に載せ、かろうじて平衡を保っているはずです。(イザヤ・ベンダサン『日本教について』)
自然災害を天誅とみるように、人間の暴力をも天誅(自然的、物理的力)と見る世界がある。
字義通りに発言を受け取らず、発言の「政治的効果」のみを考慮する。
がんらい神は、本質的には空名(名ばかり)であるが、その名があると言うことはすなわちその理があることで、その応はまたむなしくない。そうであるから、これらの神や仏はただ空名だけれども、すでにその名があると言うことは、それなりの理があるのであって、従って応はない、と言ってはならない。
「言葉を字義通りに捉える奴はバカ」
原始人の宗教
文明人の宗教を原始人が原始に押し戻す
神様なんているはずもないし、誰も信じてないけど、「神」という言葉がある以上、その名前には存在意義があり、実在物と同様の作用と効果をもたらし、人々を絶対的に規定する。
神様なんて誰も信じてないが、誰もが「神を信じます」と言う言葉の「政治的効果」をアフォードされながら、それを口にする。
日本人の「二人称の世界」「お前のお前の世界」はアフォーダンスの認知世界!
誰も信じていない神だからこそ、「神」という言葉に政治的作用が生じる。
「自分」とは人工的に作り上げるものであり、そんな「自分」がない人は原始人に過ぎない。
「自分」がない人はアフォーダンスを生きる。
アフォーダンスを脳内に取り込み自律させたものを「自分」と呼ぶ。
人による暴力を天誅と言い換える人はアフォーダンスの世界を生きている。
思想とは、人に差し出して何かを認めさせるものだ。という一貫した思想。
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