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2014年3月26日 (水)

神は全てを知り、人は全てを忘れている

自然に進化と生態系があるように、文化にも進化と生態系がある。

生物の分類は進化の系統を根拠としており、文化の分類は歴史の系統を根拠とする。

全てを見通しながら、人からはその姿をけっして見ることが出来ない「神」の視点とは、タカのような捕食者が上空から獲物を狙う視点にその根拠を持つ。

人は「神」というニッチ=生態的地位を作り出す。 人類は農業の技術を手に入れることで、環境に新たな生態系を創造し、新たなニッチ=生態的地位を創造した。王様も神様も、文明という新たに創造された生態系のニッチに他ならない。

人はミニチュアを手に入れることで、擬似的に王様や、神様や、あるいはタカのような捕食者になることができる。 人は愛玩物を手に入れることで、擬似的な生物学的優位性を手に入れることができる。

世界そのものを、何の目的もなく見る視点、見ることそれ自体を目的とした視点により「風景」は生じる。 風景は自明に存在するのではなく、風景の発見と創造の歴史を持つ。

「写真」によって新たな風景が創り出され、新たな風景によって新たな写真が創り出される。 風景は、文学によって産み出される。

人類の歴史は言語に蓄積された集合無意識の歴史でもある。 人は誰でも歴史を内在している。遺伝子に蓄積された生命の歴史と、言語に蓄積された無意識の歴史と。

人は教えられたこと以外は全部忘れているのであり、教えられたこと以外の忘れたことを想起することが「考える」ことなのである。

人は全てを忘れて産まれてくるのであり、教えられた分だけそれらを思い出す。つまり、人は教えられた以上のことを忘れているのであり、それらを想起することが「考える」ことに他ならない。

神は全てを知り、人は全てを忘れているのであり、それ以上の違いは無い! 人は本来、神と同様に全知全能なのだが、全てを忘れて産まれてくるところに違いがある。そして人類は、今やiPhoneを想起した!

知ることと、思い出すことは同じ。人が全知全能の神になれないように、人は全てを思い出すことは出来ない。しかし人は可能な限り多くを思い出そうとし、神に近づこうとする。

人が想起能力は寿命により制限され、故に人は全てを想起することが出来ず、神にはなれない。

プラトンの想起説を、アフォーダンス理論と結び付けること。つまり知性は脳内ではなく環境に存在し、記憶は環境から想起され、環境へと忘却される。

人が生まれるということは、環境から想起されることであり、人が死ぬということは環境へと忘却されること。即ち、生物の誕生は環境からの想起であり、生物の死は環境への忘却なのである。

カマキリが産まれるということは、カマキリがカマキリであることを思い出すことであり、カマキリが死ぬということは、カマキリがカマキリであることを忘れることである。  誕生とは想起であり、死とは忘却である。

昆虫のように、生きるのに必要な全てを思い出して産まれてくる生き物と、人間のように殆ど全てを忘れて産まれてくる生き物とがある。しかし実はそうではなくて、人間は身体と精神の想起にズレがあり、昆虫にはそのようなズレが無く、そのような違いがある。

人間が産まれるということは、人間が人間の身体を思い出すことに他ならない。しかし産まれたばかりの人間は、人間の精神のなんたるかを忘却したままで、教育により徐々にこれを想起しなければならない。

以上、 何でも想起だと言い換えると、ただ言い換えてるだけじゃないか!と批判されそうだが、実際その通りで、どこまで適用できるか確認する方法論として、何にでも当てはめてみた次第。

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