「反省芸術2.0・糸崎公朗blog3.2」に移行します
2007年2月10日 (土)から始まったこのブログですが、下記のブログに移行することにしました。
またココログは無料にもかかわらずアクセス解析が充実していて、単なる数字以外に細かいデータまで表示してくれて、その点は大変に便利でした。
2007年2月10日 (土)から始まったこのブログですが、下記のブログに移行することにしました。
「貧すれば鈍する」からこそ「痩せ我慢」が意味を持つ。
貧して鈍するのは「文明性」であり、貧すごとに人は「自然性」に還る。
自分の身を守るのが「自然性」だとすれば、その反対の「文明性」とは自分の身を呈することにある。
自己保身は生物に共通の自然性であり、自己犠牲は反自然的な文明性なのである。
生物にも自己犠牲的行動は見られるが、リチャード ドーキンスによればそれは遺伝子を守っているのである。
遺伝子を守るのが自然性なのだとすれば「遺伝子を外在化した言語による行動プログラム」を守るのが文明性だと言える。
例えば、我が子を戦地に送り、統治者としての誇りを守る王や貴族のように。
自己保身は身を滅ぼし、自己犠牲は身を助ける。
<p><p>Untitled Page</p></p>
私は「物」を見ているのであり、写真には「物」が写っている。
「物」を見ることと、「写真に写る物」を見ることの違い。
「目に映る物」を見ることと、「写真に写る物」を見ることとの違い。
「目に映る物」を見ることと、「目に映る写真に写る物」を見ることとの違い。
「目に映る写真に写る物」を見ることと、「目に映る写真に写る写真に写る物」を見ることとの違い。
人間はミラーマンであり、その他の動物はミラーマンではない。
水を飲用としてのみならず、鏡として利用するのは人間だけ。
鏡のアフォーダンス。
人の身体は、人の身体のみで完結しておらず、身体外部に存在する「鏡」もまた、人間ならではの身体の一部なのである。
進化論的に、鏡は生物身体のどの部位に発生したか?一つは眼球の光量増幅のための反射鏡として存在する。
またある種の昆虫は、鏡を擬態として利用する。
また、イカやタコの身体構造が鏡だとすれば、これも擬態に利用される。
いや違うのだ。動物の目は本質的に鏡なのであり、外部にもう一枚の鏡を見出す人の目だけが「合わせ鏡」になっている。
鏡は本質的に合わせ鏡なのである。
本質認識は事実認識ではない。
事実を事実として見ない人は、事実が存在する証拠を隠蔽しているに過ぎない。
知覚するのではなく、知覚を知覚すること。
すなわち、見るのではなく、見ることを見ること。
そして、写真を撮るのではなく、写真を撮ることを撮ること。
見るだけの人と、見ることを見る人とがいるように、写真を撮る人と、写真を撮ることを撮る人とがいる。
絵描きにも、絵を描く人と、絵を描くことを描く人とがいる。
<p><p>Untitled Page</p></p>
人は目覚めている間もずっと夢を見ていて、その夢から逃れることは出来ず、目覚めることはない。
即ち、人は夢の中で傷付けば現実に傷つき、夢の中で失敗すれば現実に失敗し、夢の中で死ねば現実に死ぬ。
夢の中にしか生きえない人にとって、夢でしかあり得ないものが現実でしかあり得ないものになる。
現象は現実とは異なるが、現象と現実は連関している。
似たことが繰り返されることが「関係」と言われる。
記憶が反復を支えている。
iPhoneのカメラアプリを立ち上げると、液晶に風景が映し出される、という「現象」が生じる。この現象は、人の認識として現れる「現象」と同一ではないが、共通する要素も持っている。
われわれは現実を見ているのではなく、現実が存在する「証拠」を見ている。現実は決して直接見ることは出来ず、間接的な証拠だけを見て、現実の存在を確信している。
反復の記憶が現実の存在の証拠となる。
移動が反復を生み出す。
もし、網膜に映る像が固定されてしまったならば、目は見えていても何も見えていないのと同じことになる。
人間は他人を見て、自分が存在する証拠を掴む。
自分の存在は他人が存在することの証拠となる。
構造とは反復であり、反復のないものに構造はない。
オリジナリティの高いものは内在する反復を持っている。
自分の絵を見ながら描く、自分の音楽を聞きながら演奏する、ということには反復が含まれ、見ないで描き、聞かないで演奏することの内に反復はない。
反復は生命の本質
反復が終わると生命も終わる
内在的反復と、外在的反復とがある。
人は見えない「現実」が存在する証拠を集めながら、その証拠の隠蔽工作を図る。
人は現実から目を背けるのではなく、その証拠の隠蔽工作を図る。
人は現実が存在する証拠を見つけてはそれを隠す。
我ながら頭が石のように固くて呆れてしまう。
自分の頭の固さを意識すると、少しずつ頭が柔らかくなる…
現象学的な「構」を首尾一貫して純粋に守ること、
自然的な「構」のうちで生活し、考え、心理的なものを自然主義的に変造してゆくという、自然発生的な習慣を克服するのは、生易しいことではない。-フッサール
世界は存在しているのではなく反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復されている。
目の前のものは存在するのではなく繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返しり返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返しり返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返しり返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返されている。
我々はものを見ているのではなく何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も見ている。
人はものを見ているのではなく見たものを回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想している。
人は人生を生きるのではなく反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復する。
認識してるのではなく記憶が回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰している。
認識ではなく感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入している。
フッサール読みながら現象学の練習してます。
言葉には明快な階級差があり、つまり哲学が難解なのも、そういうこと。
世界を存在としてではなく現象として語ること。
目の前に人が存在しているのではなく、目の前に人があたかも存在しているように現象している。
目の前の人は物理的な存在ではなく、心理的な現象。
カメラで写真を撮っただけでは写真にはならず、撮ったフィルムやデータを現像しなければ写真にはならない。このように、写真とは現象であり、人間もまた同じ。
現象は自然ではない。
現象は自然ではなく本質を持っている。
感情移入と認識。
時間の流れ。諦観と経験。
油断すると、文明人の精神はすぐに自然化し、文明人しての理に背く。
背理となる自然化を許さないこと。
自分の精神の自然性の発露とその動きを、事あるごとにチェックしモニターし続けること。
糸崎さんは頭が柔らかい、などとたまに言われるが実のところぼくは非常に固い人間で柔軟性が無い。
柔軟性が無いからこそ、他人の考えを理解したり取り入れたり受け入れたりできず、結果として自分のやり方に凝り固まった表現になり、他人から見て柔軟で独自性がある、と誤解されているに過ぎない。
アタマが固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!
一見、柔軟な発想の元に生み出されたフォトモなどの自分の作品は、だからこそ実は逆説的に自分の頭の固さが如実に現れている。
まず自分の頭の固さを自覚しなければ、これを克服する道は開けない。
現象は、常にさも現実であるかのように自動翻訳される。
人間の現象は歴史の産物でもある。
なぜなら、言語が歴史の産物であり、固有の歴史を持っているからである。
美術作品とは現象であり、しかも二重の現象である。
美術作品は第一に現象として製作され、第二に現象として認識される。
芸術とは現象であり、内部でこの現象が生じる人と、生じない人とが存在する。
現象は回想の回想であるところの再回想として体験される。
知覚現象は、それが生じた瞬間から過去へと流れ去り、再回想されることで現象として体験される。
何度も繰り返される同様の知覚現象が、知覚現象そのものを成立させる。
万能感は素朴で自然な感情で、その意味では誰にでもある。
万能感を克服するには、自分の万能感を注意深く観察する必要がある。
観察とは他人との比較で、他人を見て自らを反省する視点であり、反省により自分の万能感を対象化する第三者の視点が生じる。
「今起きたこと」を繰り返し思い出しながら「今起きていること」を繰り返し認識する。
知覚が反復され、回想が反復され、忘却が反復される。
人は常に同じものを繰り返し見て、繰り返し見るものを見るたびに繰り返し思い出し、一方で忘れたものを繰り返し忘れ闇の中に葬り去ろうとする。
反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復するものだけが現象として立ち現れる。
現実と思えるものは、ことごとく夢幻(ゆめまぼろし)に過ぎない。
夢幻だからこそ、現実と思えるものには確かなリアリティが感じられる。
夢はリアルだからこそ夢であり、例えば泥棒して捕まれば刑務所に入れられる、というリアリティも、夢幻の中での出来事だからこそ、ありありとリアルな掟として感じられるのだ。
現実を見ているのでは無く、知覚世界に起きる現象を見ているのである。
現実そのものを見たり、現実そのものに触れたりすることはできない。
われわれは現実を見たり現実に触れたりしているつもりで、その実、現実に触発された現象を知覚しているに過ぎない。
夢が現実に触発された現象であるのと変わりはない。
夢も、現実と思えるものも、現実に触発され発生する現象であることに変わりはない。
現実は現象の原因であり、現象は現実そのものではあり得ず、現象は現実と必ず異なっている。
夢を見ているだけで済まされないのは、夢は現実の影響を受けるのであり、その意味で、たとえ夢の中にあっても現実の存在を無視しないわけにはいかないのである。
現象を現実と錯覚する態度が「素朴」と言われる。
文化が死滅し人は素朴に還る。
人は現実に対しリアリティを持つのでは無く、現実の触発により発生した現象に対しリアリティを持つ。
生命とは生命現象であり、現実とは生前と死後の世界なのである。
生きているうちは現象だけが見えて、死ねば現実に還る。
人生が夢幻なら、死ねば現実に目が開かれる。
ということは、赤ん坊は現実を見て泣き叫び、ほどなくして夢の世界へと堕ちて行く…?
知覚世界の全てが無根拠の夢幻ではない。
現象にはそれが触発されるところの原因があり、その根拠が現実なのである。
例えば、前方に見える木に向かって歩けばやがてぶつかり、その木が現実に存在することは確認できる。
だがその木は少なくともあ「目に見えるように」は存在しない。
2014年4月12日(土)、「THE PHOTO/BOOKS HUB,TOKYO 2014」というイベントに出展して、自著を販売します。
http://thephotobookshubtokyo.com/
会場は表参道ヒルズ 本館B3F スペース オー (東京都渋谷区神宮前4-12-10)です。
時間は11時から20時です。
入場は無料です。
販売ブースは「ShINC.+Fraction Magazine Japan」です。
また会場で開催されるリレートークに参加し、12日17時より15分程度ぼくがトークします。
販売する書籍は下記の通りですので、どうぞよろしくお願いいたします。
『フォトモ 路上写真の新展開』(工作舎)
http://www.kousakusha.co.jp/BOOK/ISBN4-87502-319-7.html
全く知らないマンションに住んでいて、そこから引っ越すことになっている。
引越しの前日、後輩が二人手伝いに来てくれる。
癌細胞は、言語を失った人間に相当する。
明け方の撮影。
E-PL5 / ZUIKO 20mm f3.5
午後の撮影。
E-PL5 / ZUIKO 20mm f3.5
フォトモの撮影。
E-PL5 / Macro Kilar 40mm f2.8
神保町の文房堂ギャラリーにて、武石路央さんの作品見る。
明治神宮で佐藤岳彦くんにあって、作品を見る。
明治神宮にて、RICOH R7改造魚眼カメラにて、スミレとアシブトハナアブを撮る。
竹林閣にて桃李アソシエーションの懇親会、自分も理事に加わる。
人間は誰もが改造人間で、人それぞれに改造されている。
目で見たものしか信じない人は、自分の目の確かさを疑わない素朴な人だと言える。
そして、現代の日本人にはそのような素朴な人が実に多いように見受けられる。
人間にとって自然とは何か?
通俗とは電池の並列接続のようなもので、1.5vの電池を2本つなげても3本つなげても10本つなげても100本つなげても、1.5vであることに変わりはなく、1.5vが2本で3vになると言うような飛躍はなく、同じ1.5vのまま2倍にも3倍にも10倍にも100倍にも続くのである。
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