雑誌記事

2008年6月29日 (日)

「東京昆虫デジワイド」

カメラ雑誌「デジタルカメラマガジン」2007年10月号の「デジタルリレーGallery」という連載コーナーに掲載されたテキストを再掲してみる。
このコーナーは「笑っていいとも」みたいに掲載作家が次の作家を紹介していくコーナーで、ぼくは湊雅博さんに紹介され、緒方範人くんを紹介した。
長期にわたる連載だったが、今年になっていつの間にか終わってしまっていた・・・

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「東京昆虫デジワイド」

「東京に幽霊が出る。トマソンという幽霊である。」とは赤瀬川原平さんの『超芸術トマソン』の冒頭部分だが、ぼくはその影響から東京でトマソンを探しな がら、また別の幽霊である「昆虫」を発見してしまった。
例えばこの写真は、新宿東口駅前の花壇にいた「セマダラコガネ」という昆虫だ。
しかし行き交う人は 誰もその存在に気づかず、まさにぼくだけに見える「幽霊」のようなものだ。
実は東京には、花壇をはじめ庭や空き地や道端に、たくさんの植物が生えている。
植物があればそこに昆虫や鳥たちが住みつき、そうやって都市環境に適応した独自の生態系が出来上がる。しかし人々には「都市には自然はない」という先入観 があるから、都市の生態系そのものが、幽霊なのだ。

そんな東京の幽霊=昆虫を撮ったぼくの写真は、心霊写真のようなものだろうか。
心霊写真は思わぬところに幽霊が写っているものだが、東京の昆虫も思わぬ 場所に出現するから面白い。
しかし普通のマクロレンズで昆虫のアップを撮ると、背景がボケてどんな場所にいるのかが表現できない。
だから昆虫ををアップに しながら、遠景までの全てにピントの合った写真を撮る必要があった。
それでコンパクトデジカメの特性を活かした「デジワイド」という手法を開発し、その成 果が先ごろ『東京昆虫デジワイド』という一冊の写真集となった。
これを見れば、東京の昆虫が幽霊ではなく実体であることが、リアルに感じられるだろう。
東 京という街は、その気になれば昆虫観察も出来てしまうような、まさに「何でも有り」の先進都市なのだ。

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2008年3月16日 (日)

フォトモの作者が考えていること

以前、自分の作品集(写真集)の巻末のテキストはオマケのようなものだと書いたが(ここの最後のあたり)、どうせオマケならここに載せてしまおうということで、以下『フォトモの物件』の巻末テキストの全文を掲載する(写真はとりあえず省略するが、気まぐれで追加するかもしれない)。
このテキストには、ぼくがこのブログで書こうとしてなかなか書けないでいる「非人称芸術」のさらに上位概念で、「路上ネイチャー」との共通コンセプトもなる「芸術的価値判断」(仮称)についてある程度書いてある。
もちろん、これについてはまだ全然書き足りないので、続きはこのブロク上で展開できたらと思う。

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フォトモの作者が考えていること

前作の作品集『フォトモの街角』(アートン)と、それ以前の作品集『出現! フォトモ』(パルコ出版)と同じく、ここでもまたフォトモについての解説を書くことになりました。フォトモをはじめとするアートの多くは、作品の発展とともに「アーティストが何を考えているか」という内容もまた発展してゆくのです。ですから本書では前作の内容をふまえつつ、さらにまた別の角度から、フォトモとそのコンセプトについて掘り下げてみました。

■フォトモは物件の標本である

 この本に収録されたフォトモ作品は、ぼくが東京やその他の地方都市などの「路上」を歩き回るうち、「これは!」と感じた「物件」を採集したものです。しかし路上の物件は不動産なので、採集して持ち帰ることはできません。ですから、ぼくは「路上」というフィールドに関心を持ちはじめた当初、気にいったり心に引っかかったりした「物件」は写真に撮って採集していました。しかし写真はペラペラな平面であって、いまひとつ採集の満足感がありません。採集というと、たとえば昆虫採集のように、標本という「モノ」がほしくなってしまうのです。
 標本とは生物から生命を抜き取り、コレクション可能なオブジェへと変化させたものです。同じように、建物や町並みから生命を抜き取り、コレクション可能なオブジェに変換したものは「模型」と言われます。しかし実物そのものではない手作りの模型は、標本のような「実証性」に欠けます。一方、平面でしかない写真には、標本と同様に実証性が備わっています。
 そこで、写真、模型、標本の3つを兼ね備えたメディアとして、「フォトモ」の技法にたどり着いたのです。写真を立体的に再構成したフォトモは、写真の実証性と模型的な存在感を兼ね備えています。また、写真的外皮で構成されたフォトモは、写真を素材にした剥製標本のようでもあるのです。

■組み立てることで作品に参加できる

 フォトモは、そうしたぼくの強い「想い」から生まれた作品ですが、見る人がただ受身でいる必要はありません。フォトモはぼくの意図せぬ結果として、鑑賞者が積極的に参加できる作品にもなったのです。
 まず、本書に収録されたのはバラバラのパーツですから、これを組み立てなければフォトモにはなりません。文字どおり作品の最後の仕上げを、見る人の手に委ねているのです。これは作品集としては不親切と言えますが、作家の作業を追体験することで、作品そのものに参加することができるわけです。
 また、フォトモの独特の立体効果は、フォトモの「本物」を見ないと体験できません。ですからフォトモを雑誌や作品集などの印刷メディアに載せようとしたとき、「プラモデルのような組み立て式」にするというアイデアに行き着いたのです。フォトモ作品の「本物」は高精細な写真印画紙を素材に作られます。それに対し「組み立てフォトモ」は印刷物ですが、その完成品には本物と同様の立体効果があり、限りなくオリジナルに近いレプリカとなるのです。

■見て楽しむことでも作品に参加できる

 本書に収録された「組み立てフォトモ」は、組み立てなくてもグラフィックとして見て楽しむことができます。何しろ建物の断片や人物などの切り抜き写真が、重力の法則を無視して上下バラバラにレイアウトされている、こんな「絵」は他のアートでは見当たりません。これは雑誌連載時の「A4サイズ・1ページ」という制約の中に、できるだけ多くのパーツをすき間なくギッチリ詰め込もうとした結果です。このように、えてしてアート作品は、作家の意図しないところで面白くなったりもするものなのです(写真*)。
 さて、ぼくは本書の前半に、各フォトモ作品についての解説を添えました。もちろん、ぼくなりに面白く書いたつもりですが、しかしこれが唯一正しいフォトモの解釈というわけではありません。そもそも作家は、自分の作品についての想いをすべて言葉にできるわけではないのです。そして、フォトモに限らずアート作品には常に、言葉に表現できない「何か」が含まれているのです。
 それに、アートに対する価値観や感性は、人によって異なります。どんなアート作品も、世間に発表されたそのときから、作者の手を離れてさまざまに解釈されます。ですからフォトモ作品から何を読み取り感じるかは、各自の人生経験や感受性によって異なるはずです。だからぼくの書いた解説は、フォトモ作品を楽しむためのヒントやガイドのようなものにすぎないのです。
 たとえば、ぼくは何度か「懐かしい」という感情に違和感を覚える、というようなことを書きましたが、それはぼく個人の感想です。だから、フォトモに対し、ぼくの感じなかった「懐かしさ」や「下町情緒」に価値を見出した人がいるのなら、それはその人独自の感性に基づいた、フォトモを通じての「価値の創造」なのです。
 フォトモは現実の街並みそっくりですが、その大きさだけが縮小されています。これがかえって、ダイレクトな現実からは得られない、さまざまな想像力を呼び起こします。しかもフォトモは写真を素材としている性質上、作者が見落としているようなさまざまな物事が写り込んでいる可能性があります。ですからぼくの想いとは無関係に、誰もが自分の思い入れで鑑賞できるような「自由度」があり、その意味でも「参加度」が高いのです。  フォトモをどれだけ深く味わい、楽しむことができるかは見る人の「想像力」にかかっています。その意味で、フォトモの持つ「自由度」「参加度」は、見る人に対する「挑発」でもあるのです。

■フォトモで提案する「現実の見方」

 以上、フォトモ作品の見方を提案してみましたが、ぼくはさらにフォトモによって「現実の見方」も提案したいと思っています。それはちょっと常識をずらして、日常的現実をまったく別の方向から捉える視点です。
 ぼくは、とにかく路上を歩き回るのが好きなのですが、その目的はフォトモをはじめとする写真撮影ではありません。写真を撮るのはあくまでも二次的要素で、第一の目的は「路上そのものを見ること」なのです。ぼくは路上を歩くとき、常識をちょっとずらした「モード」に脳内スイッチを切り替えます。すると、路上のさまざまなものが、まるで芸術のオブジェのように見えてくるのです。
 たとえば、P11の「街の掲示板」の実物を地面から引っこ抜いて、日本語の通じないどこかの国の美術館に、誰かの作品として偽って展示したら、「かっこいいアート作品」として案外受けるんじゃないか? と、そんなことを想像してみるわけです。P6の「浅草新仲ハトヤ」のコメントに「ショーケースが、現代美術のオブジェに見える」というふうに書いたのも、まさに同じ意味です。また、P12「木造モルタルアパート」の現物は、周囲の建物がすべて撤去された空き地にポツンと建っており、そのありさまは「展示されたオブジェ作品」そのものであり、思わず鑑賞してしまうのです(写真*)。 つまり、掲示板であろうがアパートであろうが、「それが何であるか」をわざと忘れて見ると、無意味なオブジェとしての姿が見えてくるのです。

■道端の何もかもが芸術に見える

 これはぼくのオリジナルな考えではなく、マルセル・デュシャン(1887-1968。フランス出身で、のちにアメリカで活躍した美術家)が「レディ・メイド」というシリーズ作品で示したコンセプトです。デュシャンのレディ・メイドとは、便器とか自転車の車輪などの既製品(レディ・メイド)を買ってきて、それを美術館の展示台の上に置いただけの「作品」です(写真*)。 美術館に展示された品物は「それが何であるか」という意味を強制的に奪われて、「魅惑的な造形のオブジェ作品」となる。このことをデュシャンは示したのです。
 レディ・メイドでは、「何でも」芸術になる可能性があることを示されていますが、「何でも」というのは際限がなく「それを言っちゃぁ、おしまいよ」という感じです。まぁ、デュシャンを例に出すまでもなく、現代アートというのはどんな表現もありの分野ですから、「道端の何もかもがアートに見える」なんてことは、いろんな人に繰り返し言われてことでもあります。しかし、「アートはアーティストによって作られる」という前提があったので、これまでそれは冗談として片づけられていました。しかし、ぼくはそこに、冗談では済まされない「何か」をずっと感じていたのです。
 そこでぼくは、自分の感じている「何か」について、じっくり考えてみることにしました。まず気づいたのは、自分には路上の物件の「すべて」が芸術に見えているわけではなく、どうも何らかの基準で選別しているようだ、ということです。「何でも芸術に見える可能性がある」ことと、「現に目の前のものが芸術に見える」ことは違うわけです。それでさらに、自分は路上の「何」に反応しているのかと自問してみました。再びフォトモで作った掲示板、ショーケース、アパートの例で考えると、ぼくはこれらの「機能美」に感動しているのではありません。もちろんこれらの物件に、実用品としての機能美が備わっていることは認めますが、そもそも「それが何であるか」という機能を忘れて鑑賞しているのです。
「それが何であるか」を忘れて見えてくるのは、たとえば「街の掲示板」で言うと、貼り紙と貼り紙の「意図せざる組み合わせ」でした。サビた画鋲の配置も、意図があるようで半ば成り行きです。傍らの「ひったくり……」の看板との組み合わせも、明確な必然はありません。また、屋外に設置された掲示板は風雨にさらされた結果薄汚れ、新品の頃の色彩とは異なっています。このように、本来の機能以外の、人々の意図から外れた結果が、オブジェとしての掲示板にさまざまな変化を加え、「芸術としての味わい」を醸し出しているのです。同じことはもちろん「ハトヤのショーケース」や「木造モルタルアパート」にも言えます。
 つまりこれらの「芸術に見える物件」は、人間の意図的な行いに重なる「意図せざる行い」によって造形されていると見ることができるのです。そしてぼくは路上の物件の、そうした要素に反応していたのでした。

■「非人称芸術」というコンセプト

 そこでこのような物件を、「非人称芸術」と呼ぶことにしました。この場合の「非人称」は「主体の特定できない人間の行い」という意味です(ぼくが読んだ本には、「判決を下すのは裁判官という一人称ではなく、日本国民という非人称である」というように書かれていました)。人間が意図した行いからは、本人が気づかないような、意図しない結果も生じます。それに都市という空間では、さまざまな人間の意図がぶつかり合い、それがさまざまな「非人称」としての作用になり、人知れず「非人称芸術」を生み出しているのです。
 常識的な視点から「非人称芸術」という視点に、脳内スイッチを切り替えて街を見ると、その様相は一変します。たとえば、P14の「江古田ゆうゆうロード」や、P8の「続・リバーシブル沿線商店街」、P4の「代々木ガード前商店街」は、「懐かしい商店街」から「わけの分からないオブジェのぶつかり合い」に変貌します。作品解説にも書きましたが、商店の店構えや看板のデザインは意図的なものだとしても、それらが「路上」という場所でぶつかり合うと、人間の意図を超えた造形物=非人称芸術になるのです。
 なると言っても、もちろん商店街は何も変わらず、ただ「見方」が変わっただけです。非人称芸術は「アーティストがいない芸術」という意味でもありますから、それは鑑賞者の「見方」によって創造されるのです。先ほど、「どんなアート作品も、世間に発表されたそのときから、作者の手を離れてさまざまに解釈されます」と書きましたが、だとしたらアート作品でないものが、元の意味から離れ、アートとして解釈されることもありえるわけです。
 ぼくにとって路上とは、絶え間なく非人称芸術が連なる世界であり、たとえるならヒエロニムス・ボス(1450-1516。オランダ出身の画家)の不思議な絵の世界に迷い込んだような気分なのです(図*)これははたから見るとビョーキみたいですが、脳内スイッチを「常識」に戻すこともできますからビョーキではありません(笑)。それどころか、日常の何もかもが面白く見えるので、「世の中つまらないことばかり……」と下をうつむいて歩いているような人よりも、よっぽど健康な精神状態なのかもしれません。

■フォトモは非人称芸術の副産物

 ぼくは非人称芸術というコンセプトにたどり着く前、現代美術のアーティストにあこがれていました。しかしどうも自分には絵の才能も立体造形の才能もないことを自覚するとともに、道端の「芸術のようなモノや空間」に心魅かれていったのです。ぼくは他人の作品を見ることも大好きだったので、「見ることで創造する」非人称芸術のコンセプトは、まさに自分にフィットしたものでした。
 非人称芸術は「作品制作」という制約から想像力が解放されたアートといえますが、その一方で「手作業で何か作りたい」というアートの根源的な欲求がスポイルされてしまっていることも事実です。そこで「非人称芸術の記録」という名目のもと、写真撮影をするようになりました。これが冒頭で書いた「写真による採集」であり、それはやがて「写真の剥製」であるフォトモへと発展したのです。ですから、フォトモとは、非人称芸術の副産物とも言えるのです。そして、路上の非人称芸術を見ることを第一目的にし、フォトモの撮影は二の次くらいに考えたほうが、かえっていいフォトモができあがるのです。

■非人称芸術は、さまざまなアートと共存する

 非人称芸術は、ぼく独自の芸術観から導き出されたコンセプトです。価値観が多様化した現代では、「アートとは何か」を一律に定義することはできません。「アートとは何か」は、人によってまちまちであり、言い換えれば誰もが何らかの形で(自覚的、無自覚的を問わず)独自にアートを定義し、作品を作ったり鑑賞したりしているのです。ですからぼくも、自分なりに「アートとは何か」を考え、そして「非人称芸術」というコンセプトに行き着いたのです。これはぼくにとって、アートは「作者不在でも成立する」ものであることを示しています。
 常識的な考えでは、アートはアーティストがあって成立するものです。しかし一方で、優れたアート作品は、アーティストの「無私」から生まれます。よく言われるように、描こうと意識すると描けなくなり、そうした意識が消えると描けてしまうのがアートなのです。アートの源は、意識の奥底に隠れた無意識とか、天上から降りてくるインスピレーションとか、そういうアーティストの日常的な人格を超えたところにあります。だからアーティストは製作の際、いかに「日常的な人格」に邪魔されず「無私」になれるか、苦労するのです。そしてぼく自身、芸術家にあこがれていた時代は、なかなか「無私」にはなれなかったけれど、自分の外部に「非人称芸術」という形の「無私」を発見したわけです。
 作者不在の「非人称芸術」が、アートとして認められるかどうかは、まさに「アートとは何か」という定義にかかわってきます。人によっては「アーティストが生み出すものだけがアートである」と定義しているかもしれません。しかしそのどちらが「正しい」かは、簡単に決められることではないでしょう。価値観が多様化した現代では、アートもさまざまな形で提示され、そうした状態のほうが自然なのです。アートを作る人も見る人も、各自がその多様化したアートの形の中からどれかひとつ、自分の感覚にフィットした「アートとは何か」をセレクトすればいいのです。ですからぼくは、非人称芸術を「アートとは何か」という多様な選択肢のひとつとして、提示するのです。
 非人称芸術は、古今東西のさまざまなジャンルのアートを「参照」することで創造されます。一般的には芸術と認識されていない路上の物件に対し「アートのようだ」と思って鑑賞するには、そもそもアートがどういうものであるか、ある程度知っている必要があるのです。
 ぼくの撮った写真を例を出すと、写真*は古くて使われなくなった掲示板ですが、この布の裂け目がルーチョ・フォンタナ(1899-1968。イタリアの現代美術家)のキャンバスにナイフで切れ目を入れた作品を連想させます。フォンタナは原色に塗ったキャンバスに切れ目を入れましたが、この掲示板の布はうす汚れて複雑な色合いになっており、フォンタナとは違う「作風」となっています。また(写真*)は、先ほど例にあげたデュシャンの「自転車の車輪」にそっくりです。しかしぼくの見つけた物件のほうは、さらに郵便受けや鉄パイプと組み合わされ、それが後ろの戸袋とあいまって、ロバート・ラウシェンバーク(1925年-。アメリカの現代美術家)のコンバイン・ペインティング(結合絵画)のようでもあります。
 もちろん、特定のアート作品にそっくりなものを探し出すのが目的ではなく、あくまで「アートの味わい」を持ったものを楽しむのが目的です。ですから必要なのは、どれだけ多くのアート作品を知っているかという知識ではなく、アートを味わう感覚を養うことです。その意味で、非人称芸術はその他のアートに依存していると言えるのです。
 その逆に、非人称芸術は人が作るアートの分野にさまざまなものをもたらすはずだと、ぼくは思います。現にフォトモは、非人称芸術の副産物としてもたらされた、人が作るアート作品でもあるのです。先に触れたように、非人称芸術には「多様なアートのあり方の選択肢のひとつとして提示される」という側面もあります。このように非人称芸術とその他のアート分野は、相補的に共存しながら発展していく可能性があるとぼくは思っています。

■路上は「贈与」であふれている

 アートというものは、人々に「贈与」としてもたらされるものだとぼくは思います。その点で、お金と等価交換される「商品」とは違うのです。
 まずアーティストにとって、自身の才能は(遺伝なのか神なのかはともかく)贈与としてもたらされます。そしてアーティストの「無私」の状態で生じるアートのイメージも(無意識なのか天から降りてくるのかはともかく)贈与としてもたらされます。それに対し商品は、たとえばどんなに精巧にできた機械であっても、それは理論と技術の蓄積ですから、ある金額との等価交換が成立します。
 しかしアート作品は、もとが「贈与」だけにお金に換算できない独自の価値を持っています。アート作品に法外な値段がつくことがあるのは、「お金に換算できない価値がある」ことを、あえて金額で示したことの現れだとぼくは思います。その逆に「お金に換算できない価値がある」ゆえに、アーティストに対し不当に安い金額しか支払われない場合もあるわけです。現代は何でもお金に換算できる時代ですが、アートに代表される「お金に換算できない価値」があることが見落とされがちなのです。
 ところで、人間によって生み出された都市空間は、道路や一部の公共施設を除いたほとんどが、経済的な等価交換の産物です。デパートやスーパーマーケットや個人経営の商店は、そこで商品の売り買いがされることが目的で建てられます。アパートやマンションが建てられるのは、家賃を払ってそこに住む人がいるからです。賃貸以外の住宅は、住む人がお金を払って建てたものです。このように街の建物のほとんどは、「お金」とのかかわりを理由にして存在しています。
 ところが見方を変えれば、というか、あらゆる建物は利用せずに「見るだけ」ならタダなのです。つまり、人が人のために用意した建物を「使用しない」という立場で見ると、それは圧倒的な量の「贈与」として受け取ることができるのです。あるいは「それが何であるか」を忘れて見ると、意味のないオブジェが大量に、惜しげもなく贈与されていることに気づくのです。
 それは人々の等価交換の結果もたらされた、誰も意図せざるところから生じた「贈与」です。この贈与は多くの人が気づかないままでいますが、それを受け取ることができれば、目の前に「非人称芸術」というまったく違う世界が広がるのです。

■フォトモから「芸術的価値判断」という提言

 物事にはさまざまな価値判断の基準が適用できます。たとえば目の前に名も知らぬ木の実がなっているとして、それに対して「おいしいかまずいか?」とか「薬としての効果があるか?」とか「売ったらいくらになるか?」などさまざまです。もともと木の実は、人間の食べ物としても、薬としても存在しているわけではないし、もとより値段がついているわけではありません。にもかかわらず、人間は物事に勝手な価値基準を当てはめて判断するのです。
 そこでぼくは、新たな価値判断の基準を提言したいのです。それは「これは芸術ではないけれど、もし芸術だとしたら、芸術的価値はどれくらいだろう?」というものです。芸術的価値は、本来芸術のみに当てはまる価値観ですが、それをさまざまな事物の判断基準にしてみようということで、ぼくはこれを「芸術的価値判断」と名づけてみました。
 この「芸術的価値判断」の一例が「非人称芸術」なのです。そのほかには、たとえば言い争いをしている2人の主張の、どちらの理屈に整合性があり、どちらが正義なのかの判断ができない場合を想定してみます。するとそこに「2人の主張がもし芸術だったとして、どちらがお話として面白いか?」という判断が成り立つのです。これはぼくもまだ考え中のことで、実際にどのように応用できるのかはわかりません。
 しかしながらぼくは、自然の生き物に対しては、この「芸術的価値判断」を導入しています。ぼくは昆虫をはじめとする生き物に魅せられていますが、それはその形態や特殊な生態に対し「もしこれが芸術だとしたら、たいへんに素晴らしい」という価値判断をしているのです。
 世間での自然保護運動は「子どもの未来のために地球を守れ」のように、どうも人事のようなよそよそしさを感じます。これに対し「自然の芸術的贈与を享受したい」というのは切実であり、自然保護の強力な動機になり得ます。
 この想いを作品化したのが、本書と同時発売になる『東京昆虫デジワイド』の昆虫写真「デジワイド」です。これは特殊なデジカメを使い、路上で見つけた昆虫を、背景の街並みとともに写し込んだシリーズです。「都会に自然なんかない」と多くの人が思うのは先入観で、実際には意外に多くの昆虫が街中の環境に適応し住みついているのです。昆虫はそれ自体がまるで芸術のような造形であり、思わず目を近づけて見入ってしまいます。昆虫が街中にたたずんでいる光景は、まるでシュールレアリズムの絵画のようであり、まさに「非人称芸術」の一形態といえるのです。
 フォトモとデジワイドは表現が大きく異なりますが、「非人称芸術」や「芸術的価値判断」というコンセプトでつながっており、その応用範囲はさらに広がる可能性があります。
 というわけで、ぼくは以上のようなことを考えながら路上を歩き、フォトモを作っています。正直なところ、ぼくの考えていることにどれほどの「価値」があるのかはわかりません。しかし少なくともフォトモが、誰もが理屈なしに自由な感性で楽しめるアートであることは、間違いないと思っています。

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2007年9月 5日 (水)

写真では伝えきれないフォトモの魅力

「図書館教育ニュース」という、中学校や高校向けの壁新聞にフォトモが紹介されることになりました。
で、以下は壁新聞の付録誌用のテキストで、限られた人しか読まないので、こっちにもアップすることにしました。
限られた文字数なので「非人称芸術」の言葉は使っていません。
何となく上から目線なのは、生徒が読むことを想定してるからですが、あらためて依頼書を確認したら図書館担当の先生が対象読者でした(笑)
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写真では伝えきれない
フォトモの魅力

 フォトモとは、写真に写ったモノをハサミなどで切り抜き、プラモデルのパーツのように立体構成して製作する、3D写真の一種です。それで、フォト(写真)+モデル(模型)から「フォトモ」と名付けました。仕組みは単純ですが、実際のフォトモ作品を見ると想像以上にリアリティがあるので驚きます。それはフォトモの持つ「写真的な平面の立体」と「模型的な実際の立体」が、見る人の脳内で上手い具合にミックスされるからだと考えています。ですからフォトモ作品の本来の魅力は、写真では伝えきることは出来ません。そのためぼくは、できるだけ頻繁に「フォトモ展」を開催するよう心がけています。また、完成したフォトモをバラバラのパーツに分解し、プラモデルのような製作キットにアレンジした「組み立てフォトモ」の作品集も出版しています。これを製作すれば、誰もが実際にフォトモ独特の立体感を体験できるのです。

アートの行き詰まりから
新しいアートが見えてきた

ぼくは子供の頃から絵を描くのが好きだったので、高校の美術部を経て美術大学に進学しました。ところが美大在学中にいろいろなアート作品に接するうち「自分が素晴らしいと思えるアートは、すでに他人の作品として世にあふれている」と思うようになりました。つまり、自分自身が表現するアートに行き詰ってしまったのです。そんなぼくは気晴らしのためにプラモデルを作ったり、散歩をしたりしてました。その散歩中にぼくは「自分が知っている街にそっくりだけど、知らない街に迷い込む」という、奇妙な感覚を覚えました。美大時代に住んでいた東京都八王子市は、高校生まで住んでいた長野県長野市とよく似た地方都市で、まさに「知っているようで知らない街」なのです。そのうち、街並み自体が「街」としてではなく「自分の知らない、奇妙なアート作品」の連なりのように見えることに気づきました。例えば商店街には「パン屋さん」や「八百屋さん」などのお店が並んでいます。しかしそれらが「○○屋さんである」というのは先入観で、その先入観を取り除くとそれらの建物は「自分の知らない、奇妙なアート作品」に見えてくる・・・そんなことを発見たのです。

写真では伝わらない感覚が
フォトモで表現できる

そこでぼくは「アートではないものがアートに見えてくる」という感覚に基づき、写真を撮り始めました。しかし街を写した写真はやっぱり「街」にしか見えず、ぼくの感覚がどうしても表現できません。そこでふと、「街並みが立体なら、写真もプラモデルのような立体にすれば良い」と思い付き、フォトモの技法が生まれたのです。フォトモで表現された街並みは、プラモデルのように縮小されたことで実物にあった「機能」がなくなり、「純粋な形」として表現されます。しかしプラモデルと違い、写真を素材にしたフォトモには「そこにあったもの」としての実証性があります。だからフォトモは「街並みをオブジェ芸術のように見る」というぼくの感覚を、的確に表現する手段となったのです。

「人より優れたもの」ではなく
「人と違うもの」を生み出す可能性

結局ぼくは、一度はアートに挫折したのですが、その挫折をまっとうに克服しなかったことで、かえって新しい方向性が見つかったといえます。それは、散歩だとかプラモデルとか、一見関係ないような方に「よそ見」ばかりしたおかげかもしれません。挫折したときはそれをバネにしてもっと頑張る、という方法もありますが、それだと「人より優れたもの」は生み出せても、「人と違うもの」は生まれにくいのかもしれません。時には挫折したことにこだわらず、いろいろなものに興味を持つのも良いのかもしれません。

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2007年8月 7日 (火)

The World of FOTOMO 日本語原文

The World of FOTOMOはオリンパスの英文サイトPURSUITに提供したコンテンツです。
これまでぼくは「フォトモ」と「非人称芸術」の関連についていくつかの媒体に書きましたが、ネット上ではそれらの詳細なテキストは発表してませんでした。
ですからここにあらためて、The World of FOTOMOの日本語原文を掲載します。
さらに詳しい解説は、ぼくのフォトモ作品集をご覧ください。

では、以下どうぞ。

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「フォトモの世界」

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フォトモとは

Yaoya

上に示した画像は、パソコン上に製作した仮想的立体物ではない。これは現実に立体的なものであり、実際に手に取って見ることができる。
この作品は現実の風景を写した写真を切り抜き、それを立体構成し製作されている。
この手法を私はフォトグラフ・モデルの略語として「FOTOMO」と名付けた(日本ではプラスティックモデルをプラモと略す習慣があり、それに従った)。

写真というメディアは「これぞ本物」という実証性がある反面、あくまで平面の像でしかない。
逆に立体物である模型は、どんなに精密に作り込んでも「写真と同じリアルさ」にはならない。
FOTOMOは文字通り、写真のリアリティと模型の存在感を兼ね備えている。

FOTOMOの鑑賞者の脳内では、模型的な現実の立体と、写真的な仮想の立体がミックスされ、非常に奇妙な立体感が体験できる。
だからFOTOMO製作の際には、大まかな形のみを立体で作り、細かな立体は元の写真像を活かすようにしている。
また、このFOTOMOは元の写真のパースペクティブを活かした半立体表現になっており、限られた空間内に奥行を表現している。
現実的な立体写真であるFOTOMOは様々なアングルから鑑賞するし、その場所に実際に行ったような気分に浸ることが出来る。

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フォトモのコンセプト

私がフォトモのモチーフとするのは日常的な街並み、建物、オブジェクトなどに限られる。
私は日本以外の国でもフォトモの製作をするが、どこへ行っても有名な建築物や観光地はモチーフに選ばない。
それらのものは、多くの人々にすでに価値が認められているもので、わざわざフォトモで表現する必要を私は認めない。
私が興味があるのは、あまりに日常的過ぎて誰もが見過ごしているものの中に、私独自の価値を見出すことであり、それを表現するためにフォトモを製作しているのだ。

私は自ら提唱する「非人称芸術 Impersonal art」と言うコンセプトに基づいて、作品を制作している。
例えば上に示したフォトモのモチーフとなった建物は、1階が八百屋で2階はカラオケ店(レーザーディスク完備と書いてある)であり、その隣は子育てを祈願するためのお寺がある。
この組み合わせは日本の日常的感覚から見ても奇妙であり、まさに「解剖台の上でミシンとこうもり傘が出会ったよう」(シュールレアリズムの有名な誌の一部)である。
しかしこの奇妙な街の一角は、一人のアーティストの無意識によって創作されたものではない。
それは多くの人々の無自覚な行いの結果として現れたもので、まさに作者不在の芸術作品のように私には見える。
そこで私はこのようなものを「非人称芸術」と呼ぶことにした。
この場合の非人称とは「人間の行いにもかかわらず、主体が特定できない有様」を指す。
近代的な都市空間は人々の理性によって作られているが、それと同時に様々な「非人称」の作用も存在する。
作者不在の非人称芸術は、非人称的作用のうちに芸術的価値を発見する鑑賞者によって創造される。
非人称芸術は私の製作物ではないので、写真で記録することになる。
しかし私が「非人称芸術だ」と思って撮影したものは、ことごとく単なる風景写真になってしまった。
そこで非人称芸術を「オブジェ」として表現するフォトモの技法に行き当たったのだ。
フォトモとしてミニチュアとなった街並みや建物は、実用性を完全に失った純粋なオブジェとなる。
そうすることで、現実世界を純粋なオブジェとして鑑賞する私の視点が、作品として表現できるのである。
フォトモはまさに私にとって、非人称芸術を表現するためのメディアなのである。

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フォトモの製作過程

私がこのフォトモのために撮影したのは建物の写真が6枚と、通行人の写真が数枚(ここに掲載した以外にも撮影している)である。
建物は壁面ごとに少しずつ角度を変えて撮っている。

撮影した写真をこのように並べると、全体のイメージを掴むことができる。
このイメージを元にプリントを切り抜き、適切に立体構成するとフォトモが出来上がる。
この作品はデジタルカメラで撮影し、パソコンで画像加工して作られている。
しかしそれはごく最近のことで、私は10年以上前から35mmフィルムで撮影したプリントを切り抜き、フォトモを製作している。
だから私は新しい写真表現を模索する上で、銀塩かデジタルかという違いは重要視する必要がないと考えている。

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[Welcome to Planet 60x]日本語原文

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Welcome to Planet 60xはオリンパスの英文サイトに提供したコンテンツですが、ここにあらためてぼくが日本語で書いた原文を掲載します。
いちおう英訳しやすいよう、英語の訳文のような少し硬い感じの日本語で書いたつもりです。
このシリーズは、2001年10月コニカプラザで開催した個展『60倍の惑星』として発表したもので、2007年に発売された写真集『東京昆虫デジワイド』の原型ともなった手法です(同書ではスペースの都合でそのところまで触れることができませんでしたが)。
また以下のテキストでも、これまたスペースの都合で「60倍の惑星」と「非人称芸術」とのつながりを説明するに至りませんでした。
いや、実際は「非人称芸術」という用語が出てこないだけで、それについては説明してるので、趣旨は分かるんじゃないかと思いますが。
と言うわけで、以下どうぞ。

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「60倍の惑星」

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隊員達はナゾの惑星を探査してゆく。
目の前に次々と現れる奇怪なオブジェの数々…

「一体どういう惑星なのだろうか?」
「とにかく調べるんだ、徹底的に。」

身長3センチ、1/60スケールの人形を路上に置き、写真に撮る。
すると周りの全てが60倍に拡大された世界が体験可能となる。
『60倍の惑星』は日常に隠されたもうひとつの世界、かつて誰も創造し得なかった光景が広がる未知の領域なのである。

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「日常」とは退屈な事柄の代名詞でもある。
多くの人々は、日常世界については何もかも知り尽くしていて、新しい発見が何もないと思っているだろう。
しかし私はある時、日常世界の細部を拡大すると、そこに魅力的なオブジェクトが発見されることに気付いた。
われわれにとっての日常世界である都市は、人間の意図によって作られている。
しかし人間は役に立つものを作るとき、その細部までに気を回す事はない。
人工物でありながら人間の意図の及ばない領域があり、それが「細部」なのだ。
人間の意図の及ばない細部の造形は、優れた芸術作品に類似している。
優れた芸術作品は、作者の意図を超えた無意識のインスピレーションによって描かれる。
実用的な人工物の細部は、人間の意図を超えた無意識によって造形され、芸術家のインスピレーションと同等の自由さ、意外性、大胆さを備えている。

このことに気付いた私は、まずOLYMPUS OM4-Tiに50mmマクロレンズを装着し、街の細部を拡大撮影した。
ところがこの手法では私の伝えたかった感覚が上手く表現できなかった。
それでいろいろ考えるうち、ポール・セザンヌの以下の言葉が目に止まった。

「ミカンの隣にりんごを置くと、それらは果物となる。ミカンの隣にボールを置くと、それらは球体となる」

私は、同じものも視点によってまったく違って見えることを表現したかったし、セザンヌの言葉にはその方法が暗示されていた。
そこで私は小さな人形を傍らに置き、比較する手法を思いついた。
人形との比較により、細部の実際の大きさの感覚が失われ、純粋なオブジェとして鑑賞することが可能となる。
人形はスタートレックのおもちゃの宇宙船に付属していたものを選び、塗装を替えて使用した。
この人形の無機質な性格が、先入観にとらわれない中立な視点を表している。
レンズは通常のマクロレンズのほかに、魚眼レンズでの接写も試みた。
すると細部に連なる街全体が、SF映画で描かれる他の惑星のように見えるようになった。
知っているはずの日常世界は、未知の「60倍の惑星」に変貌したのだ。

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私はかつてこのシリーズの写真をOLYMPUS OM4-TiにSIGMA 15mm f2.8 FISHEYEを装着し撮影した。
そして今回は、OLYMPUS E-330にZUIKO DIGITAL 8mm f3.5を装着し、新たに撮影した。
E-330は可動液晶モニターのライブビューによりローアングル撮影が楽にでき、これはかつてのOMシステムはもちろん、他のデジタル一眼レフにはない特徴だ。
また、ZUIKO DIGITAL 8mm F3.5 は最短撮影距離が13cmと短く、35mmフィルムカメラ用の15mm魚眼レンズより被写界深度が深い。
このレンズはフードが短いのも特徴で、接写のとき影が出にくく便利である。
かつて使用したシグマ15mmはレンズフードを金属加工用鋸を使い自分で短く切ったが、ズイコーデジタル8mmにはその必要はない。
今回の作品では、OLYMPUS StudioでのRAW現像も試した。
特に暗めの写真を「自動トーン補正」により暗部を無理やり持ち上げると、独特の色調になる。
この効果は写真によって違うので、使いこなすにはさらに研究が必要だ。

近年のデジタルカメラの進歩は著しく、驚くばかりだ。
表現者も更なる新しい視点を提示する必要があるだろう。

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以上、作品はこちらの原ページWelcome to Planet 60xをご覧ください。

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2007年4月 2日 (月)

「現実」の素晴らしさを表現するための写真技法

ぼくは「フォトモ」や「ツギラマ」などという、一風変わった手法で写真を撮っている。でもまず理解して欲しいのは、これらの手法は「被写体の良さを引き出すためにある」ということだ。
被写体とはすなわち「現実世界」のことで、実はぼくは写真よりも現実世界が好きなのだ。

現実が好きなぼくはよく散歩をする。
散歩といっても気晴らしなどではなく、散歩を目的とした散歩のための散歩である。
これは「日常世界の探検」と言い換えても良い。
日常で探検なんてできるのか?と思われるだろうが、例えば自宅周辺であっても、自分が歩いたことのない道は意外に多いはずだ。
そうしたところにふと足を踏み入れると「近所なのに見たことのない風景に出会う」というフシギな体験ができる。
 
こうした視点を周辺地域にまで拡大すれば、歩いたことのない道が無数にあることに気付くだろう。
知らない路地を歩き角を曲がると、さらに知らない風景が広がる……このワクワクした気分が「日常世界の探検」の醍醐味なのだ。
しかしこうした感覚を、写真で表現するのはとても難しい。
単純に言うと、現実は立体なのに写真は平面であり、写真で表現できるリアリティはごく一面でしかない。
だからぼくは、自分が感じたリアリティーを何とかして写し取ろうと思い、フォトモやツギラマなどの手法を導入したのだ。
もちろんこれらの手法も「現実の全て」を表現できるわけではない。
しかしそうした前提があるからこそ、現実とのギャップを埋め合わせるための、さまざまな創意工夫が生まれてくる。
 
どうも現代日本では、現実や日常といったものは否定的に捉えられる風潮がある。
現実より夢や想像の世界が、日常より観光地や海外旅行が、現在より懐かしい過去の時代が、より素晴らしいと考えられている。
それは実にもったいないことで、身の周りの現実にあらためて目を向ければ、そこは新鮮な発見の宝庫となるのだ。
 
だから写真の初心者や、自分の写真に行き詰まりを感じている人は、ぜひとも自分の日常世界に目を向けていただきたい。
現実の素晴らしさを知れば、「それをどうやって写真で再現するか?」という思考につながり、そこからその人独自の「良い写真」が生まれてくるはずだと、ぼくは思う。

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初出:デジタル写真生活 Vol.2(ニューズ出版)

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