映画・アニメ

2011年9月16日 (金)

110914バニシングポイントとデスプルーフ


朝、出がけにしゃべってるが、頭も口も今ひとつ回らずにグダグダに・・・
まぁ、そう言うのも面白いかも知れないので公開するw
映画に出てきた地名をちゃんと言えてないが、正確には「コロラド州デンバーから、カリフォルニア州ロサンゼルス」。

先の動画の続きだが、こちらは映画のネタバレを含んでいる。

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2011年8月30日 (火)

プラネット・テラーとデス・プルーフ


ロバート・ロドリゲス『プラネット・テラー』観たが、普通に面白い映画だとは言えるだろうが、同じく「グラインドハウス」のコンセプトで作られたタランティーノの『デス・プルーフ』に比べるとだいぶ劣ってしまう。
いや、『デス・プルーフ』の凄さを知る上でも、『プラネット・テラー』はセットで観るべきと言えるかもしれない。

『プラネット・テラー』も『デス・プルーフ』も、「グラインドハウス」と言われる70年代アメリカB級映画のオマージュで、言ってみれば両方とも悪ふざけ映画である。
しかし『プラネット・テラー』が「B級映画の枠内」で遊んでるのに対し、『デス・プルーフ』は「映画」というもの自体を対象化し、場外乱闘で遊んでる感じがする。

恐らく、A級映画に比べて洗練度が低いB級映画は、映画表現としての「間違い」が混入し、映画の「外部」へと部分的に飛び出している。
そのような天然の「間違い」を取り入れ、意図的にコントロールし、映画の「外部」へ大胆にのびのびと飛び出したのが『デス・プルーフ』で、何度見ても非常な爽快感がある

そんな『デス・プルーフ』に対して『プラネット・テラー』の悪ふざけは予定調和的で、その意味で優等生的な映画と言えるかもしれない。
ロバート・ロドリゲスは昔のB級映画の断片を再構成して同レベルのB級映画を作り、タランティーノはB級映画の要素を利用し超A級映画を作った。
ジャンク映画を切り貼りして高級映画を実現するタランティーノの映画は、真の意味でのジャンクアートなのかもしれない。

タランティーノの映画はまた、ダヴィンチの絵画にも共通する「芸術的退屈さ」を含んでいる。
ロバート・ロドリゲスの映画にはそれがなく、観客に対し絶え間なくサービスし続けている。

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『レザボア・ドッグス』と『レベッカ』

タランティーノ『レザボア・ドッグス』は銀行強盗団の映画なのに、銀行強盗のシーンが一切ない。
それでいて、銀行強盗の惨状を観客にありありと思い描かせる。例えば画家が絵の具でリンゴの絵を描くように、タランティーノは銀行強盗では無いシーンを画材にして銀行強盗を描く。
まさに芸術の原点と言えるかも…
それ以外にも、この映画は意味のない無駄話のシーンが多かったり、回想シーンも多くて時系列がバラバラで混乱していたり、世間がイメージする「面白い映画」のパターンをことごとく裏切っている。

正しい芸術は常に世間的イメージを裏切る、なぜなら世間は常に間違っているから。
ということは、キューブリックやタランティーノの映画を観るとよく分かる。
いやそもそも「正しさ」を追求する哲学は世間的イメージを裏切る、なぜなら世間的イメージは常に間違っているから…とプラトンは書いている。
プラトンは中学生でも読めるくらい平易で、今時プラトンを読んでない人は文明人としてモグリの野蛮人でしかない(ぼくも今年の正月から読み始めたのですがw)

次いでヒッチコック監督の『レベッカ』を見たが、これぞまさに大衆映画の味わい。
庶民の娘が急に大金持ちと再婚し、広い屋敷でオドオドして、古株のお手伝いさんに睨まれてビクビクして、そうすると大多数の観客に共感してもらえるという仕組み。
そして小心者がヘマをして、しかし数奇な偶然が味方し都合良く難を逃れる、というお話。
ヒッチコック監督は常に弱い庶民の味方で、ぼくとしてはどうも苦手(でも研究として観たくなるのだが)。

映画のタイトルにあるレベッカなる女性は登場せず、登場人物が彼女の思い出を語るのみで、この点、銀行強盗のシーンの無い銀行強盗映画である『レザボア・ドッグス』も同じと言えるかもしれない。
しかし『レベッカ』の主人公「わたし」だけはレベッカを見たことがなく、観客はそんな主人公の不安な立場に容易に同調できる仕組みになっている。
『レベッカ』では「レベッカの不在」がミステリーを盛り上げる重要な要素になっており、「レベッカの不在」がテーマの一つとして直接描かれている。
あくまで分かりやすい大衆映画の手法である。

これに対し『レザボア・ドッグス』では登場人物は誰もが銀行強盗の当事者で、観客だけがそのシーンを見る事が出来ない。
観客の予測とその裏切りの差異よって、表現に透明感が生じる。
もしくは表現の「表現の寸止め」によって、豊かな空間が生じさせている。

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2011年8月14日 (日)

『裏窓』と「われ−それ」の世界

ヒッチコック『裏窓』を観たけど、この映画は一眼レフの元祖「エキザクタ」が出てくるのでカメラマニアの間では有名だ。
しかし主人公は望遠鏡替りに覗くだけで、写真は撮らないw
それよりも呆れるくらいの大衆向けエンターテインメントで、こう言うもんか…と改めて感心してしまった。

この映画は「のぞき趣味」という大衆の下衆な望みを叶えている…いやな表現だが、ワイドショー的と言ったら良いかも知れない。
ともかく大多数の人が望む事を、そのイメージのまま実現しサービスしている。
例えばタランティーノ映画のような「裏切り」が一切無く、あらゆる事がお約束通り、戯画化されている。

『裏窓』は映画と言うより舞台上の芝居の様で、ヒッチコックもそれを意識してるのかもしれない。
もしかすると、ヒッチコック映画は全部「芝居」の系譜なのかも…これに対しタランティーノの映画は、モダンアートの系譜かも…系譜によって映画は分類できる?

ヒッチコックはちょっと前『ハリーの災難』も観たけど、思えば大衆演劇風の下衆な内容だった。
なんと言うか死体をモノみたいに扱って、死者に対する敬意が無く「人が死んでんねんでっ!」と突っ込みたくなったw
この、何か大事なモラルを欠いた感覚は『裏窓』にも共通している。

ヒッチコック映画の世界は、ブーバーが指摘する「われーそれ」の世界だと言えるかも知れない。
覗きにしろ、死体の扱いにしろ、人間を「もの」の様に扱い、そのように扱う人間もまた「もの」になる世界。
ある意味人間味があって、別の意味では人間性は皆無だ。嫌いだけどヒッチコックは別の作品も見たくなるw

「芸術とは何か?」を知るにはタランティーノや小津安二郎の映画がヒントになり、「大衆とは何か?」を知るにはヒッチコックの映画がヒントになる。
どちらも優れた映画であり、非常に為になる。

ところでタランティーノ『デス・プルーフ』がニコニコ動画にアップされてるのに気付き、また全部見てしまったのだか、ダラダラしたガールズトークを、ニコ動のダラダラしたコメントと一緒に見るのはちょうど良いかもw
もちろん画質は悪いので、先にDVDでちゃんと観ないと極上の映画が勿体無い。

『デス・プルーフ』は観る者に非常な我慢を強いるが、決して早送りせずに観続ければそれだけの「ご褒美」が用意されている。
いや繰り返し観ると、その我慢のシーンがだんだん快感になってゆく変態映画だw

ヒッチコック映画が「われーそれ」の世界だとして、タランティーノの映画は「われーなんじ」の関係を実現してるのか?
それは不明だが、少なくともタランティーノは「映画とは何か?」という「全体性」に向かって問いかけているように思える。
ブーバーの「われーなんじ」は部分を持たない全体性らしいので…

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2011年8月 6日 (土)

ちょっと話し合いをしてもらいます

●深作欣二監督『バトルロワイヤル』では、銃を持って立てこもってた仲良し女子中学生が、些細な事で口論となった末に撃ち合いになり、全員死亡する。
つまり口論とは本質的に互いの存在を否定し合う殺し合いで、だから一般人の武器の所持が規制されてるのだ。

●相手の意見を「間違っている」と断ずる事は相手の立場を否定し、相手を殺す事と本質的に変わりない。
もし自分が相手の意見を受け入れるなら、今までの自分は死に、魂の抜かれた自分は相手の言いなりになる。
と、信じてるからお互い一歩も譲らず『バトルロワイヤル』の中学生同士みたいな壮絶な撃ち合いになる。

●『バトルロワイヤル』ではパラレルワールドの日本の法律で、無人島に連行された中学3年のクラスメートが、殺し合いを命じられる。
荒唐無稽な設定だが、こっちのパラレルワールドもチェルノブイリ以上の放射能汚染地域で、中学生が部活動とかしてる。
パラレルじゃないホントの世界に戻りたい…

●大地震や大津波、原発事故や不甲斐な政府の対応など、一連の現象は我々が何時の間にかパラレルワールドに迷い込んだのが原因で、だからもとの世界に戻りましょう、と持ちかける「パラパラ詐欺」にご注意…

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2011年7月20日 (水)

2001年宇宙の(細か過ぎる)旅

『2001年宇宙の旅』をまたDVDで借りて見直しているのだが、非常に細かいネタを発見。

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映画のラスト間際、木星軌道上を漂う謎の物体「モノリス」と接触したスペースポッドが「光のトンネル」を抜けると、なぜか豪華ホテルのような室内に着陸している…

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ポッドの乗務員ボーマンは、呆然としながら部屋を抜け隣のバスルームへと向かう…
ここで画面右下に映るベッドの一部に、「黒い衣類」が置かれているのに注目。

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そしてバスルームのボーマンが部屋の方を振り返ると、ベッド上の「黒い衣類」が無くなっている!
もちろん、普通に観てると気づかないが…

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さっきの「黒い衣服」は恐らく、部屋の奥にいたこの老人(年老いたボーマン)が着ていた黒いガウンなのだろう。
と言うわけで、このガウンが宇宙服姿のボーマンの背後に既に置かれていた、と言うのが今回の細か過ぎる発見w

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ちなみに年老いたボーマンが食事するのは、スペースポッドが着陸したのと同じ場所。

他にも繰り返し観るたびに色んな発見ができる、素晴らし過ぎる映画です。

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2010年12月25日 (土)

「キル・ビル」感想tweet

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Wed, Dec 15

18:27 DVD「キル・ビル」1と2一気に見たが、面白過ぎて驚いた‼
なんの予備知識もなかったのでなおさら…映画の引用シーンはほとんど分からなかったが、十分楽しめる。
もっとも、日本人には日本のパロディが理解できるので有利と言える。
もちろんそういう枠からはみ出した面白さこそが肝心なのだが…

18:42 やはり色々見ないと損だ…と「キル・ビル」でつくづく思った…
フランス美女が刀で腕をバッサリ切り落とされ、血を吹き上げながら床をのたうち回るとか…キチガイ過ぎてサイコーw
もちろん映画の演出としてですよ!
犯罪を憎み、表現としてのキチガイ犯罪を創造すると、芸術になるわけです。

18:52 岡本太郎は「芸術は新しくなければならない」と言ったが、新しい芸術は常識に反して新しく、つまりはキチガイとして現れる。
芸術家はキチガイの一方で理性的ビジネスマンでなければならない。
タランティーノ監督がまさにそれ…

19:24 「キル・ビル」にでてくる「刀」「ヤクザ」「殺し屋」は現実のメタファー…
芸術家は本来凶暴で血に飢えており、思い切り誰かとチャンバラで斬り合い命を奪い合いたい…いやこれもメタファーですがw
でも実際アートやってる人はみな大人しく、ぼくがメタファーで斬りかかると逃げる…ような気がしますw

19:46 ビジネスはともすれば「斬り合い」や「戦争」みたいなところがありますが、そういう世界に疲れた人、なじまない人がアートや写真の世界に流れてるのかもしれない。
と思うと納得できるかも?
基本的に平和主義でおとなしい作家…他に流されない「強い精神」の持主とも言えますが…が多い気がします。

20:01 他者との関係とは、基本的に「斬り合い」「戦争」なのかも知れない…自然の世界がまずそうだから…
弱肉強食のパワーバランスが他者との関係の原点で、それは人間にも現れる。
そう考えると「平和」とは人工的な概念で、これを実現するには自然の力に逆らう必要があるのだ。

20:17 「関係」が本質的に斬り合いや戦争を孕むのであれは、人工的な「平和」を実現するためには「関係」を断てばいい。
この場合の関係は「干渉」でありお互い干渉しない事で「平和」が実現される。

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2010年10月 4日 (月)

『2001年宇宙の旅』と貴族の芸術

映画というのは見始めるとキリがないので、『スターウォーズ』シリーズ以外はほとんど見ないでいたのだが、しかし最近は芸術を理解するには「何でも好き嫌い無く食べなくてはいけない」という理論の元、レンタルDVDを見るようになった。
近所のゲオだと7泊8日100円なので、驚くべきことである。
それで、ブログのコンテンツとしてははなはだありきたりではあるけれど、ごく最近見た映画の感想を書いてみることにする。

まずは『2001年中の旅』。
この映画はオルテガの『大衆の反逆』や『芸術の非人間化』を読むと分かるのだが、明らかに「大衆の芸術」ではない「貴族の芸術」で、こういう映画があるんだとあらためて認識してしまった。
いや、この映画は確か大学進学前にテレビの日本語吹き替えで見て、そのときは訳が分からずアーサー・C・クラークの原作短編を読んで、何となく分かった気になっていたのだが・・・

しかしあらためて見ると、子供には分からない「貴族の映画」であることがよく分かる。
まず、はじめに画面が真っ暗なままリゲティの音楽が「ビャー」っと流れて、これが結構長くて子供はまずここで面食らってしまうw
次に、宇宙のシーンのカッコイイオープニングで「おおっ」とシビれるのだけど、それに続くお猿のシーンがまた結構長くて、子供はすっかり退屈してしまうだろう。

その次に、やっとSFらしい宇宙船のシーンに移るのだが、ここで注目すべきは宇宙旅客機「オリオン号」の機内に乗客が「一人だけ」ということである。
ただでさえ贅沢な宇宙旅行なのに、旅客機を貸しきりで一人だけで乗るというのは、大衆とか庶民とは無縁の「貴族」「エリート」の世界で、そのことをこの画面はあらわしている。
しかもその乗客であるフロイド博士はグーグー寝ており、「宇宙旅行なんて当たり前」という余裕を見せている。

「オリオン号」が到着した「ステーション5」の内部はあまりにもかっこよくて思わす涙が出てしまうw
建築は詳しくないのだが、非常にモダンで、それでいて高級感のあるオシャレなデザインで、現在の眼で見てもまったく古さを感じない。
円環状の床や天井が完璧に再現されているところも感動的だ。
ステーションの中にいる人たちも、観光客みたいな人は一人もいなくて、みんな貴族やエリートみたいな人たちばかりだ。
まさに地上を遠く離れた「天上世界」の住人といった感じである。

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*テレカを入れて・・・

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*液晶モニターでお話・・・ちなみにステーション内への携帯電話の持ち込みは厳禁ですw

テレビ電話ボックスのシーンも素晴らしいのだが、ともかくデザインがなにからなにまで格好良すぎる。
それと、あまりに現代の感覚とマッチしすぎて忘れがちだが、テレビ電話のモニターが「液晶」なのは凄いことだ。
もちろん、この当時は「液晶」なんて概念すらないかもしれず、おそらくはスクリーンの裏側からフィルムを投影してるのだろうが、今見るとなんの違和感もなく液晶に見えてしまうのがスゴイ。
あとテレカを入れて番号をボタン入力するところも、当時の日本の家庭では黒電話と白黒テレビを見てたことを考えると、その想像力に驚いてしまう。

続いて宇宙船「エアリーズ号」のシーンになるが、ここでも乗客はフロイド博士一人で、そのかわり乗員がスチュワーデス2名、操縦士2名、機長1名が登場し、その対比でさらに「特別感」「贅沢感」が増すようになっている。
ここで他の乗客がワイワイ乗ってるような状況だったら、こういうスペシャルな感じはなくなってしまうだろう。
そしてまたしてもフロイド博士は居眠りしてるのだが、エリートだけに人一倍忙しく働いているという描写なのかも知れない。

また、ここでは「宇宙食」(パッケージのイラストがオシャレ)が登場するが、流動食であまり美味そうには思えなくとも、大衆や庶民は口にできない代物であるには違いない。
貴族と大衆は、もっとも原始的な感覚としてまず「食物」が分断されているのだ。
だから、次のシーンで登場する「ムーンバス」機内で食べるチキンサンド(味は本物そっくり)や、その次に登場する「ディスカバリー号」で乗員が食べる(さらにまずそうな)ペースト状の宇宙食も、妙にうらやましく食欲がそそられてしまうのだ。

その「ディスカバリー号」の内装も相変わらず豪華で、最新のSF映画と比較しても何ら劣るところが無く度肝を抜かれるが、なぜか冒頭のマラソンのシーンはハチャトゥリアンの悲しい音楽が流れる。
エリート貴族とはただふんぞり返って威張っているのではなく、命がけの厳しい使命を背負った悲しい存在でもあるのだ。

またこの悲しいBGMは、乗務員フランクが地球に住むの両親からのビデオレターを見るシーンにも流れる。
両親が歌う「ハッピーバースデー」に、悲しいBGMが被ることで余計もの悲しさが強調されるが、「地上の世界」と「高貴な任務を背負ったエリートの世界」との隔絶がここでも描かれている。
ともかくこの映画に出てくる「地球上の世界」は、冒頭のお猿のシーンを除いて、すべて液晶モニターに映し出される人物のみで、多くの映画に描かれる「生活感」彼方に追いやってしまっているのだ。

それからコンピューター「HAL9000」の反乱などいろいろあった末に、ボーマン船長は木星軌道上に浮かぶ「モノリス」に接近する。
すると光があふれ、ボーマンが気がつくとなぜか地球上の「部屋」の中にいるのだが・・・その部屋が文字通り貴族が住むような部屋なのであるw
これはボーマン船長の「心の内部の反映」だとも考えられるが、ぼくのような大衆で庶民の感覚ではあのような部屋は絶対に反映されないだろう。

ということで、肝心の映画のストーリーはどうなのかというと、よく知られているようにまったく訳が分からない。
「部屋」の中のボーマン船長は急速に年老いて、最後には「赤ちゃん」になって宇宙空間から地球を見つめて終わり・・・この間何の台詞も解説もなく、HAL9000が反乱した理由も含め全てが理解不能である。
「カッコイイSF映画」を期待していた子供は、さぞやガッカリしてしまうだろう・・・
が、この映画は子供向けではなく、大人の中の大人、すなわち「貴族」のための映画なのである。

ここでいう「貴族」とは、現在は「リベラルな民主主義」の時代なので社会階級を指すのではなく、例え身分が大衆や庶民であっても「貴族文化」を理解し、また愛している人を指す。
「貴族文化」とは簡単に言えば、ある程度の教養が無くては理解できないものであり、しかも直接的表現を避ける傾向がある。
また、貴族は大衆に対して余裕を見せないといけないからか、その表現はゆったりと冗長である。
『2001年宇宙の旅』は原作短編の他に長編小説もあって、そっちを読めば映画の「意味」が分かるのかも知れないが、しかしそれは解釈の一つであり、自分自身の「教養」を動員しこの映画の「わからなさ」そのものを堪能するのが「本当の意味」と言えるのかもしれない。

まぁ、ぼく自身に「貴族文化」のなにが理解できるのか不明だが、そういうものがあるということだけは、あらためて認識したのだった。

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2008年2月12日 (火)

メガゾーン三丁目

『メガゾーン23』というアニメがある。
ぼくはこのアニメを大学に入学した頃に劇場で見て、大変に衝撃を受けてしまった。
とはいっても、ぼくが衝撃を受けたのは、ぼくがまだ何も知らない新入生だったからで、今振り返ると大した内容のアニメではなかったと思う。
いや実は、つい最近「ニコニコ動画」で『メガゾーン23』を久しぶりに見てしまったのだけど、思った以上にストーリーがいいかげんで、こんなものに感動していた自分が情けなくなってしまった(笑)。
しかし、内容はともかく話はテンポ良く進み、絵も上手くて良く動くから、アニメとしては楽しめる作品ではないかと思う。
(そうはいっても「18禁」だから、間違って親子で鑑賞しないように(笑)

『メガゾーン23』は、作品が作られた当時の80年代の東京23区が舞台で、それがタイトルの由来になっている。
それで、バイク好きの少年である主人公が、ふとしたことからロボットに変形可能なバイク「ガーランド」を手に入れることからストーリーが始まる。
(ぼくは当時流行っていた「変形ロボ」が大好きで、このガーランドもバイクからロボットへアニメ的なウソ無しでちゃんと変形するようデザインされていて、こういうところにシビレてたわけだ。)
そんなガーランドを手に入れた主人公は、ガーランドを秘密裏に製造したナゾの組織に追われることになる。
それで東京の街を舞台にカーアクションが繰り広げられるのだけど、80年代当時の東京の街並みが細密に描かれて、なかなか楽しめる。
アクションだけでなく、日常の描写もけっこう細かく描かれて、こういうところは当時よりも今見たほうが楽しめるかもしれない。

例えば、主人公がナゾの組織に追われてる最中、友達(映画監督志望)と「ガーランドを使って自主映画を作ろう」ということになるのだけど(めちゃくちゃなストーリーだ・・・)、そのときに使われるのがビデオではなく「8mmカメラ」だったりする。
今は一般向けのムービーカメラはビデオが当たり前だけど、ビデオカメラが普及し始めたのは80年代の終わりごろからなので、『メガゾーン23』の時代は8mmフィルムが当たり前だったのだ。
自主映画作りのシーンは結構執拗に出てきて、エディターで編集するシーンもあったりするのだが、今の若い人が見ても意味が分からないかもしれない。

ともかく、ガーランドに乗った主人公は、ナゾの組織に追われながらも自主映画を撮影してゆくのだがw、ふとしたことで高速道路から分岐したナゾの地下通路に迷い込んでしまう。
そのナゾの地下通路はナゾのエレベーターへとつながっており、ナゾのエレベーターはガーランドに搭乗した主人公を乗せてどこまでも「上昇」してゆく・・・
そしてエレベーターの着いた先は・・・なんと宇宙空間で、つまり主人公が暮らしていた「東京23区」は、実は巨大宇宙船の内部に作られた東京23区そっくりの「レプリカ」だったのだ!
その宇宙船の名前が「メガゾーン23」で、実は地球文明は500年前に滅亡しており、「メガゾーン23」はそこから脱出した移民宇宙船の一隻だったのである。
それで「メガゾーン23」の管理コンピュータは、「人類がもっとも幸せだった時代」である1980年代の街並みを船内に再現し、そこに人々を住まわせたのである。
「メガゾーン23」の住人はみな宇宙船の存在を知らず、管理コンピューターによって「1980年代の東京都民である」と思い込まされており、例えば地方や海外に旅行した人は「旅行した」という記憶をインプットされて戻ってきたりしている。
一方で、「メガゾーン23」を管理する人々もいて、その人たちは当然のことながら宇宙船のことも、管理コンピューターのことも、虚構の街のことも知っている。
そして、主人公を追っていたナゾの組織とは、「メガゾーン23」の管理人組織で、「メガゾーン23」を宇宙から攻撃する敵に備えて軍隊を組織し、その兵器としてロボット「ガーランド」を製造したのだ。

でまぁ、大学当時のぼくが衝撃を受けたのは「自分たちが住んでいる街は、実は宇宙船の内部だった」ということが判明するシーンなのだけど、この設定には元ネタがあって『メガゾーン23』のオリジナルではないし、SFとしてはもはやありきたりだろうと思う。
しかしそういう設定を初めて見たぼくは、非常にビックリしてしまったのだ。
哲学には「独我論」という考え方があり、これは「目に見えたり手で触れたりできる現実世界は、人間の五感を通してしか確認できないから、現実と思えるものは全て虚構で、自分が作り出した夢のようなものかもしれない」というようなことである。
この「独我論」の考えでいうと『メガゾーン23』の設定は十分ありえるし、『メガゾーン23』というアニメは「独我論」の可能性をリアルに描写している、ともいえるのではないかと思う。
「独我論」は、現代思想の世界では成立しないことが証明してしまったらしいのだが、「全てを疑って考える」ということの出発点基本であることに変わりはないだろう。
ぼく哲学や思想は得意でもなんでもないし、当時「独我論」なんて言葉も知らなかったのだけど、「自分の根本」を揺るがすようなSF的設定に、大いに反応してしまったのだ。

『メガゾーン23』はその設定を知ると、東京の街や日常生活の描写がやけに細密なことの理由も分かってくる。
日常の描写が細かくてリアルだからこそ、「虚構の街だった」という設定が生きてくるのだ。
そして、「虚構の街だった」という劇中の設定は、「アニメにより描かれた東京の街並み」という現実と奇妙にオーバーラップする。
東京のようなありきたりな街並みは、普段は価値のないものとして見過ごされているが、「虚構の街だった」ということが分かれば、同じものでも意味が違ってくるだろう。
日常的な街並みにさしたる価値を見出せないのは、そこに自分が生活者として埋没してるからだろうと思う。
しかし「虚構の街だった」と分かってしまうともうその中には埋没できないから、一歩引いた立場からの「観察対象」になるに違いない(パニックになる人もいるだろうが)。
もちろん「虚構の街だった」というのは現実的には有り得ないのだけど、「現実そっくりに描かれたアニメ」というのもまた、似たような意味で観察対象となる。
観察対象とは「見て面白いもの」の別名だから、『メガゾーン23』には二重の意味での面白さがあり、なおさらアニメの「絵」に見入ってしまうのだ。

こんなふうに書くと『メガゾーン23』が上質なSFアニメのように誤解されそうだが、基本はあくまで「バカな内容の楽しいアニメ」だから、過剰な期待はしないほうがいいだろう(笑)
しかし、「同じ街並みがまったく別の価値観で見えてしまう」という感覚は、今振り返るとぼくの「非人称芸術」のコンセプトに何らかの影響を与えていたのかもしれない。
実際、ぼくが「非人称芸術」として街を観察する視点は、「虚構の街」であることが判明した街を観察する視点と似たところがある。
例えば、ぼくは「街の歴史」や「建物の言われ」などにほとんど興味を持たないのだけど、もし「虚構の街だった」ことが判明したとすれば、そのような歴史的事実も全て虚構として無意味になってしまうだろう。
「歴史という物語」が無効となれば、あとはその対象の「造形性」のみが問題となり、その視点の先に「非人称芸術」というコンセプトも生じるのである。
ぼくは街中の人工物に対し、その歴史を含む「それが何であるか」という意味を頭の中から排除し、純粋な「造形性」のみに注目し、それを「フォトモ」で再現している。
フォトモとして表現された街はいわば「虚構の街」だから、フォトモを見る人にも「虚構の街」を観察することの楽しさが、何となくにせよ伝わっているのではないかと思う。

さて、この記事のタイトルは『メガゾーン三丁目』となっているが、『メガゾーン23』には新宿や原宿は出てきても、特に「三丁目」は出てこない。
この「三丁目」は実は映画『ALWAYS三丁目の夕日』のことで、このDVDを昨晩見たのだった。
『ALWAYS三丁目の夕日』は、昭和30年代の東京の下町で暮らす人々を描いた映画で、当時の街並みをセットとCGを駆使して、ほぼ完全に再現したことで話題になった。
DVDに収められたメーキングビデオを見ると良く分かるが、ロケで撮られたように思われた街並みも、ごく一部がスタジオ内に作られたセットで、遠景や空はCGで描かれているのだ。
そして、そんな『ALWAYS三丁目の夕日』を見ながら、ふとこの映画が『メガゾーン23』の続編のSFとしても見られることに事に気付いたのだ(笑)。
『ALWAYS三丁目の夕日』は街並みが全てレプリカで再現されているから、これを「地球文明滅亡後に脱出した宇宙船内部に作られたレプリカの街に暮らす人々」という設定として解釈しても矛盾はない。
アニメ『メガゾーン23』の設定では、地球を脱出した宇宙船は「メガゾーン23」以外にも何隻かあるらしいから、宇宙船「メガゾーン三丁目」があってもおかしくない。
そして、「メガゾーン23」の船内が「人類がもっとも幸せだった時代」として1980年代に設定されているように、「メガゾーン三丁目」の船内は昭和30年代に設定されているのだ。
あと他にも地球を脱出した宇宙船はあるだろうから、例えば船内が江戸時代に設定された「メガゾーン水戸黄門」というのもあって、ここでは週一回黄門様が印籠を出すことを、500年もの間繰り返されているのである。
たまに黄門様が世代交代することもあるが、管理コンピューターに精神操作された住人は、これにまったく気付かないのだ・・・
と、そのように妄想を暴走させるのも、映画やドラマを見る楽しみ方のひとつなのだ(笑)。

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2007年8月26日 (日)

涼宮ハルヒの分析

「涼宮ハルヒの憂鬱」はオタク向けのライトのベルが原作のテレビアニメで、世間でもだいぶ流行っているようで、今さらぼくのような門外漢が「分析」なんてしてもしょうがないのですが、まぁ練習ということで書いてみることにします。
実は、中2になる甥が突然アニメにはまったらしく、先月帰省した際に「面白いから」ということでこの「涼宮ハルヒの憂鬱」のDVDを帰り際に渡されたのでした。
しかしそれはいかにも今風のオタク向けアニメで、今さら見てもつまらないだろうと思い、でもちょっとだけ目を通しておこうと早送りしながら見ていたら、意外に面白くけっこうハマってしまったのでした(笑)

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ぼくはいちおう「オタク第一世代」ということで、「子供向けのアニメを大人が楽しむ」ということを最初に始めた世代に属するのだけど、オタクと言われるほど没入してたわけじゃないし、アニメは数が多い割には面白い作品はごく一部で、そのうち飽きてすっかり見なくなってしまいました。
そういう立場のぼくが「涼宮ハルヒの憂鬱」を見ると、実はいろいろな「仕掛け」がしてあるのに気づき、それが面白かったりするのです。
仕掛けのひとつは、作品中に昔のアニメの要素がいろいろ散りばめられていて、そういうものが「分かる人にはわかるでしょ?」という問いかけになってることです。

たとえば、話を途中まで見てると突然、この物語が押井守監督のアニメ映画「うる星やつら・ビューティフルドリーマー」の設定を「真逆」にアレンジしてることに気づくのです。
「うる星やつら」は高橋留美子のマンガで、「ビューティフルドリーマー」はその設定に基づいた押井守によるオリジナル物語です。
「うる星やつら」の主人公のラムちゃんは宇宙人の少女で、空を飛んだり電撃を発射したりする超能力を持ち、宇宙船や光線銃などの未来的テクノロジーを駆使し、他の宇宙人の友達もいっぱいいて、そういう破天荒なキャラクターが女子高生となり、平凡な日常でドタバタを演じます。
で、「ビューティフルドリーマー」というのは、ラムちゃんは実は「平凡で楽しい高校生活」が永遠に続くことを望んでおり、その「夢」が実現してしまった世界に周囲のキャラクターが閉じ込められてしまい、そこからみんなで何とか脱出するというお話です。
これは今から考えると「終わりなき日常を生きるしかない」という、ポストモダン的世界観の先駆けのような表現です。

で、一方の「涼宮ハルヒの憂鬱」の主人公である涼宮ハルヒも女子高生ですが、こちらは普通の人間です。
でも「退屈な日常」に飽き飽きして、「宇宙人」や「未来人」や「超能力者」を探し回り、しかも現実にはそんなのいるはずないですから、つねにイライラしています。
でも実は、ハルヒと同じ高校の3人の友達はそれぞれ宇宙人、未来人、超能力者で、ハルヒだけがそれを知らないのです。
この3人の友人は、ハルヒ自身に「本人は気づかないとんでもない力」が備わっていることを知っており、それが不用意に発動しないよう常に監視しています。
例えば「平凡な毎日」に飽き飽きしたハルヒは、無自覚のうちに「この世とは別の世界」を発生させ「この世」を破壊しようとします。
そして、それを何とか阻止しようと、本人にバレないように3人で裏工作したり、ご機嫌を取ってなだめすかしたりして、何とかハルヒを「日常世界」に引き戻そうとします。

そういう観点で比べると「涼宮ハルヒ」は「ビューティフルドリーマー」の設定をベースにしながら、要素の配列を真逆にしたような構造になっており、ナルホドと思ったりするのです。
まぁ、昔のアニメも例えば「ガンダム」などは第二次世界大戦などの「実際の歴史」をベースに作られていて、歴史を知ってる人が見るとナルホドと思えるような仕掛けが随所に盛り込まれています。
でも今のアニメは、過去のアニメをベースに作られていて、これぞまさに「ポストモダン」なのですが、ハルヒにもたぶん他にもいろいろなアニメやSFの設定が流用され盛り込まれてるでしょうから、オタク的知識のある人は、さらにいろんな観点で楽しめるのではないかと思います。
もちろんドラマとしてのテンションが高く、絵もしっかりしてるので、オタク以外の人が見ても十分面白いのではないかと思います。
でもまぁ、基本的にはオタク向けである事に違いはなく、口に出すのもおぞましい「萌え」と呼ばれるオタク作品に共通の「記号」が随所に散りばめられ、そういうところに引っかかると損ですから、深入りせずに上手に受け流すのが吉です(笑)

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以上のことは「用意された仕掛け」の一例であって、それだけだとつまらないので、ちょっと別な観点からも考えてみようと思います。

この作品は甥から勧められた事もあり、個人的にその甥との関連でいろいろ考えてしまうところがあります。
ぼくは身近な子供と言うと甥しか知りませんが、そんな甥とは大体半年ごとに、一週間程度交流するのみです。
それで会うたびに大きくなるので驚いてしまうのですが、それでも小学生のうちは「小さな子供」から「少し大きな子供」へ成長してたのでした。
それが中学に入ると突然「大人」のようになり、さらに驚いてしまったのです。
目の前の彼に「一体アンタはどこから来たんだ?!」と、思わず聞いてしまいそうになるくらいです。
いや、甥は初めから実家にずっといたのですが「大人としての甥の人格」は、ついこの間までの「子供としての甥」になかったもので、そういう人格が突然目の前に現れることに驚いてしまうのです。
まぁ、実は甥は昔から大人しくてあまりしゃべらず、どういう子供なのか良く分からなかったのですが、ここ半年あまりブログを書くようになり、それを見て本人の考えが分かると共にその成長ぶりも判明したのです。
甥がブログを始めた当初は「バトン」と言われる子供らしい他愛のないゲームなどしてたのに、途中からワロスwwwwwwwみたいな「2ちゃん用語」が混じるようになり、ついには「このままだと日本も終わりですね」みたいな政治的発言までするようになるのです。
だいたい甥は子供番組には見向きもしないような子供だったのに、それが突然「アニメにはまった」なんて書いてたことも驚きです。
そういう内容をブログに書くような人格は、少なくとも去年はこの世に存在しなくて、突然目の前に現れたように「感じられる」のです。

で、ここでふと思い起こされるのが「涼宮ハルヒの憂鬱」に出てきた「情報統合思念体」という設定です。
「情報総合思念体」は情報のみで肉体を持たず、個体の概念を超越して宇宙全体に広がる情報生命体で、それが地球上の人類の一個体である「涼宮ハルヒ」の異常性に気づき、監視員である「宇宙人の少女」長門有紀を送り込んでいる、と言う設定です。

しかしちょっと考えると、「情報統合思念体」とは人間そのものを言い表した言葉とも解釈できます。
つまり人間の人格とは、外界からあらゆる情報を取り入れ、それらを統合しながら思念することで生じるもの、と表現することもできるのです。
人間の人格とは、その人がどれだけの量のどんな種類の情報を脳内に取り込み、それをどのような形で関連付け統合しながら思念するのか、で決まると言えます。

そう考えると、大人と子供ではまず情報の「量」が違うことに思い当たります。
この場合の情報には「情報の統合の仕方」も含まれますが、そうした様々な情報が少ないうちは「子供」で、情報量がある臨界点を突破すると急に「大人」になるわけです。
去年まで存在しなかった「中2の甥」はどこから来たのか?というより、情報の蓄積が臨界点に達したことで突然発生した(ように感じられる)のです。
もちろん彼はさらに多くの情報を蓄積するでしょうから「中2の甥」の人格は早々にこの世から消え、数年後には全く違う人格が出現しないとも限らないわけです。
まぁ、自分自身もそうした過程があって今に至るはずですが、自分のことは見えないもので、だから他人の観察を通して自分を知るのです。

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ついでにもっと考えてみます。
「涼宮ハルヒの憂鬱」に出てくる「情報統合思念体」は思念が多少分裂しており、「ハルヒを刺激しないようにする保守派」と「ハルヒを刺激しようとする急進派」が存在します。
で、「急進派の情報統合思念体」はハルヒに刺激を与えるため、「暗殺宇宙人少女」朝倉涼子をクラスメイトとして潜入させ、ハルヒのボーイフレンドであるキョン(普通の人間)を殺そうと企てます。
朝倉涼子はキョンだけを放課後の教室に誘い出し、やがて「暗殺宇宙人」としての正体をあらわし、教室に「情報操作」を加え、出口のない異次元空間に作り変えてしまいます。
キョンは朝倉涼子の「情報制御下」にあるので、逃げ場を失い絶体絶命のピンチを迎えます。
すると、その「朝倉涼子の情報制御空間」に「保守派の情報統合思念体」の送り込んだ「宇宙人少女」長門有希が進入して朝倉涼子を倒し、「情報操作」により教室を元の空間に戻します。

以上は現実にはありえないアニメならではの出来事ですが、このシチュエーションも現在の甥に置換えできることに気づいたのです。
つまり甥に限らず、子供と言う存在は親や教師の「情報制御下」にあり、親や教師の作り出した「情報制御空間」に閉じ込められていると、そう表現することもできるのです。
アニメでは暗殺宇宙人の「情報操作」により教室のドアが消えたりしますが、もちろん現実にそんなことは起きません。
でも「ドア」を子供の「進路」に置き換えると、その出口は親や教師によって、かなりの程度まで決められてしまっていることに気づきます。
例えば、親や教師は子供に「勉強しなさい」と言い、子供も「勉強は大事」だと思って勉強するのだけど、結局はそれほど成績が上がらなかったりして、そうすると「できない子供」であることを親に責められ、気に病んだりします。
逆に勉強のできる子供は親や教師に褒められ、また「できない子供」を軽蔑したりもします。
この場合の子供たちは、「学校の成績」を唯一の価値基準として信じ込まされ、良い成績をとることが「ただひとつの出口」であると示されているのです。
実際には価値基準には多様な可能性があり、様々な「出口」があるはずですが、それらはことごとく塞がれてしまっている、つまりはそのような「情報制御空間」に閉じ込められてしまっているのです。
で、甥をネタにしてこんな文章を書いているぼくは、彼を取り巻く「情報制御空間」を解除しようとする「良い宇宙人」なのか、それとも自分の仕掛けた「情報制御空間」に誘い込み破滅に誘導しようとする「悪い宇宙人」なのかは知りません(笑)

でも結局、こうしたことは大人でも同じで、人々は他人が仕掛けた「情報制御空間」に閉じ込められて、そのことに気づかないままでいたりするのです。
例えばぼくは今貧乏に困ってますが、それは何者かの情報制御下にあるだけで、それを突破すれば「金儲けへの出口」が鮮明に見えるようになるかもしれません。
もっともぼくは「お金の価値を至上とする情報制御空間」は突破してるので、最低限食うに困らなければそれほどお金が欲しいとは思わなかったりもします。

結局、人間は「情報統合思念体」であるから、他人の情報を制御して操ったり、他人を操ったりしてるつもりで他人に情報操作されていたりと、いろいろなjんじゃないかと思います。
もちろん「情報統合思念体」はアニメの設定で、むやみに他の事に当てはめるの「オタク」の烙印を押されてしまうでしょう(笑)
以上の分析はソシュールの言語学や、そこから発展した構造主義などの入門書で読んだ知識を適当に統合しながら思念した結果、生じたものでした。

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