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2014年3月

2014年3月31日 (月)

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新宿三丁目の竹林閣で開催された『彦坂塾』。
月の第五週目なので、受講生が作品を持ち寄り合評会が行われ、そのあと懇親会でした。

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2014年3月29日 (土)

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京橋のTIPにてトークイベント写真の話をしよう『糸崎公朗と改造カメラワールド』開催。
その後、彦坂尚嘉さんと銀座と渋谷にて夜景写真作品の撮影。

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2014年3月28日 (金)

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岩手から谷林めぐみさんがいらっしゃいました。

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2014年3月27日 (木)

親からの興味と他人への興味

親に興味を持たれないままに育った人は、他人への興味を失ったまま大人になる。
親に興味をもたれずに育った子供は、他人に興味を持たない大人へと育ち、自分の子供にも興味を持たず、そのようや自分にしか興味を持たない人が再生産される。
他人と対峙せずに、他人を通り越して「神」と対峙しようとする人がいる。
しかし実のところその「神」とは、自分自身を拡大投影した鏡に過ぎない。
そのような人は、結局のところ、肥大化した自己愛に閉じこもっているに過ぎない。

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2014年3月26日 (水)

神は全てを知り、人は全てを忘れている

自然に進化と生態系があるように、文化にも進化と生態系がある。

生物の分類は進化の系統を根拠としており、文化の分類は歴史の系統を根拠とする。

全てを見通しながら、人からはその姿をけっして見ることが出来ない「神」の視点とは、タカのような捕食者が上空から獲物を狙う視点にその根拠を持つ。

人は「神」というニッチ=生態的地位を作り出す。 人類は農業の技術を手に入れることで、環境に新たな生態系を創造し、新たなニッチ=生態的地位を創造した。王様も神様も、文明という新たに創造された生態系のニッチに他ならない。

人はミニチュアを手に入れることで、擬似的に王様や、神様や、あるいはタカのような捕食者になることができる。 人は愛玩物を手に入れることで、擬似的な生物学的優位性を手に入れることができる。

世界そのものを、何の目的もなく見る視点、見ることそれ自体を目的とした視点により「風景」は生じる。 風景は自明に存在するのではなく、風景の発見と創造の歴史を持つ。

「写真」によって新たな風景が創り出され、新たな風景によって新たな写真が創り出される。 風景は、文学によって産み出される。

人類の歴史は言語に蓄積された集合無意識の歴史でもある。 人は誰でも歴史を内在している。遺伝子に蓄積された生命の歴史と、言語に蓄積された無意識の歴史と。

人は教えられたこと以外は全部忘れているのであり、教えられたこと以外の忘れたことを想起することが「考える」ことなのである。

人は全てを忘れて産まれてくるのであり、教えられた分だけそれらを思い出す。つまり、人は教えられた以上のことを忘れているのであり、それらを想起することが「考える」ことに他ならない。

神は全てを知り、人は全てを忘れているのであり、それ以上の違いは無い! 人は本来、神と同様に全知全能なのだが、全てを忘れて産まれてくるところに違いがある。そして人類は、今やiPhoneを想起した!

知ることと、思い出すことは同じ。人が全知全能の神になれないように、人は全てを思い出すことは出来ない。しかし人は可能な限り多くを思い出そうとし、神に近づこうとする。

人が想起能力は寿命により制限され、故に人は全てを想起することが出来ず、神にはなれない。

プラトンの想起説を、アフォーダンス理論と結び付けること。つまり知性は脳内ではなく環境に存在し、記憶は環境から想起され、環境へと忘却される。

人が生まれるということは、環境から想起されることであり、人が死ぬということは環境へと忘却されること。即ち、生物の誕生は環境からの想起であり、生物の死は環境への忘却なのである。

カマキリが産まれるということは、カマキリがカマキリであることを思い出すことであり、カマキリが死ぬということは、カマキリがカマキリであることを忘れることである。  誕生とは想起であり、死とは忘却である。

昆虫のように、生きるのに必要な全てを思い出して産まれてくる生き物と、人間のように殆ど全てを忘れて産まれてくる生き物とがある。しかし実はそうではなくて、人間は身体と精神の想起にズレがあり、昆虫にはそのようなズレが無く、そのような違いがある。

人間が産まれるということは、人間が人間の身体を思い出すことに他ならない。しかし産まれたばかりの人間は、人間の精神のなんたるかを忘却したままで、教育により徐々にこれを想起しなければならない。

以上、 何でも想起だと言い換えると、ただ言い換えてるだけじゃないか!と批判されそうだが、実際その通りで、どこまで適用できるか確認する方法論として、何にでも当てはめてみた次第。

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知ることと思い出すこと

知ることと、思い出すことは同じとは言えないだろうか?人が全知全能の神になれないように、人は全てを思い出すことは出来ない。しかし人は可能な限り多くを思い出そうとし、神に近づこうとする。

人が想起する能力は寿命により制限され、故に人は全てを想起することが出来ず、神にはなれない。

プラトンの想起説を、アフォーダンス理論と結び付けること。つまり知性は脳内ではなく環境に存在し、記憶は環境から想起され、環境へと忘却される。

人が生まれるということは、環境から想起されることであり、人が死ぬということは環境へと忘却されること。即ち、生物の誕生は環境からの想起であり、生物の死は環境への忘却なのである。

カマキリが産まれるということは、カマキリがカマキリであることを思い出すことであり、カマキリが死ぬということは、カマキリがカマキリであることを忘れることである。

誕生とは想起であり、死とは忘却である。

昆虫のように、生きるのに必要な全てを思い出して産まれてくる生き物と、人間のように殆ど全てを忘れて産まれてくる生き物とがある。しかし実はそうではなくて、人間は身体と精神の想起にズレがあり、昆虫にはそのようなズレが無く、そのような違いがある。

人間が産まれるということは、人間が人間の身体を思い出すことに他ならない。しかし産まれたばかりの人間は、人間の精神のなんたるかを忘却したままで、教育により徐々にこれを想起しなければならない。

何でも想起だと言い換えると、ただ言い換えてるだけじゃないか!と批判されそうだが、実際その通りで、どこまで適用できるか確認する方法論として、何にでも当てはめてみた次第。

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2014年3月25日 (火)

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OLYMPUS TG-850にて花の写真撮影。
アストロアーツにてムック本の打ち合わせ。

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2014年3月24日 (月)

貧しさを引き受ける

貧しい者は、金が貧しいのではなく、精神が貧しいのだと、多くの本に書かれているのである。だから貧しさは「産まれ」と「育ち」の問題でもあって、貧しい者は己の貧しさと向き合い、己の貧しさを引き受けなければならない。

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2014年3月23日 (日)

無知・無能・無芸術

無能力という能力が存在するように、無芸術という芸術が存在する。

無力という力が存在するように、無芸術という芸術が存在する。

無気力という気力が存在するように、無芸術という芸術が存在する。

無秩序という秩序が存在するように、無芸術という芸術が存在する。
無限という限界が存在するように、無芸術という芸術が存在する。
無知という知が存在するように、無芸術という芸術が存在する。
無謬という謬りが存在するように、無芸術という芸術が存在する。
無理という道理が存在するように、無芸術という芸術が存在する。

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情報化時代と知恵の実

情報化時代は記憶喪失の時代。

記憶が外部化され人々は記憶喪失のまま安堵する。
そもそもプラトンの「想起説」によれば、人は全ての記憶を喪失して産まれ、アリストテレスが『形而上学』で指摘したように、「考える」とは「始原に遡って想起する」ことであり、情報化時代の人々は考えることを喪失している。
情報化時代の人々は「情報」という「知恵の実」を食べる。
あたかもエデンの園のアダムとイブのように、神様が作った「知恵の実」を、情報化時代の人々は食べる。
情報化時代の人々は考えない。
情報化時代の「考え」は、エデンの園の「知恵の実」のように存在し、人々は自分で考えずに(神様がご用意された)木になっている「知恵の実」を採って食べる。
そのような時代に「自分で考えようとする者」は、「神様に反逆する愚か者」として軽蔑され嫌われる。
情報化時代において「考え」は「知恵の実」として神様から与えられる有り難いものであり、従って「自分で考えること」は実に恐れ多い神様への反逆であり、これを犯したものは徹底的に潰される。
情報化時代において、実のところ「神様」の権威が復活している。
人々は個人のクリエイティビティに背を向け、「神様の言葉」だけを聞こうとする。
「神様の言葉」は世間の言葉、世間の常識、引き写しの言葉、として現れる。 個人が神様に反逆する余地はない。
情報化時代の人々は「引き写し」の知識を求める。
「引き写し」であることがその確からしさを保証し、知としての権威を保証し、すなわちそれは「神の権威」と結びついている。

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正しさと正しさ

人は誰でも、悪人ですらも、自らの「正しさ」を生きる。
人の数だけ「正しさ」の種類があり、どれほど種類が異なろうとも「正しさ」という点では皆同じ。
どれほどお互いの意見が異なろうとも、双方が「正しさ」を主張している限りにおいて、そのどちらもが「正しい」。
「正しさ」とは「正しさを主張すること」に他ならず、それがどのような内容であるかは一切関係が無い。

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六会日大駅前付近にて、なんだかよく分からない新築の建物。

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彦坂尚嘉さんと、松濤美術館に『ハイレッドセンター展』を観に行く。

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2014年3月22日 (土)

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*トークイベントのお知らせ

■写真家のお仕事、徹底解剖!トークシリーズ 写真の話をしよう vol.27 糸崎公朗
『糸崎公朗のフォトモと改造カメラワールド』
http://www.tip.or.jp/phototalk27.html

写真を切り抜いた立体作品「フォトモ」の手法でお馴染みの糸崎公朗さん。
写真の常識を覆す表現として、国内外で反響を呼んでいます。
そんな糸崎さん、実は改造カメラの達人としても知られています。
糸崎さんのカメラ改造は、あくまで新しい写真技法を生み出すための手段。
写真はカメラが生み出すものですが、カメラを改造すれば新しい写真表現の可能性も広がるのです。
糸崎公朗さんのユニークで多彩な表現を「フォトモ」と「改造カメラ」をキーワードにご紹介します。
(イベント開催情報より)

催日時   
2014年3月29日(土)
13:00~14:30 (受付12:30~12:50)

参加費   
3,000円(一般価格)
2,500円(写真教室生徒・ファット.extの会員価格)
2,000円(T.I.P会員価格)※さらにプレミアムチケット使用可

会場・問い合わせ先    
TOKYO INSTITUTE OF PHOTOGRAPHY
東京都中央区京橋3-6-6エクスアートビル1F
03-5524-6994 photo@tip.or.jp

定員   
30名

イベント詳細
http://www.tip.or.jp/phototalk27.html

申し込みフォーム
https://business.form-mailer.jp/fms/7f7b415b23845

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2014年3月21日 (金)

信仰と恣意性

あらゆる信仰は恣意的であり、原因に必然性が無く、結果に拘束力がある。

信仰の恣意性から逃れるには、実データの蓄積量を増やすこと。実データが増えるごとに恣意性は必然性へと変化する。

信仰の恣意性から逃れるには、比較サンプルを増やすこと。比較サンプルが増えるごとに、恣意性は必然性へと変化する。

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オリンパスの古い魚眼コンバーターと、E-PL5と手持ちのレンズとの組み合わせで撮ってみだが、どうも画質はイマイチで相性が良くない模様。

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2014年3月18日 (火)

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美味しい牛乳を求め、近所の牧場を彦坂尚嘉さんに案内してもらい、看板の裏に自転する文字を発見する。

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動物とイデオロギー

多くの人は、自分が自分ではないものに変わってしまわないように、あらゆる変化の可能性を潰し続ける。

イヌはイヌとしての本能に従うからイヌであり、ネコになる可能性は無い。
しかし人間は(いわゆる本能が壊れているせいで)何にでもなれる可能性を持っている。
それだけに、多くの人は自分が容易に変化するのを恐れ、あらゆる変化の可能性を恒常的に潰している。

イヌの精神はいわゆる本能によってその形が固定化されているが、人の精神は(いわゆる本能が壊れているせいで)固定化されておらず、いかようにも変化する可能性に満ちている。
多くの人は変化しやすく不安定な精神を固定化するため、あらゆる変化の可能性を潰している。

イデオロギー的な人は動物的な人であり、イデオロギー化することは動物化することに他ならない。
なぜなら、あらゆる動物は種に固有のイデオロギーによって生きているのであり、人間だけが種に固有のイデオロギーを持たず、いかようにも変化する可能性を持つからである。

本来、人間の精神は極めて変化しやすく不安定で、一時も「自分」を保つことは出来ない。
なぜなら人間の精神は様々な「他人の言葉」により構成され、故にさらなる「他人の言葉」に感染し、容易に変化し得る。
だから多くの人は「自分」を保つため「他人の言葉」をシャットアウトし変化の可能性を潰す

人の精神は本来的に極めて不安定であり、故に多くの人は精神の安定を得るためにイデオロギー化=動物化する。

人間は動物として何をなすべきかが本能として決まっていない。
だから人間は、何をなすべきかという欲望を、他人の欲望からコピーする。

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2014年3月17日 (月)

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ブラジルに赴任中の及川義明さんからすごいハガキが届く。

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デジカメWatch連載のための「影絵カメラ」で撮影。

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新宿三丁目の竹林閣にて「彦坂塾」第3回開催。
授業1:「人類史700万年の芸術鑑賞会 産業社会の反−文明」
授業2:「美味しいもの味覚鑑賞会 」
コーラ、シュウェップス、牛乳、水道水など飲み比べました。

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反省と類型

柔軟な人は重い荷物を躊躇無く捨てられるが、頑なな人は軽い荷物を後生大事に抱えている。

賢者は自分にとって価値あるものでも、他人にとっては無価値であることを知り、躊躇無くそれを捨てることができる。

「自分がそう思うこと」と「実際にそうなっていること」は多くの場合ズレがある。

反省とは、自分の凡庸さをよく観察することで自覚し、類型化する作業である。
なぜなら、自分の個性だと信じているものは、無自覚のうちに他人の影響によって形成されたものであり、それは凡庸で無個性的で類型的なのである。
この反省を経なければ、真にかけがえのない個性を獲得することは出来ない。

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2014年3月16日 (日)

商売と真心

「兵は詭道なり」と孫子に記されているとおり「商は詭道なり」なのだが、消費者もみすみす騙される人々だけとは限らず、だから商売には「真心」も重要な要素となる。
いや戦争においても、特に強い相手に対しては、敬意を持って接するのであり、だから商売上の強敵である「ものの分かった消費者」に対しては、単なる騙しのテクニックとは異なる「真心」を込めることが、重要な要素となる。
尊敬に値しない弱い敵に対しては「兵は詭道なり」の孫子の言葉通り、騙しのテクニックでうち勝てば良い。同じく、尊敬に値しない弱い客に対しては、騙しのテクニックでうち勝てば良い。という商売の仕方が存在する。
一方で、強い武将ほど強い敵を尊敬し、その念を抱きつつ勝負に挑み、雑魚は相手にしない。そのように、真に価値のある商品は、強い敵(消費者)に勝負を挑んているのであり、基本的に雑魚は相手にしない。

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藤沢北警察署の前で三角の建物を発見。

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2014年3月15日 (土)

迷いの森と信仰の平原

イデオロギーとは、自分にとってその正しさに疑う余地が無く、同時に他人にとっては疑わしいものを指す。

イデオロギーは、他人から聞いた考えを、自分オリジナルの考えだと勘違いすることで生じる。

自分の感覚を基準に物事を判断する限りに於いて、誰もが一律に正しい。

ウサギが正しくヘビが間違っている、と言うことはあり得ず、ニンニクは正しくアサガオが間違っている、と言うこともあり得ず、そのようにして全ての異なるイデオロギーは一律に[正しい」。

神様が作ったものは「神様が作った」という理由でその全てが美しく、人間が作ったものは「たいていの人間は間違いを犯す」という理由でその大半は美しくない。

神様が作ったものは、例え自分にそれが美しいとは思えなくとも、自分にその美しさが分からないだけであって、「神様が作った」という理由によって美しい。

「信仰」とは「迷いのジャングル」を抜けたところの「到達点」であり、そこには「思考停止の平原」がどこまでも広がっている。

「迷いの森」を抜けた到達点、「思考停止の平原」においては、全てのものは一律に美しく、全ての人は一律に正しく、醜いもの、間違ったものは何一つ存在しない。

「相手は間違っている」とお互いに言い合うそのどちらもが「正しい」のであり、「間違い」はどこにも存在しない。

「思考停止の平原=信仰の平原」

「信仰の平原」においては、全てが美しく、全てが素晴らしく、全てに価値があり、全てに意味がある。
突出したものは何も無く、全てが突出した「平面」として世界は広がっている。

「信仰の平原」に到達すると、信仰すること意外に、考えることも、感じることも、見ることも、聞くことも、読むことも、何もかもする必要が無くなる。

迷いの森を抜け「信仰の平原」に到達すると、その先にはもはや何もなく、それ以上に他人の話を聞く必要も無くなり、他人に興味を持つこともなくなり、他人と交わる必要も無くなる。

選択肢がなければ信念を曲げることはできず、選択肢があれば信念をクネクネと曲げることができる。

揺るぎない信念を持つ人は選択肢を持たない。

信仰に囚われている人は選択肢を失っている。

信念にこだわる人は選択肢を失っている。
あたかも、イヌがネコになるという選択肢を失っているようなものである。

他のあらゆる選択肢を拒絶することで、迷いの森を抜け信仰の平原に至ることができる。

実に単純な世界に迷いはない。例えば、南無阿弥陀仏と唱えれば誰もが成仏できると言うように。

平等主義者は、平等主義によって、他のいかなる主義よりも優位に立てると信じている。

平等主義者は平等以外の選択肢を奪われている。

自らが劣っていると自覚した者は平等主義によって他人より優位に立とうとする。

自分以外はみんなバカ、と言う平等主義者が存在する。

誰にでも平等に訪れるものが死であり、平等主義をとなえる者は生きながら死んでいる。

根拠と自分の勘とは異なる。

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2014年3月14日 (金)

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青森から来られた城田安幸さんに新宿でお会いしました。
彦坂尚嘉さんとも話が弾んで、意気投合してました。

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2014年3月12日 (水)

成長と変身

人は自分が何を良いと思うかを他人から教えられる。

人は誰でも心の中に一匹のサルを飼っていて、そのサルを飼い慣らしている人と、野放しにしてる人がいる。
サルを野放しにしてる人は、心がサルに乗っ取られ、自分がサルを飼っていることも、自分が人間であることも忘れてしまう。
サルを飼い慣らしている人だけが、自分がサルを飼う人間だと理解してる。

秘密のアッコちゃんみたいに、子供のまま大人の職業人に変身した人は実に多い。

「ガンダムに乗った少年」のような大人は実に多い。お前の実力でなく、モビルスーツの性能で勝ち、モビルスーツを取り上げられると何もできなくなるという…

成長ではなく、変身を望む人は実に多い。

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2014年3月11日 (火)

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藤沢市の『前衛実験NETART』にて、『東日本大震災四回忌 《垂直海忌コンサート》』開催。

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2014年3月10日 (月)

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新宿三丁目の竹林閣にて「彦坂塾」第二回目。
授業1は、彦坂尚嘉先生による「人類史700万年の芸術鑑賞会 文明の芸術」。
授業2は彦坂尚嘉先生と、小路摩耶先生による「日本のポエム鑑賞と創作の会 」。

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2014年3月 8日 (土)

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自作LEDライトによる写真作品撮影。

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2014年3月 7日 (金)

自分の姿とポジション

オギュスタン・ベルク『日本の風景・西欧の景観』(講談社現代新書)を読みながらメモ。

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自分の姿を周囲に紛らわせて目立たなくする事。
自分の姿を実際より大きく見せること。
武器を持っていないのに持っているように見せかけること。
これらは野生動物の習性であり、そのような習性を持つ人は、動物としての特徴を備えている。

芸術をはじめとする全ての人工物は、人間精神の結晶なのである。

人の顔はディスプレイ装置であり、その人の精神を映し出している。

人は他人より優位に立つことで安心を得る。
これは生物学的な根拠に基づく性質で、多くの動物にとっての優位とは「自分の姿を隠し、相手の姿が見える」というポジションで、これを得た動物は安心を得る。

風景を鑑賞するための美的図式、が存在する。

文学は現実の領域から出発し、図式化の作用により、想像上の領域を作り上げる。(オギュスタンベルク)

美的図式を持って風景を見る人と、美的図式を持たずに同じ風景を見る人とがいる。
美的図式を持つ人とそうでない人では、同じ風景を見ても見え方が異なっており、生物学的に言えば環世界が異なっている。

動物は自分より優位に立つ敵を恐れる。これを起源として、人の心に妬みの感情が生じる。

人は、各自が所属する社会環境から、風景をどう見るかという図式を与えられる。つまり社会環境によって、見える風景は異なる。

昆虫には不安や恐れの感情がないように観察される。
平時の昆虫は安寧に浸っているように観察され、その表情は無表情である。

人間も、真に安寧に浸る者は無表情なのかもしれない。
不安と対になった安心と、不安と対にならない単独で存在する安寧とがあり、安寧は昆虫的な無表情を生じる。

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彦坂尚嘉さんに、近所の庭園を案内してもらう。

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2014年3月 6日 (木)

認識と言語

アナーキズムは、肉体を否定的に捉えたプラトニズムに通じる。
なぜなら、肉体は、多細胞動物の身体は、本質的に差別構造があるから。
アナーキズムは身体の否定!

「知らない」という状態は人間にとってストレスであり、それには生物学的根拠がある。
動物にとって、餌の場所が分からない、敵の位置が分からない、ということは命取りであり、ストレスになる。
転じて、人間にとって凡ゆる「分からないこと」は(例え命に別条はなくとも)ストレスになる。
知ることの喜びは、餌のありかを知り、敵の居場所を知る動物の喜びに起源があり、知らないこと、わからないことの不安もまた同じ起源を持つ。

人間は記録と出力を繰り返す装置であり、その不正確さにおいて創造性を発揮する。

チョウが紫外線で世界を見るように、ヘビが紫外線で世界を見るように、コウモリが超音波で世界を見るように、イヌが嗅覚で世界を見るように、人間は「言語」によって世界を見る!

その動物の最も発達した知覚器官による認識を「見る」と表現するならば、イヌは嗅覚で世界を見て、耳で聞いて、目で嗅ぐ、という感じなのかもしれない。

言語は人が作ったものではなく、人が存在する以前から存在する⁈
人間は言語を創造したのではなく発見した?
あたかも、赤外線や紫外線、可視光線の7色を発見したかのように。

人類は遺伝子を発見し、そこには言葉が刻まれていた。
人類が存在する以前に言葉は存在する!
言葉から言葉が生じる。
遺伝子という言葉から生じた生物もまた言葉なのである。

「神は“光あれ”と言った」と旧約聖書にあり「初めに言葉があった」と新約聖書にあるが、つまり言葉は光や匂い物質と同じく、人の存在以前から存在する。

人間とは精神である、とキルケゴールは書いたが、人間以外の動物には意識はあっても精神はない?
動物の意識には覚醒の段階があり、意識レベルが一定以上に達すると精神が生じる。
意識レベルが落ちた状態の人間は、意識はあっても精神がない?

視覚が言語によって情報処理される。
視覚の中に言語による情報を読み取る。
言語は可視光線と同じく、あらかじめ世界に存在する?

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚があるように、言語覚が存在する。
聴覚を伴わない視覚やそうでない視覚があるように、があるように、言語覚を伴わない視覚と、そうでない視覚が存在する。

人間の視覚には言語覚が伴っているが、チンパンジーやネコの視覚には言語覚が伴っていない。
ということは、人間にも言語覚を伴わない視覚が存在するはず。

人間以外の、言語覚を伴わない知覚世界(環世界)のあり方を想像すること。

途中で失敗だったことに気付くことも運命だし、そこから修正しようと決意するのも運命だし、失敗を見逃したまま一生を終えるのも運命。
全ては始めから決まっている。

人は名前のない事物に名前を付けているのではなく、あらかじめ存在している名前を発見している。
プラトンの想起説の如く、人は様々なものの名前を忘れていて、名付けることは、忘却した名前を想起しているに過ぎない。

言語覚を伴う知覚と、言語覚を伴わない知覚とを峻別してみること。

目をシャットアウトすると、視覚に伴う言語覚もシャットアウトされ、言語覚を省いた近くが体験できる、かもしれない。

迷ったら、よりたくさんの判断材料を取り入れて、もっと大きく迷うこと。
小さな迷いほど下らないものはなく、迷いが大きくダイナミックになるほど偉大な知性へと近づく。

自分は「言語」というものに対して大変な思い違いをしていて、どうにかしてそれを修正しなければならない。

人間にとって、言語で言い当てられないものは存在しない、とするのは間違いだった⁈
人間にとって、言語で言い当てられないものはどのように存在するのか?
そもそも「非人称芸術」は言語で言い当てられないものと関係していたはず。
自己矛盾を見据えてこれ。解消しなければならない。

類型による認識。
初めて目にする木をなぜ「木」と認識できるか?類型を行っているのである。

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2014年3月 5日 (水)

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彦坂尚嘉さん撮影の木の写真(糸崎がiPhone5を貸したので)。

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糸崎公朗と彦坂尚嘉による夜景写真の撮影。

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糸崎公朗による自作LEDライトの写真作品。

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学歴とブランド

学歴社会とは、ものの価値がわからない社会を指す。

ブランド志向の人はものの価値がわからない人。

努力した人でなければ他人の努力は分からず、苦労した人でなければ他人の苦労は分からない。そうやって自分の価値を高めようとする人でなければ、物の価値は分かり得ないのだと思います。

もちろん、高学歴も努力の産物と言えるかもしれませんが、そこで満足して終わっている人が実に多いことが、3.11以降よく分かるようになりました。

発明と発見の本質な違いは何か?

創造と認識の違いとは何か?

新しくものを作ることと、新しくものを認識することの違いとは?

人は自分を基準にして他人を判断する。
よって、有能な人ほど他人を買いかぶり、無能な人ほど他人を見くびる。

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2014年3月 3日 (月)

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コニカミノルタプラザにて、佐久間元さんと、中藤毅彦さん。

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新宿三丁目の竹林閣にて、『彦坂塾』がスタート。

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風景と鏡

各自の自由を認めると、多くの人は不自由を選択する。

不安と自由は仲良し。

リベラルアーツ=自由に生きるための技術!

ふと立ち止まり、初めに何があったのか?を考えることが、自分について、世界について、考えること。

時代が変わると新たな進化が生じる。進化が停滞することで、新たな進化が生じ、新しい時代が始まる。モダンからポストモダンの変化もまた同じ。

どのように酷いと思われる状況も、たとえ破滅に向かっているとしか思えない状況であっても、明らかに以前より劣化しているように思えても、それらは時間の経過に伴う変化であり、従って「進化」に他ならないのである。

近代の終わり。ぼくらは近代が終わった時代を生きてきた近代を知らない世代なのである。

二種類のポスト近代がある。一つは糸の切れた凧の様に、近代から完全に遊離したポスト近代であり、もう一つは近代に根を下ろしたポスト近代である。

風景は自分自身の鏡だった!そもそも、風景に限らず、目に映る全てのものは鏡なのである。凡ゆる鏡に「自分」の何がどのように映し出されているかを、注意深く観察せねばならない。

風景は、街並みは、自分の精神の反映なのである。なぜなら自分というものはそもそも、風景=街並みを鏡として、その強い影響によって形作られているからである。

人は自分に都合の良い自己像を築き上げるが、真実とは自分に都合の悪いものを指し、都合の悪い自己像が即ち真実なのである。

真実とは都合の悪い自己像を指す。自己像とは自己を取り巻く世界像をネガとしたポジとして形作られる。

誰も自分を取り巻く風景から逃れることは出来ない。そして風景とは、自分自身を映し出し、自分自身を規定する「鏡」なのである。

人は誰でもいつでも思い違いをしている。人が信じていることと事実はまったく異なっている。人は誰でも自分が思うような自分ではないし、自分が思うような世界の住人ではない。

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2014年3月 2日 (日)

140302日記

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「前衛実験NETART連鎖個展 榎本貴政展」のシンポジウムが行われました。

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2014年3月 1日 (土)

神と博愛主義

人が変わらなければ世の中が変わることはない。
多くの人は変化することなく、それぞれが特殊に分化している。

平等は神の下においてしかあり得ず、博愛主義も神の下においてしかあり得ない。

神は世界に差異を、すなわち不平等をもたらす。そして、神の下に全てが平等なのである。

いったい、イヌが正しくてネコが間違っているということがあろうか?
そのように、どのような人間であっても「正しい」。

ハエが劣っていて、ウマが優れているのではない。
そのようにヒトは万物の霊長なのではなく、従ってどのような人間も皆それぞれに優れている。

人は皆、神の下に平等であり、しかし人は神ではない。

不平等の起源の一つは動物の餌にあり、餌となる動物とそれを餌とする動物との不平等がはじめに存在する。

多細胞生物は各細胞ごとに差別する構造によって身体を構築する。
差別の構造なくして多細胞生物は存在し得ない。

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