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2014年4月

2014年4月23日 (水)

「反省芸術2.0・糸崎公朗blog3.2」に移行します

2007年2月10日 (土)から始まったこのブログですが、下記のブログに移行することにしました。

ココログさんには以前あったサービス「ココログセレブ」にも登録していただいて、たびたび記事を取りあげてもらったりと、お世話になりました。
またココログは無料にもかかわらずアクセス解析が充実していて、単なる数字以外に細かいデータまで表示してくれて、その点は大変に便利でした。
が、一方ではいろいろ使いにくい面も気になってきて、どういうわけか、ある時からテキストの行間を空けて書くことが非常に難しくなってしまい・・・自分の設定方法が間違っているのかも知れませんが、色々やっているうちに疲れてしまいました(笑)
というわけで、このブログは2014年4月分から「はてなブログ」に移行しますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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2014年4月21日 (月)

存在と証拠

現実が存在する証拠が不足し、現実を完全に取り逃がすと、人はそこで死ぬ。
目が見えなくなると、人はその分だけ現実が存在する証拠を失う。が、耳や鼻や手触りなどを使って別の証拠を集めることもできる。
寒いと感じることは、気温が下がったことの証拠であると同時に、自らの生命が脅かされている証拠でもある。
自分がこの作品を「好きだ」と思うことが、この作品が優れている証拠となり得るのか?
自分がこの店のラーメンを「美味い」と判断することが、この店のラーメンが本当に美味いことの証拠になり得るのか?
自分がこの温泉の湯を「熱い」と感じることが、この温泉の湯が本当に熱いことの証拠になり得るのか?
さまざまな自分の記憶が、世界が存在する証拠となる。人はあらゆる自分の記憶を証拠として、世界が存在すると信じる。
自分が毎日会社に行っているという記憶が、会社が存在する証拠となる。
この道の先に駅があるという記憶が、駅が存在する証拠となる。
吉野家で牛丼を食べた記憶が、吉野家の牛丼が存在する証拠となる。
人は何事も証拠だけで判断し、そのための証拠集めをしている。
経験的直感に逆らって諦観することが本質把握。
現象学の領域。
現実と思えるものは、様々な意味によって組み立てられている。それらの意味を解体すること。
目の前にあるものが、本当に存在すると、自然に信じる気持ちに依拠するのが自然主義。
自然主義者は疑うことを知らない素朴な人。
疑う心は邪悪な心、素朴な心はピュア心。
自然主義的に自己観察や反省をしても、現象学的には意味が無い。
「目の前にあるものが、本当に存在するわけでは無い」と知識として知っていることと、そのような見方を徹底することは異なる。
個体は本質では無いが、本質を持っている。
単独者は永久に限りが無い。

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自己保身と自己犠牲

「貧すれば鈍する」からこそ「痩せ我慢」が意味を持つ。

貧して鈍するのは「文明性」であり、貧すごとに人は「自然性」に還る。

自分の身を守るのが「自然性」だとすれば、その反対の「文明性」とは自分の身を呈することにある。


自己保身は生物に共通の自然性であり、自己犠牲は反自然的な文明性なのである。


生物にも自己犠牲的行動は見られるが、リチャード ドーキンスによればそれは遺伝子を守っているのである。

遺伝子を守るのが自然性なのだとすれば「遺伝子を外在化した言語による行動プログラム」を守るのが文明性だと言える。

例えば、我が子を戦地に送り、統治者としての誇りを守る王や貴族のように。


自己保身は身を滅ぼし、自己犠牲は身を助ける。

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2014年4月20日 (日)

鏡のアフォーダンス

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私は「物」を見ているのであり、写真には「物」が写っている。

「物」を見ることと、「写真に写る物」を見ることの違い。

「目に映る物」を見ることと、「写真に写る物」を見ることとの違い。

「目に映る物」を見ることと、「目に映る写真に写る物」を見ることとの違い。

「目に映る写真に写る物」を見ることと、「目に映る写真に写る写真に写る物」を見ることとの違い。

人間はミラーマンであり、その他の動物はミラーマンではない。

水を飲用としてのみならず、鏡として利用するのは人間だけ。

鏡のアフォーダンス。

人の身体は、人の身体のみで完結しておらず、身体外部に存在する「鏡」もまた、人間ならではの身体の一部なのである。

進化論的に、鏡は生物身体のどの部位に発生したか?一つは眼球の光量増幅のための反射鏡として存在する。

またある種の昆虫は、鏡を擬態として利用する。

また、イカやタコの身体構造が鏡だとすれば、これも擬態に利用される。

いや違うのだ。動物の目は本質的に鏡なのであり、外部にもう一枚の鏡を見出す人の目だけが「合わせ鏡」になっている。

鏡は本質的に合わせ鏡なのである。

本質認識は事実認識ではない。

事実を事実として見ない人は、事実が存在する証拠を隠蔽しているに過ぎない。

知覚するのではなく、知覚を知覚すること。

すなわち、見るのではなく、見ることを見ること。

そして、写真を撮るのではなく、写真を撮ることを撮ること。

見るだけの人と、見ることを見る人とがいるように、写真を撮る人と、写真を撮ることを撮る人とがいる。

絵描きにも、絵を描く人と、絵を描くことを描く人とがいる。

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2014年4月19日 (土)

犯人と証拠

世の中には、本当に偉い人と、偉そうにしてる人の二種類がいて、その区別はなかなか難しいのですが、本当に偉い人は偉そうにしている人を見分けるので、偉そうにしてる人は本当に偉い人を嫌うのです。
何事もためらうごとに反復するチャンスを失う。
世の中を渡ってゆく上で「性格の悪さ」は問題にならない。
素朴で自然的認識には魅力があり、そこから目を逸らすことは非常に困難。
現象を現象として捉える視点が本質諦観。
人間の視界は、光学的スクリーンと、心理的スクリーンの、二つのスクリーンが重なっている。
我々はいつでも「証拠」と「犯人」を取り違える。なぜなら、原理的に「犯人」を特定することは出来ない状況であるにもかかわらず、人はその原理に背き、いつでも「功を焦っている」からである。
素朴な人は功を焦って、証拠と犯人を取り違え、見てもいない現実を「見た」と言い張る。
つまり、デジカメの撮像素子には「ローパスフィルター」や「IRカットフィルター」が装着され、専門技術を修めた人はそれを分解し取り外すことが出来る。同じように、人の精神に備わった種々の認識フィルターを、専門技術を修めることにより分解し取り外すことが出来る。そのためにフッサールを読む!
実のところ多くの人は「人を見る目が無い」のであり、優れた人も、邪な人も、聖のオーラも、負のオーラも、見分けることが出来ない。従って、世の中を渡ってゆく上で性格の悪さは問題にならず、さらに言えばまともな人ほど無視される。
随伴的思念を少しも含んでいない純粋直覚(フッサール : 厳密な学としての哲学)
デジカメで写真を撮るのではなくデジカメを分解してその構造を解析するように、目で「見る」のではなく「現象」を解析する本質直覚。
人はそれぞれに適合した「歪んだ鏡」を求めているのであり、完全なる平面鏡は避けられる。
歪んだ人は、自らの歪みを矯正する「歪んだ鏡」を必要とし、歪みを映す「平面鏡」を忌み嫌う。
人気者は自ら進んで「歪んだ鏡」となり、多くの人はそれを選ぶ。
微妙な色と色、微妙な音と音を区別くるのは難しいが、色と音とを区別するのは簡単だという不思議…我々は騙されている??
色は音かも知れず、音は色かも知れず、なぜなら色のリズムや音色が存在する。
とは言え、人は光と音とを取り違えることは無い!
光と音の取り違えのない絶対的な相違が《本質》となる?
知覚、想像、回想、判断、感情、意志、並びにそれら一切の無数の特殊形態といったようなあの周知のタイトルに対応している自我。(フッサール : 厳密な学としての哲学)
知覚と、意志と、感情移入。
見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。
物があってそれを見るのではなく、見ることによって物が生じるのでもなく、見ることがすなわち物なのである。
物があってそれを撮るのではなく、撮ることによって物が生じるのでもなく、撮ることがすなわち物なのである。

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140419日記

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国立新美術館に中村一美展を観に行く。

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2014年4月17日 (木)

構造と反復

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人は目覚めている間もずっと夢を見ていて、その夢から逃れることは出来ず、目覚めることはない。

即ち、人は夢の中で傷付けば現実に傷つき、夢の中で失敗すれば現実に失敗し、夢の中で死ねば現実に死ぬ。

夢の中にしか生きえない人にとって、夢でしかあり得ないものが現実でしかあり得ないものになる。

現象は現実とは異なるが、現象と現実は連関している。

似たことが繰り返されることが「関係」と言われる。

記憶が反復を支えている。

iPhoneのカメラアプリを立ち上げると、液晶に風景が映し出される、という「現象」が生じる。この現象は、人の認識として現れる「現象」と同一ではないが、共通する要素も持っている。

われわれは現実を見ているのではなく、現実が存在する「証拠」を見ている。現実は決して直接見ることは出来ず、間接的な証拠だけを見て、現実の存在を確信している。

反復の記憶が現実の存在の証拠となる。

移動が反復を生み出す。

もし、網膜に映る像が固定されてしまったならば、目は見えていても何も見えていないのと同じことになる。

人間は他人を見て、自分が存在する証拠を掴む。

自分の存在は他人が存在することの証拠となる。

構造とは反復であり、反復のないものに構造はない。

オリジナリティの高いものは内在する反復を持っている。

自分の絵を見ながら描く、自分の音楽を聞きながら演奏する、ということには反復が含まれ、見ないで描き、聞かないで演奏することの内に反復はない。

反復は生命の本質

反復が終わると生命も終わる

内在的反復と、外在的反復とがある。

人は見えない「現実」が存在する証拠を集めながら、その証拠の隠蔽工作を図る。

人は現実から目を背けるのではなく、その証拠の隠蔽工作を図る。

人は現実が存在する証拠を見つけてはそれを隠す。

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2014年4月15日 (火)

現象学の練習

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我ながら頭が石のように固くて呆れてしまう。

自分の頭の固さを意識すると、少しずつ頭が柔らかくなる…

現象学的な「構」を首尾一貫して純粋に守ること、

自然的な「構」のうちで生活し、考え、心理的なものを自然主義的に変造してゆくという、自然発生的な習慣を克服するのは、生易しいことではない。-フッサール

世界は存在しているのではなく反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復されている。

目の前のものは存在するのではなく繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返しり返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返しり返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返しり返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返されている。

我々はものを見ているのではなく何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も見ている。

人はものを見ているのではなく見たものを回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想している。

人は人生を生きるのではなく反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復する。

認識してるのではなく記憶が回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰している。

認識ではなく感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入している。

フッサール読みながら現象学の練習してます。

言葉には明快な階級差があり、つまり哲学が難解なのも、そういうこと。

世界を存在としてではなく現象として語ること。

目の前に人が存在しているのではなく、目の前に人があたかも存在しているように現象している。

目の前の人は物理的な存在ではなく、心理的な現象。

カメラで写真を撮っただけでは写真にはならず、撮ったフィルムやデータを現像しなければ写真にはならない。このように、写真とは現象であり、人間もまた同じ。

現象は自然ではない。

現象は自然ではなく本質を持っている。

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2014年4月14日 (月)

文明と背理

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感情移入と認識。

時間の流れ。諦観と経験。

油断すると、文明人の精神はすぐに自然化し、文明人しての理に背く。

背理となる自然化を許さないこと。

自分の精神の自然性の発露とその動きを、事あるごとにチェックしモニターし続けること。

糸崎さんは頭が柔らかい、などとたまに言われるが実のところぼくは非常に固い人間で柔軟性が無い。

柔軟性が無いからこそ、他人の考えを理解したり取り入れたり受け入れたりできず、結果として自分のやり方に凝り固まった表現になり、他人から見て柔軟で独自性がある、と誤解されているに過ぎない。

アタマが固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!

一見、柔軟な発想の元に生み出されたフォトモなどの自分の作品は、だからこそ実は逆説的に自分の頭の固さが如実に現れている。

まず自分の頭の固さを自覚しなければ、これを克服する道は開けない。

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2014年4月13日 (日)

回想と反復

現象は、常にさも現実であるかのように自動翻訳される。

人間の現象は歴史の産物でもある。
なぜなら、言語が歴史の産物であり、固有の歴史を持っているからである。

美術作品とは現象であり、しかも二重の現象である。
美術作品は第一に現象として製作され、第二に現象として認識される。

芸術とは現象であり、内部でこの現象が生じる人と、生じない人とが存在する。

現象は回想の回想であるところの再回想として体験される。

知覚現象は、それが生じた瞬間から過去へと流れ去り、再回想されることで現象として体験される。

何度も繰り返される同様の知覚現象が、知覚現象そのものを成立させる。

万能感は素朴で自然な感情で、その意味では誰にでもある。

万能感を克服するには、自分の万能感を注意深く観察する必要がある。

観察とは他人との比較で、他人を見て自らを反省する視点であり、反省により自分の万能感を対象化する第三者の視点が生じる。

「今起きたこと」を繰り返し思い出しながら「今起きていること」を繰り返し認識する。

知覚が反復され、回想が反復され、忘却が反復される。

人は常に同じものを繰り返し見て、繰り返し見るものを見るたびに繰り返し思い出し、一方で忘れたものを繰り返し忘れ闇の中に葬り去ろうとする。

反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復するものだけが現象として立ち現れる。

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2014年4月12日 (土)

現実と現象

現実と思えるものは、ことごとく夢幻(ゆめまぼろし)に過ぎない。
夢幻だからこそ、現実と思えるものには確かなリアリティが感じられる。
夢はリアルだからこそ夢であり、例えば泥棒して捕まれば刑務所に入れられる、というリアリティも、夢幻の中での出来事だからこそ、ありありとリアルな掟として感じられるのだ。

現実を見ているのでは無く、知覚世界に起きる現象を見ているのである。

現実そのものを見たり、現実そのものに触れたりすることはできない。
われわれは現実を見たり現実に触れたりしているつもりで、その実、現実に触発された現象を知覚しているに過ぎない。
夢が現実に触発された現象であるのと変わりはない。

夢も、現実と思えるものも、現実に触発され発生する現象であることに変わりはない。
現実は現象の原因であり、現象は現実そのものではあり得ず、現象は現実と必ず異なっている。

夢を見ているだけで済まされないのは、夢は現実の影響を受けるのであり、その意味で、たとえ夢の中にあっても現実の存在を無視しないわけにはいかないのである。

現象を現実と錯覚する態度が「素朴」と言われる。
文化が死滅し人は素朴に還る。

人は現実に対しリアリティを持つのでは無く、現実の触発により発生した現象に対しリアリティを持つ。

生命とは生命現象であり、現実とは生前と死後の世界なのである。
生きているうちは現象だけが見えて、死ねば現実に還る。

人生が夢幻なら、死ねば現実に目が開かれる。
ということは、赤ん坊は現実を見て泣き叫び、ほどなくして夢の世界へと堕ちて行く…?

知覚世界の全てが無根拠の夢幻ではない。
現象にはそれが触発されるところの原因があり、その根拠が現実なのである。
例えば、前方に見える木に向かって歩けばやがてぶつかり、その木が現実に存在することは確認できる。
だがその木は少なくともあ「目に見えるように」は存在しない。

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2014年4月11日 (金)

反省と機能

経験的分析と、現象学的本質分析。
経験的に得られた確信は砂上の楼閣に過ぎない。
経験は、何かを建てる土台としては砂漠に等しい。
多くの人は砂漠の上に自らの塔を建てる。
通俗の曖昧で全く混沌とした意味ー我々はそれをどうして得たか知らないがこれらの語が意識の《歴史》のうちですでに獲得している。
ーフッサール『厳密な学としての哲学』
ブリコラージュには機能はあっても反省が無い。
エンジニアリングは反省によって機能を実現させる。
素朴な区別は粗雑であり、通俗的区別もまた粗雑。
素朴な人は粗雑は物で間に合っていて、厳密な物を必要としない。

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2014年4月10日 (木)

鑑賞と参照

意識の外部に出なければ、意識全体を研究することは出来ない。人は普通、自分の意識のごく一部だけを認識し、その他の認識できない意識に操られる。
心理学=自然科学は経験的意識を取り扱い、現象学は純粋意識を取り扱う。
新しい曖昧さ。自明なものは明確で、そこから新しい曖昧さが見出される。
日常語で語る限り、日常語の前提を疑ったり、日常語の曖昧さを明らかにすることは難しい。
子供の頃から自分は他人より劣っていると思い続けて来たが、実のところ日本人そのものが劣っていたのだ、と言うことが3.11以降明らかになった。いや、そもそも人間そのものが愚かなのだが、日本人には固有の愚かさがあり、自分もそれに巻き込まれていた、と言える。
自己知覚と自己観察は異なる。
知覚と観察とは異なる。観察とは反省であり、反省のない観察は知覚でしかない。
鑑賞とは参照であり、参照の無い鑑賞は知覚に過ぎない。
味わいとは、過去の味わいの記憶を参照し、その比較において成立する。記憶を参照しない味わいは、知覚に過ぎない。
素朴さから逃れるにはまず自分の素朴さを自覚しなければならない。しかし素朴な人には自分の素朴さを自覚できない素朴さがある。
素朴は人は自らの素朴さに閉じ込められている。あたかもネコがネコに閉じ込められ、カラスがカラスに閉じ込められ、カマキリがカマキリに閉じ込められ、カタクリがカタクリに閉じ込められているようなものである。
文明化するとは飼い慣らされること。飼い慣らされること自体は、実は屈辱ではなく、問題は「誰」に仕えるかと言うことであり、「小さな自分」に仕えて自然のままに振る舞うことの方が、よっぽど屈辱的なのである。

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2014年4月 9日 (水)

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今日は私の誕生日ということもありまして、彦坂尚嘉さんと、埼玉からいらしたアーティストの如月愛さんとで、ベトナム料理店で食事しました。

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湘南台のギャラリーHIRAWATAに行く途中、みぞれ交じりの大雨が降る。
HIRAWATAでは、個展開催中の福村龍哉さんと彦坂尚嘉さんが対談し、動画コンテンツを撮影する。

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4月12日(土曜)「THE PHOTO/BOOKS HUB,TOKYO 2014」出展します

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2014年4月12日(土)、「THE PHOTO/BOOKS HUB,TOKYO 2014」というイベントに出展して、自著を販売します。

http://thephotobookshubtokyo.com/

会場は表参道ヒルズ 本館B3F スペース オー (東京都渋谷区神宮前4-12-10)です。

時間は11時から20時です。

入場は無料です。

販売ブースは「ShINC.+Fraction Magazine Japan」です。

また会場で開催されるリレートークに参加し、12日17時より15分程度ぼくがトークします。

販売する書籍は下記の通りですので、どうぞよろしくお願いいたします。

Url

『フォトモ 路上写真の新展開』(工作舎)
http://www.kousakusha.co.jp/BOOK/ISBN4-87502-319-7.html

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『フォトモの物件』アートン新社

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『東京昆虫デジワイド』アートン新社

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2014年4月 7日 (月)

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渋谷西武で高橋真琴展を観る。

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新宿3丁目の竹林閣にて『彦坂塾』。

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2014年4月 5日 (土)

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近所のウメ畑でツクシを採って、電子レンジで1分チンして食べました。

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引越と段ボール

全く知らないマンションに住んでいて、そこから引っ越すことになっている。
引越しの前日、後輩が二人手伝いに来てくれる。

一人は引越し用のトラックを借りて運転して来てくれる。
ものすごく大きなトレーラーで、しかもさん連結で、こんなに大きいのはいらないと言うと、二つは切り離して使うのだと言う。
引越しの作業は、どうも自分の指示が悪くてちっともはかどらない。
次の日の引越し当日は一人で作業をしなければならない。
本が大量にあるのだが、それを運ぶためのダンボールもまだ集めていないのだ。
後輩から自転車を借りてるので、それでダンボールを運ぶことにする。
自転車の鍵はどこに置いたか忘れてしまうが、郵便受けに入れていたのを思い出す。
郵便受けは内部が錆と火山灰のようなもので汚れていて、中の郵便物もボロボロになっている。
そこから鍵を取り出して、自転車に乗り、向かいのスーパーでダンボールをもらう。
しかし引越しの作業が間に合いそうになく、不安になって永六輔に電話する。
永さんは、部屋にたくさん人がいるだけでは無駄で、使える人間二人くらい残して、他は出て行ってもらわないと、さ今日の邪魔になるだけだ、と言うようなアドバイスをくれた。
次に黒柳徹子に電話して何を話したか忘れたが、話し終えても黒柳さんは電話を切らず、いつまでも受話器からフーフーと呼吸音が聞こえていた。
しかししばらくして黒柳さんから電話があり、心配だから糸崎さんを保険に加入させお金は私が払ってくれると言う。
さてダンボールだが、自分が集めた物より丈夫な物を、知人の女性が持って来てくれた。
そもそも自分が住んでいるマンションの一階がスーパーで、そこから持って来てくれたのだ。
そう思って傍を見ると、そこにもダンボールが落ちている。
しかし拾い上げるとだいぶ汚れたダンボールで、しかも蓋とそこの部分が切られていて使い物にならない。

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癌細胞と言語の喪失

癌細胞は、言語を失った人間に相当する。

癌細胞は遺伝子が壊れているとされており、人間もまた「本能が壊れている」と言われ、即ち「行動プログラム」を司る遺伝子が壊れていると解釈できる。
ところが人間は、そのように壊れた遺伝子を「言語」によって補い、それによって生物として正常な活動を可能にしている。
ところが、癌細胞にはそのような機能はなく、つまり癌細胞は言語を失った人間に相当すると言えるのだ。

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140404日記

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明け方の撮影。
E-PL5 / ZUIKO 20mm f3.5

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午後の撮影。
E-PL5 / ZUIKO 20mm f3.5

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フォトモの撮影。
E-PL5 / Macro Kilar 40mm f2.8

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140401日記

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神保町の文房堂ギャラリーにて、武石路央さんの作品見る。

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明治神宮で佐藤岳彦くんにあって、作品を見る。

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明治神宮にて、RICOH R7改造魚眼カメラにて、スミレとアシブトハナアブを撮る。

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竹林閣にて桃李アソシエーションの懇親会、自分も理事に加わる。

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2014年4月 4日 (金)

人間と改造人間

人間は誰もが改造人間で、人それぞれに改造されている。

改造されてない人間は人間ではないのだが、そもそも改造されたという記憶が改造されていて、改造されているという自覚がない。

人は誰でも改造仕様として生まれてくる。
改造仕様ではない人は、生まれながら体が毛に覆われ、生きるために必要な本能を備え、言語を修得することはない。

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2014年4月 3日 (木)

素朴な人と、自然とは何か?

目で見たものしか信じない人は、自分の目の確かさを疑わない素朴な人だと言える。
そして、現代の日本人にはそのような素朴な人が実に多いように見受けられる。

人間にとって自然とは何か?

人間は子供のうちに「自然とは何か」を学び、その自然を自明のものとして疑わないような、素朴な大人へと成長する。

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2014年4月 1日 (火)

通俗と電圧



通俗とは電池の並列接続のようなもので、1.5vの電池を2本つなげても3本つなげても10本つなげても100本つなげても、1.5vであることに変わりはなく、1.5vが2本で3vになると言うような飛躍はなく、同じ1.5vのまま2倍にも3倍にも10倍にも100倍にも続くのである。

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