日本人は何よりも自分がまず「人間の素体」であろうとする。日本人は「人間の素体」がいろいろなものをまといながら、いろいろな日本人たり得ている。
日本人の正体は「人間の素体」であり、それが様々に異なるものをまとって「いろいろな日本人」といて生きているが、まとったものは簡単に脱ぎ捨て、別なものをまとうことができる。まとうものが変化しても「人間の素体」であることにおいて変化せず、均質であることが日本人の特徴なのである。
いわゆる高等動物から下等動物となるに従い、個体による個性のバラツキが少なくなり「素体」に近づく。例えば山に棲むハエも街に住むハエもほぼ同一で共に「素体」に非常に近い。だが山に棲むイヌと飼いイヌとは個性に隔たりがあり「素体」から遠ざかる。
日本人は日本人なりの「人間の素体」を長い年月をかけて形成し、長い歴史を経た現在に至るまでそれを保持し続けている。
日本の仏教徒は「人間の素体」が仏教徒をまとっているのであり、日本のクリスチャンは「人間の素体」がクリスチャンをまとっているのである。
日本の政治家は「人間の素体」が政治家をまとっているのであり、日本の教師は「人間の素体」が教師をまとっている。だからこそ日本では「政治家である前に人間であれ」「教師である前に人間であれ」などと言われるのである。
「人間の素体」は世間体をまとう。まとった世間体が乱れたり脱げそうになると、世間体が悪くなる。「人間の素体」はあくまで外見上は隠しておかなければならない。
サルはヒトより「素体」に近い。故に、サルの研究はヒトの「素体」の研究に役立つ。
日本人は人間を「人間の素体」へと還元しようとしている。
例え罪を犯しても「人間の素体」が汚れていなければ、その人の罪は問えないと日本人は考えている。
「人間の素体」が汚れたらその人は終わりだと日本人は考えている。
日本人は個人を「パーソナリティ」に還元せず「人間の素体」に還元する。故に、日本人の個人にパーソナリティはなく、「人間の素体」がパーソナリティをまとう。
日本人の真実は「人間の素体」が真実をまとっているのであり、だから主観的に真実を語りながら、客観的に平気で嘘を付く。
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