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2014年3月 3日 (月)

風景と鏡

各自の自由を認めると、多くの人は不自由を選択する。

不安と自由は仲良し。

リベラルアーツ=自由に生きるための技術!

ふと立ち止まり、初めに何があったのか?を考えることが、自分について、世界について、考えること。

時代が変わると新たな進化が生じる。進化が停滞することで、新たな進化が生じ、新しい時代が始まる。モダンからポストモダンの変化もまた同じ。

どのように酷いと思われる状況も、たとえ破滅に向かっているとしか思えない状況であっても、明らかに以前より劣化しているように思えても、それらは時間の経過に伴う変化であり、従って「進化」に他ならないのである。

近代の終わり。ぼくらは近代が終わった時代を生きてきた近代を知らない世代なのである。

二種類のポスト近代がある。一つは糸の切れた凧の様に、近代から完全に遊離したポスト近代であり、もう一つは近代に根を下ろしたポスト近代である。

風景は自分自身の鏡だった!そもそも、風景に限らず、目に映る全てのものは鏡なのである。凡ゆる鏡に「自分」の何がどのように映し出されているかを、注意深く観察せねばならない。

風景は、街並みは、自分の精神の反映なのである。なぜなら自分というものはそもそも、風景=街並みを鏡として、その強い影響によって形作られているからである。

人は自分に都合の良い自己像を築き上げるが、真実とは自分に都合の悪いものを指し、都合の悪い自己像が即ち真実なのである。

真実とは都合の悪い自己像を指す。自己像とは自己を取り巻く世界像をネガとしたポジとして形作られる。

誰も自分を取り巻く風景から逃れることは出来ない。そして風景とは、自分自身を映し出し、自分自身を規定する「鏡」なのである。

人は誰でもいつでも思い違いをしている。人が信じていることと事実はまったく異なっている。人は誰でも自分が思うような自分ではないし、自分が思うような世界の住人ではない。

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