鑑賞と参照
意識の外部に出なければ、意識全体を研究することは出来ない。人は普通、自分の意識のごく一部だけを認識し、その他の認識できない意識に操られる。
心理学=自然科学は経験的意識を取り扱い、現象学は純粋意識を取り扱う。
新しい曖昧さ。自明なものは明確で、そこから新しい曖昧さが見出される。
日常語で語る限り、日常語の前提を疑ったり、日常語の曖昧さを明らかにすることは難しい。
子供の頃から自分は他人より劣っていると思い続けて来たが、実のところ日本人そのものが劣っていたのだ、と言うことが3.11以降明らかになった。いや、そもそも人間そのものが愚かなのだが、日本人には固有の愚かさがあり、自分もそれに巻き込まれていた、と言える。
自己知覚と自己観察は異なる。
知覚と観察とは異なる。観察とは反省であり、反省のない観察は知覚でしかない。
鑑賞とは参照であり、参照の無い鑑賞は知覚に過ぎない。
味わいとは、過去の味わいの記憶を参照し、その比較において成立する。記憶を参照しない味わいは、知覚に過ぎない。
素朴さから逃れるにはまず自分の素朴さを自覚しなければならない。しかし素朴な人には自分の素朴さを自覚できない素朴さがある。
素朴は人は自らの素朴さに閉じ込められている。あたかもネコがネコに閉じ込められ、カラスがカラスに閉じ込められ、カマキリがカマキリに閉じ込められ、カタクリがカタクリに閉じ込められているようなものである。
文明化するとは飼い慣らされること。飼い慣らされること自体は、実は屈辱ではなく、問題は「誰」に仕えるかと言うことであり、「小さな自分」に仕えて自然のままに振る舞うことの方が、よっぽど屈辱的なのである。
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