読書

2011年6月20日 (月)

実家で読んでた本

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しばらく実家の長野市に行ってましたが、そこで読んでた本。
まずは母親に「どうしても読め」と薦められ仕方なく読んだ『潜在意識を変える 数霊の法則』・・・
作者の「吉野内聖一郎」の名前で検索して出てくるページを見ればどういう本かだいたい分かると思うのだが、
http://www.voice-inc.co.jp/content/goods/410
世の中に良くもこんな酷い本があったもんだと思うくらいの内容で、人のことを騙すんだったらもうちょっと巧妙にロジックを組み立てた方が良いと思ってしまうのだが、騙されやすい人に対してはかえって小細工などせずに、口から出任せをただ並べただけの方が、かえって分かりやすくて説得力を持つのかも?などと思って別の意味でベンキョーになるw
それとこの類の本は作者は違えど「数霊」とか「五次元」とか「宇宙意志」とか同じことが書いてあって、どうせお互いにパクリ合いをしてるんだろうけど、そうすると「どの本にも同じことが書いてあるから本当なんだよ」と騙される人は信じてしまう。
そりゃ、ぼくもプラトンとブッダと孔子が似たようなこと言ってて「なるほど」と感心することはあるが、それとこれとはまさに次元が違う。
母親も良くもまぁ、見事に同レベルのインチキ本ばかり選択すると思うけど、こういう本はどれも「悪い波動」が出てるのであり、似たような波動を持つものを惹きつけるのかも知れない。
ぼくなんかは読むだけで気分が悪くなり、良い本を読んで乱れた波動を整えたくなってしまうw
母親は子供の頃「勉強しろ」とかなりガミガミ言って、ぼくはその期待に応えられずにコンプレックスになっていたのだが、その母親がこんなにバカだったとは、自分自身のバカさ加減にほとほとあきれてしまうwww

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次に読んでたのが、高校3年生の甥っ子の現国の教科書(「探求現代文」桐原書店)なのだが、これが非常に面白くてハマってしまった。
小説や詩のほか、現代思想の論文も収めてあって、内容も教条主義的ではなくポストモダン的に考えさせるもので、深刻で根源的な問題を扱っていたりして、これをがっつり読めばかなり頭の良い高校生になれるだろうw
以前、甥っ子に見せてもらった「倫理」の教科書は内容は「思想史」だったが、この国語の教科書はちゃんと「思想」になっていて、そう言うこともちゃんと教えてるんだとあらためて感心してしまった(実際の現場は知らないが)。

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以前のブログに、この教科書に丸山眞男が載ってて驚いたと書いたけど、ほかにも村上陽一郎、小浜逸郎は好きで影響も受けてた。
しかしそれ以外はほとんど読んだことはなく、読もうと思ってまだ読んでなかった作者とか、名前も知らない作者とか、そう言った人の文章が一編ずつ読める本というのも、頭の刺激になってなかなか面白い。
それにしても、あらためて全部読もうとすると思想の論文に比べ文学や詩がどうも苦手で、内容が読み取れずについ眠くなってしまう。
で、それはどういうことなのか?ということが最後に掲載されている尼ヶ崎彬『こころとことわり』にちゃんと書いてあって、妙に感心してしまったw

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そして手島郁郎の本がたくさん・・・これはまだ冊子『生命之光』をちょっと読んだだけ。
実は昨年キリスト教の『聖書』を読んだら内容がほとんど分からず、かといって解説書がいろいろありすぎて迷っていたら、彦坂尚嘉さんが「手島郁郎が良い」とアドバイスしてくれたのですが、普通の本屋では今ひとつ売ってない。
と思っていたら、妹の旦那のお父さんが、手島郁郎が創立した無教会系キリスト教「幕屋」の信仰者であることが判明し、さっそくお話を聞きに行って本屋冊子もいろいろいただいてしまったのだったw
実際に読むと、手島郁郎の言葉はなかなか力強くて惹かれるものがある。
手島郁郎が目指した「原始キリスト教」の時代は立派な教会があるはずもなく、それは「原始仏教」の時代に立派なお寺があるはずもないのと同じで、そのように歴史をさかのぼる思考は日本人には珍しい「箒型(ササラ型)」であって、かなりがっしりした「骨」があるように感じられる。
これはもう、自分もクリスチャンになるしかない・・・と簡単には思えないけどw、「芸術とは何か?」は「宗教とはなにか?」ともつながってるわけで、その方面の研究はだいぶはかどるのではないかと思われます。

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2011年6月 6日 (月)

夢幻を維持するシステム

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Sat, May 21

11:54 大乗仏教の何たるかを知りたくて、中村元の『龍樹』を昨年読みかけたのだが半分で挫折…宗教と言うより難解で本格的な哲学と言う感じでほとんど理解できず…大乗仏教は広く民衆に説かれるものでわかりやすいのかと思ったら、全然違ってた…プラトンやスッタニパータの方が断然分かりやすい…

12:01 『龍樹』は中村元さんによる解説書だが、巻末に龍樹の書いた「中論」の現代語訳が載ってるので最近はそれを読んでる…やはり難し過ぎてほとんどワケワカメだが、量も少ないので少しずつ目を通してる…しかしふと同じ巻末にある「大乗についての十二詩句篇」読んだら分かりやすく、しかも4頁しか無い!

12:22 「大乗についての十二詩句篇」読むと、龍樹の思想は構造主事に近いかも?というか、それしか取り付く島が無いw 構造主義は物を実体として捉える事を否定した関係論だから「空」の教えと近いかも? 昨日ガイガーカウンター測定しながら読んでた…「現実」が危ういからこそ「空」の教えが沁みる…

12:46 まぁ「現実と思えるものは全て夢幻に過ぎない」と言う思想は龍樹に限らずプラトンも荘司も指摘してて、構造主義はその延長に過ぎないのかも? そして311の原発事故は、強固に思われた現代の日常も夢幻に過ぎない事を、ハッキリと示し我々に突きつけた…いや、そう思わない人は別ですが…

12:46 現代文明成立以前の世界は、人類のもろもろの技術は拙く、人々の日常も脆く崩れやすく、それが夢幻である事がよりわかりやすかったのかも…と考えると、現代文明とは夢幻である日常を、より安定して強固に維持してゆくためのシステムだったのかも知れない…

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2011年5月 2日 (月)

誰でも頭がよくなる・楽して簡単すぐマスターできる「超」勉強法

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「自分は頭が悪い」と思う人が勉強しなくなると、ますます頭が悪くなる。
他ならぬぼく自信がそうなのだが…
しかし頭の悪い人にもそれなりの勉強法はあって、例えばプラトンや論語や荘子、初期仏典などの「古典」は新書本並みに分かりやすくて読みやすく、かつ歴史的名著だけあってためになる。

孔子の教えを集めた『論語』は岩波文庫で出てるが、一冊のうちに漢文、読み下し、現代語訳、の三種類が併記されているので、実質的な量は1/3に過ぎない。
それでいて全部読めば「論語を読んだ」と他人にも言えて、自信にもなる。
さらに少ない文字数に知恵が凝縮されているから、効率的にそれを身に付けることができる。

プラトンは『ソクラテスの弁明・クリトン』が短くてまずは読みやすい。
頭が悪く、本を読むのが遅いぼくのような人間にとって、短いことはけっこう重要だ。
それと論文ではなく、ソクラテスとその他の人々との会話文のみで構成され、こんなにも平易な文で書かれていたのかと驚く。
それでいて、哲学の基礎がギッシリと凝縮されていて、非常にためになる。

仏教は最古の仏典と言われる『ブッタのことば』(スッタニパータ)が岩波文庫で出てるが、この本も半分は注釈なので実質的な量は少なく読みやすい。
宗教というより哲学に近く、やはり生きるための知恵が凝縮されている。
「死」や「苦しみ」を真正面から扱ってるので、311を経た今、あらためて読み返したいと思っている。

「古典」が短くて読みやすいのは、何度も繰り返し読んで暗記するためで、だからできるだけ若いうちから読んでおいた方が良い。
しかしぼくのように40過ぎで読んでも読まないよりマシで、読んだ分だけはかなり「前進」できる。
世の中危機も迫ってることだし、前進しないといけない。
努力して「勉強」すれば思い込みによる間違いを「反省」して「自分」を変えることが出来るだろう。

ちなみに、キリスト教の聖書は旧約と新約を合わせると量が多く、そのうえ一度読んだだけでは意味が分からず読みにくい。
しかし聖書は意味が分かりにくいところに意味があり、だからそれを解釈するための学問が成立し、それがヨーロッパ的知性を形成し、現代文明の基盤にもなった…と言うことらしい。
だから、とりあえず我慢して一度でも読んでおけば、それだけの価値はあるだろうと思う。

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2011年2月10日 (木)

反省芸術

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ttwitterとともにブログの更新が一月以上滞ってましたが、そろそろ復活します。
更新できなかったのは、彦坂尚嘉さんのブログを巡って怒りを買ってしまい、「気体分子ギャラリー」のメンバー(取り扱い作家)からも外されてしまい、自分自身が「書く根拠」を失っていたからですね・・・非常に申し訳ありません。
反省して、芸術も「反省芸術」として出直すしかありません。

さて、彦坂さんの自分への指摘は、

1:根底に「幼児的万能感」があるように思われる。
2:人格の大きさが最小の「孤児」である。

ということなのですが、これは言われてみれば心当たりのある、もっともなことのように思われます。
ですからぼくとしては反省してるのですが、反省とは「自分」のままでは不可能であり、「別の自分」にならなければ真の意味で反省することはできません。
そして「別の自分」になるには「自分」を形成する「考え」を変える必要があり、それには本を読むのが方法としては有効です。
それで、ここしばらくは上記にあるような「古典」を読んでいたのです。

始めに読み始めたのは『論語』なのですが、これが実に人が社会で生きる上での「当たり前」が書いてあるわけです。
「当たり前」でありながら自分には身に付いてないことばかりが書かれてあって、恐れ入ってしまいます。
『論語』の教えが「当たり前」のことだと感じるのは、なのは、それが現代の日本社会の基礎をなしているからだと思われます。
社会の基礎というものは、親から子へ、子から孫へと伝えられてゆくものです。
ですからいわゆる「育ちがいい人」は、たとえ『論語』を読んでいなくとも、論語に書かれているような「当たり前」の社会道徳はきちんと身に付けているはずだと思うのです。
逆に言えば、「育ちが悪い人」は『論語』に書かれているような社会道徳が身に付いておらず、だから大人であっても「幼児的万能感」に支配され、親はあっても「孤児」のような振る舞いになるわけです。

社会で生きる上で「当たり前」のことが身に付いていないような「育ちが悪い人」が、それを身に付けるにはどうすればいいのか?
それには『論語』を読めばいいのであって、これは「方法」としてかなり有効性が高いのです。
『論語』は現代の思想書のように特に難解ではなく、平易な日本語に訳されており、文字量も多くなく、読みやすさで言えば新書レベルではないかと思います。
それでいて短い言葉の中に意味が凝縮され、解釈の幅が広く実に味わい深く、読めば患部に塗った膏薬のように、病んだ心に染み入るのです。

『大学』と『中庸』は『論語』と並んで儒教の教典なのですが、実際に読んでみると儒教とは宗教ではなく、哲学でもなく、社会を生きる上での方法論を説いた実用の思想であることが分かります。
その教えは『孫子』の兵法と同じくきわめて現実的、実際的であって、占いや呪術を徹底的に否定しています。
これはまさに人類が都市を形成する「文明社会」の基礎であって、だから二千年以上経ってもその内容は現代においてもなお古さを感じさせないのです。

新渡戸稲造『武士道』は明治に書かれた本ですが、明文化されていない「武士道」の精神を外国人にも分かるように英語で書かれた本(の現代語訳)であり、つまり「育ちのよい」家柄にはそれ相応の素晴らしい教え(儒教、仏教由来)が代々受け継がれていることを示しています。

福沢諭吉『学問のすすめ』は儒教的な教えを踏まえながら、さらにこれを反省的に捉えた「近代社会」の基本が説かれていて、これも非常にためになります。
スマイルズ『自助論』もほぼ同時代の本であり、ここに説かれた「天は自ら助くる者を助く」という教えはまさに「近代社会」を形成する根本思想だと言えます。
と言うことで、自分自身にはこのような「近代人」として生きる上での基礎も欠いていたわけです。

と、以上のように読んだ分だけは反省できたつもりなのですが、もちろんこれで反省が終わりと言うことはありません。
むしろ考えることの本質に「反省」があるのであって、だから芸術の本質も「反省」にあるのであって、そう言うことがようやく分かってきたような気がするのです。
考えてみれば「反ー反写真」と言うコンセプトも、自分の「写真」に対する態度に対する反省が由来の「反省芸術」なのであり、この路線をもっと推し進めて全面展開するしかないのかも知れません。

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2011年1月 8日 (土)

プラトンの饗宴

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プラトン『パイドン』があまりに良かったので、続いて『饗宴』を読んだのだが、ページ数の少ない本の割にちょっと時間が掛かってしまった。
前半ちょっとたるい感じがして、どうしても眠くなってしまうのだ(笑)
どころが後半から急激にテンションが上がって、哲学の素晴らしすぎる世界が展開する。

この本でまず面白いのは「美」や「愛」をテーマにしながら「美少女」ではなく「美少年」について語っている点である。
ギリシャ文化はホモ文化だというのは人づてで聞いたことはあったのだが、つまり今風に表現すれば「やおい文学」なのである(笑)
この場合の「やおい」とは「最高峰のヤマがあり・どんでん返しのオチがあり・汲めども尽きないイミにあふれる」が語源のとにかくスゴイ書物のことなのだが…

まぁ美少年愛はさておき、この本も哲学の方法論が圧縮された、まさに「哲学の教科書」である。
哲学の教科書といえば、ぼくは中島義道『哲学の教科書』を1995年頃に読んで「哲学者と芸術家は異なり、自分は哲学者にはなれない」と思っていた。
ところが不思議なことにプラトンの著作を読むと、「芸術家はまず哲学者であらねばならず、だから自分にも哲学はできる」というように思えてしまう(笑)

分かりやすく言えば、中島義道さんの主張は、哲学者とは「哲学病」の患者であり、ぼくが思うにそれは「芸術病」とはビョーキの種類が異なっている。
しかしプラトンの著作をによると、「芸術病」は「哲学病」の一種であるように思えるのだ。
さらに分かりやすく言えば、中島義道さんの本を読むと本人が「極度の芸術音痴」であるのが分かるのに対し、プラトンの描くソクラテスははっきりと「美」について語っているのである。

ところで『饗宴』は、のちの一般的な哲学書のように著者の一人称で書かれるのではなく、ソクラテスをはじめとする人々の対話(会話)形式で書かれている。
その対話もプラトンが直接語るのではなく、かの「饗宴」に参列したアリストデモスから聞いた話を、アポロドロスが友人に語る、というちょつと複雑な設定になっている。
さらに『饗宴』の中でのソクラテスは自分がディオティマから聞いたことを話すので、会話の主体が幾重にも入れ子状になっている。

これが意味するところは、まず哲学とは一つの主体だけで行うのは不可能であり、様々な主体の関わりの中でこそ哲学が営まれるのである。
そしてだからこそ、いかに賢人ソクラテスであろうとも、他人(ディオティマ)を先生とし、自分を生徒とし教えを乞うのである。

またこの本は伝聞による記憶だけを頼りに語られるという設定であり、つまり哲学する人は誰でもこの書物を丸暗記して暗唱できるくらいの能力があって当然なのである。
『パイドン』もそうなのだが、プラトンの著作が伝聞による対話形式で書かれてるのは、学問の基礎が「暗唱」にあることを示している。
ぼくは暗唱とか記憶というのは、何となくクリエイティビティと余り関係が無いように思っていたのだが、とんでもない勘違をしてたのである。
…まぁしょうがないんだけど(笑)

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2011年1月 7日 (金)

ミヤタ式読書法

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大学時代からの友人ミヤタさんが、ドストエフスキー『罪と罰』を小学校に上がる前に読んだ、と聞いて驚いてしまった。
子供の頃の彼は、家にあった本を訳も分からないまま片っ端から読んでたそうで、何が書いてあったかの記憶もないらしい。
その友人は小学校五年生くらいから、安い古本を適当に選んで20冊くらい買っては、一日一冊ペースで読みまくり、読んだ端から売り払い、内容はほとんど忘れる…という読書を大人になるまで繰り返してたらしい。
ぼくにとってはあらゆる本は理解しながら読むのが当たり前だったので、この読書法にはちょっと衝撃を受けてしまった(笑)

だが、ラカンの指摘のように<象徴界>が人間の無意識を形成するのであれば、この「訳の分からない大量の読書」もあながち無意味とは言えないだろう。
実際、彼は高校は地元の進学校で、現在はその経歴を活かして塾を経営し、雑談してても頭の回転が早いのが分かるのだ。
このように、彼の読書は何らかの役に立っているように思われる。

ぼくも実は、去年は旧約聖書を読んであまりの訳の分からなさに「こんなの読んで意味あるの?」と思いながら半分まで読んで頓挫していた。
だが<象徴界>という事をあらためて考えると、あながち無意味ではなさそうだし、もう半分も何とか読んでみようかと思う(笑)

また先ごろ読み終えた『饗宴』も文体が硬く読めない漢字もあって、適当に読み飛ばした箇所もあり、きちんと理解しながら読んだとは言えず、内容の大半を忘れている。
しかし、ともかくすごい本だったという「感触」だけは残っており、自分の無意識である<象徴界>への影響もゼロではないだろう。

どの様に無駄な読書も無駄にはならない。
レヴィ=ストロースは『野生の思考』で「けだし分類整理とは、どのようなものであれ分類整理の欠如に比べればそれ自体価値を持つものである」と書いている。
そして書物とは、すなわち言葉による分類整理なのである。

もしかしてぼくはこれまで「意味の分からない読書」をしなさ過ぎたのかも知れない。
いやたとえ「意味の分かる読書」を目指してもけっきょく分からなかったり忘れたりしてしまうのだ。
だから実は読書の本質とは「意味の分からない読書」にあるのかも知れない。

そう言えば、別の友人は「限られた人生の中で読める本の数も決まっている。だから本選びは慎重にしたい」みたいなことを言っていた。
しかしこれは一理あると思う一方で、そんな風に効率が追求できるものなのか?と疑ってしまう。
それよりも、人生には無駄が付き物だし、量は効率を上回ることもあるかも知れないのだ。

例えば読書をたくさんしていれば、稀に「本当に良い本」にめぐり合う事ができるだろう。
そしてそれさえ読めば、どんなクズ本でも自分の知識に役立てられる様になる。
例えば『孫子』を読めば、トマベチ本からでさえ別の意味を引き出す事ができるのだ(笑)

「意味の分かる読書」を目指すと読むのに時間がかかったり、途中で断念したり、結局は「意味の分からない読書」まで阻害されてしまう。
いっその事、はじめから意味を読み取るのは諦め、息を吸う様に目で文字だけ追って、頭では別の事を考える…というくらいのつもりで「ミヤタ式読書法」の実験をするといいかもしれない。

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2011年1月 6日 (木)

プラトンのパイドン

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年末から正月にかけてプラトンの『パイドン』を読んだのだが、もっと早く読んでいればと後悔するくらい素晴らしかった。
写真家の友人に「ギリシア哲学は意外に読みやすくて面白い」と言われ気になっていたのだが、まさに予想を上回るインパクトである(笑)

書名のパイドンとはソクラテスの弟子で、この本の語り部。
アテナイから「危険思想」の罪により死刑判決を受けたプラトンが、死刑の前日、弟子たちに囲まれて「魂の不滅」について哲学的な討論する内容が記されている。

まず感動してしまうのは、自らの死を目前にして淡々と哲学を語るソクラテスの態度。
それは「魂の不滅」を確信し、死の恐怖を乗り越えているからなのだが、それは単なる迷信ではなく、あくまで哲学的考察を精緻に重ねた上での「確信」なのだ。

つまりソクラテスは「イメージとしての死の恐怖」に囚われることを戒め、あくまで「理論的整合性」によってのみ思考するその態度を示し、ただそれだけのこと為に自らの命を懸けている。
そしてまさにこれこそが、哲学をはじめとする全ての学問の基本的方法論であり、気概であると思われるのだ。

魂の不滅を証明してみせるソクラテスに、対し弟子達は次々に「反論」を試みる。
つまり自ら納得して死に臨む師匠に対し「あなたの理論は間違いで、だからその死も虚しい」と説得するのである。
これは明らかに「世間体」の倫理観に反している。

世間体で考えるならば(ソクラテスの気が変わっても死刑が撤回されない以上)本人が「魂の不滅」を確信してるならそのまま信じさせてやるのが人情である。
だがもし弟子達がその意味でお追随したのなら、それは哲学的には師への裏切りであり、ソクラテスはさぞかし失望するだろう。

つまり、まず哲学とは一人で行うことができず(その整合性を検証するために)他者との「対話」の中で営まれる。
そして、そのような哲学の営みは世間体から隔絶した外部に存在する。
このことも学問全般の基礎であり、もちろん芸術にも通じている。

『パイドン』には物事を知的に考える上で重要かつ基礎的な「方法論」が、かなり明確に示されている。
確かに、この本に書かれる「魂の不滅」をはじめとする理論そのものは、現代の水準からは不十分に思える。
だが、これは方法論を示すための言わば「例題」なのである。

『パイドン』においてプラトンは、ソクラテスを通じて「魂の不滅」を説き「不滅のイデア」を説いているが、実のところ真に不滅だったのはプラトンの著作であり、そこに示された「思考の方法論」そのものなのである。

もし、芸術の意味が「芸術とは何か」という問いであるならば、まず「思考の方法論」の基礎中の基礎であるプラトンの著作を読むのが一番手っ取り早いのである。
難易度はまさに入門書レベルであり、ボリュームも新書並であり、しかし内容は2400年余りの歴史に耐えるだけの「重み」がある。

哲学をカメラに例えて考えると、昔の金属製機械式カメラは分解するとギアやカムやスプリングが見えて、内部機構のカラクリが素人目にも理解できる。
つまりカメラ設計者の思考や工夫が、素人でも分かるレベルで示されているのだ。

いっぽう現代のデジカメを分解すると、中に複雑なプリント基板が見えるが、具体的にどんな原理で作動しているのか、素人目にはさっぱりわからない。
デジカメの作動には電子基盤以外にプログラムも関わっており、専門の技術者でなければその仕組みや工夫を理解することはできない。

哲学もカメラと同じで(時間のスパンはだいぶ異なるが)、初期の哲学は見事でありながら誰にでも理解しやすい。
それに対して現代の哲学は素人が読むとチンプンカンプンで、専門家にとっても難解なものが少なくない、というくらいに複雑化している。

難解な哲学や現代思想は、原著は読めなくとも適切な「入門書」を読むことでその概念の一部を理解し利用することができる。
しかし古代ギリシア哲学は原著自体が入門書レベルで書かれているため、 誰でも人類最高の叡智に直接(翻訳だが)触れることができる。
こんなことならもっと早く知っておけば良かったと思うが、今だからこそその凄さが分かるのかも知れない(笑)

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2010年12月30日 (木)

「孫子」から学ぶ「自分」分割法

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苫米地さんの本を読んで良かったのは、その後に読んだ岩波文庫『孫子』の素晴らしさが際だって実感できることだった(笑)
まさに雲泥の差以上で、長い歴史を生き残ってきた書物には、それなりの理由があり、適当に書き散らかした新書とは比較にならない。
ということで「古典は良いよ」と複数の友人から教えられたので、たまたま古本で売ってた『孫子』を読んでみたのだった。
これは戦争の仕方について書かれた本なのだが、読んでみると非常に普遍性のある内容で、だからビジネスにも応用できるのだ。

しかし戦争は軍隊という組織で行うものなので、『孫子』に書かれていることを個人で応用するには、「ひとつの自分」に固執せず、「自分」を複数に分割する必要がある。
つまり自分一人で戦わず、自分を分割し増殖させ、大群を組織化して戦うのがビジネス必勝の極意なのである(笑)。
まぁ、大人数に分割するのは無理としても、『孫子』に書かれたことに従い「君主」「将軍」「兵士」の3つには分割できるかも知れない。
逆に言えばぼくはこの3つの要素が未分化で、そう言う状態ではビジネスの世界でこの先生きのこることはできないのである。

「自分」を分割するのは難しそうだが、そもそも自分は肉体的には複数の臓器からなり、さらに無数の細胞からなっている。
クラゲやプラナリアのような原始的な多細胞生物は、細胞ごとの機能が未分化で(各細胞が同じような働きをし)、だから動きが鈍い。
しかし鳥類や哺乳類のように進化した多細胞生物は、細胞ごとの役割がより分化し、細胞で構成された臓器の機能も分化し、それらの異なる要素が協調し合って「ひとつの身体」を形成し、素早く正確な動きを実現する。
人間の組織の場合も同じであり、群衆がただより集っている状態は、クラゲのようにただ右往左往するだけである。
だから国家は「君主」「将軍」「兵士」などの役割に分割されて、素早く確実に軍事行動ができるのである。
同様に「自分」の精神や意識も「ひとつの自分」として未分化のままでは、クラゲのようにボーッとしたままなのだ。
いや、クラゲと人間の精神は比べものにならないとしても、軍隊のように素早く確実に判断し行動することは難しいかも知れない。

さて、「君主」とは国家の主であるので、「自分」に例えればこれは「自分」だと言えるだろう。
同義反復になってしまったが、「君主」が理想の国家をイメージすることで国家が発展するように、「自分」が理想の自分をイメージすることで自分は発展するのである。
「自分」が現状に満足するなら理想の自分をイメージする必要もなく、ビジネスで独立する必要もない。

君主がイメージする理想を実現するために、戦争を実行するのは「将軍」の役目である。
孫子によれば、真に優秀な将軍は実際の戦闘に先立ち「情報」の収集を徹底的に行うのだと説いている。
正確な情報を仕入れておけば、戦う前に勝つことは分かるのであり、そのように勝ちが分かっている戦争以外は仕掛けないのである。
またその逆に不正確な情報によって戦うことを、孫子は戒めている。
例えばただ感情的な勢いだけで戦いを仕掛けたり、戦争のゆくえを占いで判断したりすると、必ず負けると説いている。

さらに、君主は将軍を信頼して戦争のことは一切に任せ、君主自身が戦争に関与してはならない、とも説いている。
つまり孫子は、理想的なイメージを持つ君主が戦争に関与することを戒めているのだ。
君主がイメージによって国家を発展させるのなら、将軍は戦争に勝つためにイメージを一切排除し、冷徹に「現実」を見据えて判断しなければならない。
そのような「役割分担」が勝利をもたらすのである。
だから「自分」を「君主」と「将軍」に分けると言うことは、「理想をイメージする自分」と「現実的に判断する自分」を分けるということであり、これらの意識がごっちゃになっているとビジネスでは勝ち残れないのである。

次に「兵士」だが、孫子は将軍の命令を絶対的なものとして守るべきだと説いている。
兵士は将軍の命令にただ従って行動すればいいのであり、作戦全体の意味や、自分の行動の意味を知る必要はないのである。
もし、前線の兵士が自分の勝手な判断で行動したら、軍全体の統率が乱れて戦争に勝つことができない。
真に優秀な将軍は兵士から絶大な信頼を得ていて、だからこそ兵士を自由に操り戦争を勝利へ導くことができるのである。
「自分」から「兵士」を分割すると言うことは、「実務に没頭する自分」を分けるということであり、一度やると決めた実務は迷わず実行しなければならないのである。
もし迷うなら「将軍」として情報を収集して判断すべきであり、目先の状況に惑わされて感情やイメージで判断してはいけないのである。

以上、ぼくとしては何一つ実行できていないのだが、理屈として辻褄の合うことを書いてみました(笑)

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2010年12月28日 (火)

はじめてのトマベチ

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苫米地英人という人だが、何となく胡散臭いので(笑)以前から興味があり、『テレビは見てはいけない 脱・奴隷の生き方』を古本で読んでみた。
まぁ、分かっちゃいたけど色んな意味でスゴイ…参考になりますが…
一言で表すと「気概が無さ過ぎ」で、もう一言加えると「こんなの読んでたらバカになる」(笑)

まず、読書が苦手なぼくが4時間足らずで読了してしまった。
なぜなら新しい知識が何も書いておらず、誰でも知ってる概念を、ただ別の言葉に置き換えているだけなのだ。
『テレビは見てはいけない』には「内部表現」「ラポール」「コンフォートゾーン」「スコトーマ」などの用語か出てくるが、これらは全て「誰もが既に知ってる概念」に、専門用語っぽい名称を与えただけである。
だから書いてあることがウソだとは言えないが、「知識」としては偽物であり、読者に「新たな知識を得た」と錯覚させるカラクリであるに過ぎない。

これに対し、真に新しい知識は「自分」を変えないと理解出来ず、読むのに時間がかかる。
例えば構造主義の<構造>とかラカンの<現実界>などは「誰も知らなかった特別な概念」を示すための専門用語であり、それこそが本物の「知識」だと言える。
この様な知識を理解するには「自分を変える」必要があり、人は「自分を変える」為に、時間をかけ苦労しながら「新たな知識」と格闘する。

苫米地さんの本を読む人は「自分を変えようとしない人」であり、その様な読者を想定して書いている。
「テレビによる洗脳を解いて、自分を変えよう」みたいに苫米地さんは書くが、そんな事をする「気概」のない読者が、同じような内容の苫米地さんの本を何冊も買う…そんなビジネスモデルなのだろう(笑)

苫米地さんの本は、言わば<想像界>の産物で、人々の日常的センスで想像できる範囲の、分かり切った事しか書いていない。
<想像界>とは習慣的で惰性的で変化する事なく安定して持続する世界観であり、そこに安住し留まりたい人に向けて、苫米地さんは「自分を変えよう」とポーズで呼びかけているのだ。

まともな思想書は、例え入門書であっても人々の<象徴界>に働きかけるように書いてあり、だから日常的センスの延長である<想像界>では理解出来ない。
新たな「知識」により自らの<象徴界>が変化をきたすと、<想像界>も一変し、より豊かで広大な世界が見えるようになる。
これは楽な読書ではないが、ぼくは美術家なので、自分の世界観を広げ、作品に幅を持たせるための読書がどうしても必要になるのだ。

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2010年5月 5日 (水)

巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』

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大乗仏教の解説書『龍樹』は半分くらいまで読んだのだが、内容が思った以上に哲学的で形而上学的で難解で、ちょっとお休みすることに(がんばって読み終えるつもりだが、という本が何冊もたまりそうだがw)。

それで、本屋でふと手にしたこの本を買ってみたのだが、素晴らしい内容だった。
講演をまとめた本なので読みやすいし、文字量も少ない。
いや、少ない文字量にしては値段がなぜか1200円もするのだが、しかし内容が濃縮されてるので、自分にはそれだけの価値は十分にあった。

シュルレアリスムについては、ブルトンの『超現実主義とは何か』(思潮社)を読んだのだが、それ自体がシュルレアリスムの文章のようにチンプンカンプンで途方に暮れていたのだが、こっちの本は『シュルレアリズムとは何か』について言葉の定義からきちんと説明してくれたりして(日本で俗に言う「シュール」は、ちょっと使い方が間違ってるとか)大変にありがたい。

あと、「メルヘン」と「ユートピア」についてそれぞれ章を立てて解説しており、この言葉も日本人には相当に誤解されてるそうなのだが、一般には無関係と思われるこれらの概念と、シュルレアリスムを結びつけるあたりも大変に面白い。

個人的には、「非人称芸術」は間違いなくシュルレアリズムの系譜にあり、「メルヘン」や「ユートピア」とも強く関連しているらしいのが分かったのが収穫だったが、そのあたりはおいおいと。
とりあえずはこの本に紹介されていた、エルンストの『百頭女』と『ペロー完訳童話集』を読みたくなってしまった。

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