情報化時代と知恵の実
情報化時代は記憶喪失の時代。
記憶が外部化され人々は記憶喪失のまま安堵する。
そもそもプラトンの「想起説」によれば、人は全ての記憶を喪失して産まれ、アリストテレスが『形而上学』で指摘したように、「考える」とは「始原に遡って想起する」ことであり、情報化時代の人々は考えることを喪失している。
情報化時代の人々は「情報」という「知恵の実」を食べる。
あたかもエデンの園のアダムとイブのように、神様が作った「知恵の実」を、情報化時代の人々は食べる。
情報化時代の人々は考えない。
情報化時代の「考え」は、エデンの園の「知恵の実」のように存在し、人々は自分で考えずに(神様がご用意された)木になっている「知恵の実」を採って食べる。
そのような時代に「自分で考えようとする者」は、「神様に反逆する愚か者」として軽蔑され嫌われる。
情報化時代において「考え」は「知恵の実」として神様から与えられる有り難いものであり、従って「自分で考えること」は実に恐れ多い神様への反逆であり、これを犯したものは徹底的に潰される。
情報化時代において、実のところ「神様」の権威が復活している。
人々は個人のクリエイティビティに背を向け、「神様の言葉」だけを聞こうとする。
「神様の言葉」は世間の言葉、世間の常識、引き写しの言葉、として現れる。
個人が神様に反逆する余地はない。
情報化時代の人々は「引き写し」の知識を求める。
「引き写し」であることがその確からしさを保証し、知としての権威を保証し、すなわちそれは「神の権威」と結びついている。
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