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2014年2月

2014年2月28日 (金)

博愛主義と強い立場

自分が生物に対し博愛主義でいられるのは、自分があらゆる生物に対して守られた「強い」立場にいるから。
対して自分が人間に対し博愛主義でいられないのは、多くの人間に対し自分は「弱い」立場にいるから。

博愛主義は強さの産物であり、あらゆる憎しみや憎悪は弱さから生じる。
あらゆる事物や人々を力でねじ伏せる者は全てを愛することができる。

人を愛するためには(様々な意味で)人より強くあらねばならない。
なぜなら、弱い人が強い人に(様々な意味で)危害を加えられると憎しみや恨みが生じるからである。

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2014年2月27日 (木)

言語と多機能

人間は脳の一部しか使ってないと言われるが、実はそれは、人間は言語の機能の一部しか使っていない、ということと意味が同じ。

あらゆる道具には未知の機能が隠されている。なぜなら道具は人間の脳の外在化であり脳には未知の機能が隠されているから。

言語は、実にiPhone並みに多機能であり、誰もその全てを使いこなせるものはいない。

言語には、固有言語と、共通言語がある。

イメージそのものが、それぞれの固有言語なのである。

動物の固有の身体そのものが、それぞれの固有言語なのである。なぜなら、動物の身体は、連続した世界から餌となる対象物を事分ける。

固有言語に還元する認識と、共通言語に還元する認識とがある、

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2014年2月25日 (火)

間違いと出発点

最善の出発点が存在する。

間違っている人は出発点が間違っている。

最善の出発点は、何をゴールとするかで異なる。

誰にとってもゴールは最悪の死を迎える。

物事の根本を学ばず、簡単なことから学ぶ人がいる。

何事にもアルケー、すなわち「第一のそれから」が存在する。

原因!原因を探って遡りさえすれば、どんな事物も解決できる!

何であれ、物事の原因を遡るという思考そのものが去勢されている。

対象物を構成要素に分解する見方と、一つのものを一つのものとしてだけ見る仕方がある。

目的が間違っている人は出発点も間違っている。

人は出発点を間違うことで目的を間違え、目的を間違えることで出発点を間違う。

例えば「非人称芸術」について考えることは、「非人称芸術」の起源を遡って考えること。

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2014年2月22日 (土)

芸術の原因

理論的な学の目的は学であり、実践的な学の目的は行為である。
とアリストテレスは書いてるが、むかし自分が影響を受けた高田明典は、前者を否定する主張をしていたが、しかしアートの製作にはどちらも必要なのだった。

事物の原因を知ることが、それの真を知ることだとアリストテレスは説いているが、芸術を知ることは芸術の原因を知ることに同じ。

全ての熱いものよりも、その原因である火の方が熱いように、全ての芸術よりも芸術の原因の方がより芸術なのである。

全ての事物について、原因から派生が生じることが観察できる。

芸術の原因が存在し、そこから派生的にあらゆる芸術が生じる。

原因から派生した作品と、原因を失った作品とがある。

大地にそそり立つ大木のように原因に根ざした結果と、糸の切れた凧のように原因から遊離した結果とが存在する。

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2014年2月21日 (金)

猿の比較

知識を得ると、自在なコントロール力が身に付く!

人生は行き着くところ、その終わりがあるだけ。
目的や希望はそれに至るまでの時間稼ぎに過ぎない。

根が能天気なので出来るだけ絶望的に考えたい。

猿の比較(できないことのたとえ)。

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2014年2月19日 (水)

舞台と観客席

世俗は観客席であり、暗闇に包まれた絶対の安全圏。
常に見られる側にある舞台上は危険で面白さに満ちている。

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2014年2月18日 (火)

アリストテレス『形而上学』メモ

不老不死の信仰は運動の否定。

木材は自ら寝台を作るわけではなく、青銅が自ら銅像を作るわけではない。

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2014年2月15日 (土)

想起説の証明

ワトソンとクリックが遺伝子を発見したことで、ソクラテスの想起説が証明された。つまり、人が何かを知ると言うことは、遺伝情報を想起することに他ならない。

フロイトによる無意識の発見も、ソクラテスの想起説の証明であり、人が何かを知ると言うことは、無意識を意識の領域へと、想起させることに他ならない。

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「人間の素体」と日本人

日本人は何よりも自分がまず「人間の素体」であろうとする。日本人は「人間の素体」がいろいろなものをまといながら、いろいろな日本人たり得ている。

日本人の正体は「人間の素体」であり、それが様々に異なるものをまとって「いろいろな日本人」といて生きているが、まとったものは簡単に脱ぎ捨て、別なものをまとうことができる。まとうものが変化しても「人間の素体」であることにおいて変化せず、均質であることが日本人の特徴なのである。

いわゆる高等動物から下等動物となるに従い、個体による個性のバラツキが少なくなり「素体」に近づく。例えば山に棲むハエも街に住むハエもほぼ同一で共に「素体」に非常に近い。だが山に棲むイヌと飼いイヌとは個性に隔たりがあり「素体」から遠ざかる。

日本人は日本人なりの「人間の素体」を長い年月をかけて形成し、長い歴史を経た現在に至るまでそれを保持し続けている。

日本の仏教徒は「人間の素体」が仏教徒をまとっているのであり、日本のクリスチャンは「人間の素体」がクリスチャンをまとっているのである。

日本の政治家は「人間の素体」が政治家をまとっているのであり、日本の教師は「人間の素体」が教師をまとっている。だからこそ日本では「政治家である前に人間であれ」「教師である前に人間であれ」などと言われるのである。

「人間の素体」は世間体をまとう。まとった世間体が乱れたり脱げそうになると、世間体が悪くなる。「人間の素体」はあくまで外見上は隠しておかなければならない。

サルはヒトより「素体」に近い。故に、サルの研究はヒトの「素体」の研究に役立つ。

日本人は人間を「人間の素体」へと還元しようとしている。

例え罪を犯しても「人間の素体」が汚れていなければ、その人の罪は問えないと日本人は考えている。

「人間の素体」が汚れたらその人は終わりだと日本人は考えている。

日本人は個人を「パーソナリティ」に還元せず「人間の素体」に還元する。故に、日本人の個人にパーソナリティはなく、「人間の素体」がパーソナリティをまとう。

日本人の真実は「人間の素体」が真実をまとっているのであり、だから主観的に真実を語りながら、客観的に平気で嘘を付く。

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東大生と日本人

『現役の東大教授(安冨歩氏)が明かす 平気で人を騙す「東大の先生たち、この気持ち悪い感じ」』
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32182
という記事について。
さらに検索すると個々で指摘された「東大話法」がウィキペディアに上がっていたので、その法則を転載してみるが、これがなかなか面白い。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E8%A9%B1%E6%B3%95&oldid=50543022

東大話法規則一覧

1.自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。

2.自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。

3.都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。

4.都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。

5.どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。

6.自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。

7.その場で自分が立派な人だと思われることを言う。

8.自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。

9.「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。

10.スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。

11.相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。

12.自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。

13.自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。

14.羊頭狗肉。

15.わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。

16.わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。

17.ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。

18.ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。

19.全体のバランスを常に考えて発言せよ。

20.「もし◯◯◯であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。

などと思っていたところ、『偽ベートーベン事件の論評は間違いだらけ あまりに気の毒な当代一流の音楽家・新垣隆氏』
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39905
という記事が目に付いたのだが、詐欺師の片棒をグダグダと擁護して、何だか「東大話法」みたいだな、と思って検索してみたら、これを書いた人は東大卒の作曲家で、ぜんぜん笑えない(笑)
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=伊東乾_%28作曲家%29&oldid=50657395

まぁ、ぼくが見たところこの「東大話法」というのは東大はもちろん、学歴に限らず日本人一般に見られる「日本人話法」であって、それをさも日本人のごく一部にのみ当てはまるかのように、匠にすり替えるところがまさに「日本人話法」だと思うわけです。

8.自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。

まさに、コレ!

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2014年2月13日 (木)

幸福と自由

この四月から大学生になる甥っ子から、高校の現代文の教科書をもらって、目を通しているのですが、内山節さんの『この村が日本で一番』というエッセイです。

この中で、

以前に群馬県の山村、上野村に暮らすお婆さんに、「この村から一度も出たことのない私が言うんだから、間違いない。この村が日本で一番良いところだ。」と言われて、私は感服したことがあった。

とありますが、ぼくとしてはそんなおばあさんに感服する内山節さんに、感服してしまいます。

何事も、他人と比較するから自分が見劣りして、不平不満が出ます。
逆に自分の殻に閉じこもり、自分の世界だけを見つめていれば、何の不足も感じず誰もがハッピーになれます。

不幸とは、他人の比較において生じるのであって、比較をしなければ幸福以外存在し得ないのです。

いっぽう、自由とは異なる地域、異なる時代の様々な物事の比較によって得られる、と言ったとは山本七平でした。

とすると、実は自由を得ると人は不幸になり、不自由でいることで幸福を得る、と言えることになります。

実際、村から出られない不自由なおばあさんは、絶対的幸福に包まれているわけです。

自由と幸福が対義語なのであれば、そのどちらを選ぶかは難しい問題で、まさに人の生き方の分かれ道と言えるかもしれません。

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2014年2月11日 (火)

外部思考とアフォーダンス

●みんなは「みんなの森」に隠れながらゲリラ戦をおこなう。
臆病者は勇気ある同胞に攻撃を加える。
臆病でいること自体が勇気ある同胞の足を引っ張り、すなわちそれがその者に対する攻撃になる。

●真にオリジナルなものは不条理である。不条理なものは誰も真似しようと思わないがゆえにオリジナルであり続ける。

●生物に外部消化と内部消化があるように、外部思考する生物と内部思考する生物とがいる。消化器官を持たない生物が外部消化するように、脳を持たない生物は外部思考する。人間についても、この二種類の消化法と思考法が存在する。
外部思考とはすなわちアフォーダンス理論。
ソクラテスが説く、肉体(の刺激)は思考を惑わせる、は内部思考の否定なのか?

●日本人をやめなければ、日本人は目覚めることはない。日本人をやめなければ、日本人は変化し成長することは出来ない。
ソクラテスはアテナイ人であることをやめ、キリストはユダヤ人であることをやめている。
アテナイ人はアテナイ人の夢を見て、ユダヤ人はユダヤ人の夢を見て、クリスチャンはクリスチャンの夢を見て、日本人は日本人の夢を見る。夢
から覚めることは夢の住人であることをやめること。

●多くの人は考えずに考えに囚われる。

●自分より頭の悪い人間はいない。自分より頭の悪い人間は人間ではない。

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2014年2月10日 (月)

創造と抑止

創造の対義語は破壊ではなく、創造の対義語は抑止である。

つまり創造の反対は、創造者の足を引っ張ること。

創造者の足を引っ張る行為は、実に攻撃の一形態なのである。

人間には「攻撃」の本能があって、「攻撃抑止」の本能がない。人間の攻撃抑止は「言語」によるプログラムによって構築される。

獲得形質は「言語」によって遺伝する。人間は「言語」を使用することで、獲得形質の遺伝を可能とする。

「言語」が「文字」にバーションアップされると、獲得形質の遺伝はより確実なものとなり、「進化」の速度が格段にアップするようになる。

人類の進化は、個体の寿命によって制限が掛けられている。

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2014年2月 9日 (日)

恨みと真実

多くの人は騙されることを望んでいるのであり、真実を語る者は誰であろうと恨まれる。
詐欺師が真実を語ると、詐欺を騙った事ではなく、真実を語ったことによって人々から恨まれる。

本人が幸せである限り、その人に誰も干渉する必要は無い。
つまり、求められているのでない限り、他人に自分の幸せを分け与えることは出来ない。

日本人を止めなければ日本人が目覚めることはない。


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リストカットとフォトカット

ぼくはリストカットはしませんが(笑)、しかし写真をカットする手法に頼らずに、どのように「写真」を成立させるか?と言うことをここ数年模索し続けています。
もちろん、フォトモを止めるつもりはないですが、作家として表現の幅を広げるために、これまで自分が頼りすぎていた手法を「封印」することは必要ではないかと思うのです。

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2014年2月 3日 (月)

芸術の神髄

太宰治『人間失格』読んでますが、思いもかけず、芸術の真髄が書かれてました。芸術の真髄とはつまり「お化けの絵」です。

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