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2014年4月19日 (土)

犯人と証拠

世の中には、本当に偉い人と、偉そうにしてる人の二種類がいて、その区別はなかなか難しいのですが、本当に偉い人は偉そうにしている人を見分けるので、偉そうにしてる人は本当に偉い人を嫌うのです。
何事もためらうごとに反復するチャンスを失う。
世の中を渡ってゆく上で「性格の悪さ」は問題にならない。
素朴で自然的認識には魅力があり、そこから目を逸らすことは非常に困難。
現象を現象として捉える視点が本質諦観。
人間の視界は、光学的スクリーンと、心理的スクリーンの、二つのスクリーンが重なっている。
我々はいつでも「証拠」と「犯人」を取り違える。なぜなら、原理的に「犯人」を特定することは出来ない状況であるにもかかわらず、人はその原理に背き、いつでも「功を焦っている」からである。
素朴な人は功を焦って、証拠と犯人を取り違え、見てもいない現実を「見た」と言い張る。
つまり、デジカメの撮像素子には「ローパスフィルター」や「IRカットフィルター」が装着され、専門技術を修めた人はそれを分解し取り外すことが出来る。同じように、人の精神に備わった種々の認識フィルターを、専門技術を修めることにより分解し取り外すことが出来る。そのためにフッサールを読む!
実のところ多くの人は「人を見る目が無い」のであり、優れた人も、邪な人も、聖のオーラも、負のオーラも、見分けることが出来ない。従って、世の中を渡ってゆく上で性格の悪さは問題にならず、さらに言えばまともな人ほど無視される。
随伴的思念を少しも含んでいない純粋直覚(フッサール : 厳密な学としての哲学)
デジカメで写真を撮るのではなくデジカメを分解してその構造を解析するように、目で「見る」のではなく「現象」を解析する本質直覚。
人はそれぞれに適合した「歪んだ鏡」を求めているのであり、完全なる平面鏡は避けられる。
歪んだ人は、自らの歪みを矯正する「歪んだ鏡」を必要とし、歪みを映す「平面鏡」を忌み嫌う。
人気者は自ら進んで「歪んだ鏡」となり、多くの人はそれを選ぶ。
微妙な色と色、微妙な音と音を区別くるのは難しいが、色と音とを区別するのは簡単だという不思議…我々は騙されている??
色は音かも知れず、音は色かも知れず、なぜなら色のリズムや音色が存在する。
とは言え、人は光と音とを取り違えることは無い!
光と音の取り違えのない絶対的な相違が《本質》となる?
知覚、想像、回想、判断、感情、意志、並びにそれら一切の無数の特殊形態といったようなあの周知のタイトルに対応している自我。(フッサール : 厳密な学としての哲学)
知覚と、意志と、感情移入。
見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。
物があってそれを見るのではなく、見ることによって物が生じるのでもなく、見ることがすなわち物なのである。
物があってそれを撮るのではなく、撮ることによって物が生じるのでもなく、撮ることがすなわち物なのである。

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