反ー反写真

2012年5月25日 (金)

糸崎公朗写真展『反ー反写真』TAPギャラリー会場写真

遅ればせながらアップしますが、TAP Galleryにて2012/4/3〜4/15に開催された、糸崎公朗 写真展『反-反写真』の会場記録写真です。
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2011年4月 4日 (月)

「反ー反写真」個展応募テキスト

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いろいろ書きたいことはあるのですが、なかなかまとまらないので、既に書いた文章をアップします。
先日、新宿のコニカミノルタプラザに個展の申し込みをしたのですが、その審査書類に添付したテキストです。
オルテガを引用してカッコつけたりしてますが・・・「反ー反写真」はぼくの周囲では評価が分かれるというか、評価してくれる人は少数派なのでw、審査が通るかどうかはビミョーです。
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反-反写真

糸崎公朗

 私は、人間の視点移動を表現した「ツギラマ」や、平面である写真を立体的に再構成した「フォトモ」など、独自の写真表現を追求してきた。都市空間の広がりである「路上」というフィールドに非常な魅力を感じた私は、写真によってその素晴らしさをいかに表現できるかに腐心してきたのだ。
 私はまず、自分にとって価値があるのはまず「実物」の路上であり、写真はそれを伝達するメディアに過ぎない、と考えた。そのような考えから「実物」の多様な形状に合わせ、その魅力を表現するための写真形式もまた多様であるべきだという考えが生じた。そのために「ツギラマ」では写真に特有の「一点透視法」や「矩形の画面」を否定し、「フォトモ」では「平面性」を否定した。またこれらの作品は「実物」の精巧な代用品であると同時に、その魅力を指し示す「矢印」の機能を果たしているのであり、作品そのものに「実物」を超えた価値があるとは認めなかった。つまりこれらの作品は写真を素材としながらも、形式の面からも思想の面からも「反写真」だと言えるのだ。
 このような私の「反写真」にとって、対極的な「写真」のありかたのひとつに「モノクロ路上スナップ写真」があった。私は路上の「実物」を愛するがゆえに、カラー情報を差し引いたモノクロ写真の意義が全く理解できないでいた。また、似たようなモノクロスナップを撮る写真家は実に多く、そこにアートとして必要なオリジナリティーがあるようには思えなかった。さらに、本質的に「実物」の複製品でしかない写真が、「実物」としての絵画や彫刻などと同等の「アート作品」として成立しうるのか、それも疑問だった。

 しかし私はある時ふと、自分は「写真」とは何かをろくに知らないまま、闇雲に反発していたことに気づいた。実は、私は中学時代に「カメラ」というメカの魅力に惹かれ写真部に所属していたのだが、自分には写真を撮るセンスがないと判断し、それ以来しばらく写真から遠ざかってしまった経緯がある。つまり私はきちんと写真を勉強することを放棄して「写真」に背く道を選んだのだ。しかし「背く」とは、結局それを理解しようとしない態度であり、理解しないまま反発しているに過ぎない。自分が理解できないものを、理解出来ないがゆえに否定し反発するのは愚者である。スペインの哲学者オルテガは、あらゆる反何々という態度は空虚であるとして『大衆の反逆』に以下のように書いている。

 文明の寄食者である犬儒主義者は、文明は決して無くならないだろうという確信があればこそ、文明を否定することによって生きていているのだ。

 結局のところ私の「反写真」とは、世に言う「写真」の存在を前提にし、それを頼りに成立していたに過ぎなかったのである。そこでこれまでの態度を反省した私は、「写真」とは何であるかをあらためて知りたくなった。自分が「写真」の意味を理解することでアーティストとして新たな可能性が広がるかも知れないし、これまでの「反写真」についても別の面から眺めることができるかも知れない。

 「写真」を知るためには「学ぶは真似ぶ」の葉通り、他の写真家の真似をするのがひとつの方法である。そこで私は、自分がこれまで理解できずに否定していた「モノクロ路上スナップ写真」を真似して撮ってみることにした。これは自分の「反写真」をさらに反転させた行為であり、そのコンセプトと作品を「反-反写真」と名付けることにした。
 私の「反-反写真」は当初は文字通りヘタクソな写真でしかなかったが、そのうちコツ掴んで熱中するようになり、写真家の友人たちからは「普通レベルには上手い写真」と言われるようにまでなった。そもそも自分で「写真」を撮らなければ、他の写真家からアドバイスをもらったり評価されることもないのである。そして、そのような他者とのコミュニケーションを重ねることによって「写真」への理解も次第に深まり、実物とは異なる「モノクロ写真の自律的価値」や、一見似たように思える「路上スナップ写真」にもそれぞれの意味の違い、レベルの違いが歴然とあることも認められるようになった。これは実にありきたりなことのようだが「反写真」に固執していたかつての自分からは、考えられないことである。
 しかしもちろん、私はいまだ「写真」とは何かを完全に理解したわけではなく、あくまで「写真」の奥深さの入り口に立っているに過ぎない。「反-反写真」とは、バカボンのパパが「賛成の反対の賛成なのだ」というように結局は普通の「写真」なのだが、私はこれによって「写真」の自明性に対する疑問を自己にも他者にも投げかけたいと思っている。

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2011年3月 6日 (日)

写真の縁側

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「縁側」はヒラメやツギラマだけではなく、ご覧のように「写真」にも存在する。
これは35mmフィルムをデジカメで複写したものだが、通常はこの「縁側」部分をカットした部分のみプリントする。
この意味で、デジカメで撮影した写真には「縁側」が存在しない。
ところが・・・

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最近のオリンパスE-PL2などのデジカメには「アートフレーム効果」と称して、デジタル写真にフィルム写真のような「縁側」を付加するモードが搭載されてたりする。
フィルムの縁側を少し残してプリントすると、アートっぽいカッコイイ写真になり、その効果をデジタルでシミュレーションしているのだ。

しかしこのように「縁側」を残そうともカットしようとも、「写真」をアートとして考える限りこの「縁側」は避けて通れない問題なのである。

つまり「額装」の問題なのだが、「写真」をアートとして流通させるには額装しなければならず、つまり「縁側」を付加することになるのだ。
この「反ー反写真」の額装は彦坂尚嘉さんに丸投げでお願いしてみたのだが、「馬子にも衣装」という感じで驚いてしまった。
料理に置き換えて考えると、フランス料理でヒラメの縁側をカットしたとしても、キレイなお皿にキチンと盛りつけることで「縁側」を付加させる。
「縁側」がキチンとしてこそ成立するのが「高尚な文化」としての料理であり、写真を含めたアートもまた同じだと言える。
ただしぼくはこれまで「縁側」の問題をなおざりにし過ぎていて、その点は反省しなければならない。

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ぼくはこれまで、美術館などで「自然のままの縁側」が付いたツギラマを「むき身」で展示することが多かったのだが、これは「新鮮な食材をナマのまま提供する」という感覚に近いかも知れない。
しかしナマの食材はいかに新鮮であっても扱いに困ってしまう。
実際、金沢21世紀美術館で展示したツギラマの大型作品は、展示後に撤去してしまったのである。
これに限らず、ぼくのツギラマは美術館で展示する「見世物アート」として機能しているが、「タブロー」としてアートマーケットには流通していないのである。

いや、本当のことを言えば、「非人称芸術」の概念に忠実に従う限り、アートを食物に例えるとそれは調理の必要すらなく、木の実や獣など自然物を狩ったその場で齧り付くのがいちばん美味いし、「食の本質」により近づけるのである。
もちろん、例えではなく実際の食物でそれを実行することはできないが、アートに置き換えて実行するとそれは「非人称芸術」になる。
路上のさまざまなオブジェクトを絵に描いたり写真に撮ったりせずに、それを生で見ながら「非人称芸術」として鑑賞しながら歩き回る。
この場合、本質的にはフォトモやツギラマなどを含めた写真を撮る必要は全くないのだが、「副産物」としてそのような写真を撮ることも可能だろう。
そして「副産物」として得られた写真を展示する際は、もとの「非人称芸術」の鮮度がなるべく損なわれないように「むき身」のままの方が良いだろうと、そのように判断していたのだった。

しかしあらためて考えると、そのような展示のあり方は「方法論のひとつ」としてはアリなのだろうが、やはり「多数ある方法論のひとつ」でしかなく、それはあらゆる可能性の中から選択されるべきでなのである。
ぼくは「非人称芸術」という単一のコンセプトに縛られすぎて、他の可能性をスポイルしてきたのだった。
もしくはさまざまな可能性を含めて考えてこそ、「非人称芸術」のコンセプトがより深まるはずである(それが否定される可能性も含め)。

そもそも矛盾しているのは、自分は「非人称芸術」によって「作品製作」を本質的には否定していながら、結局は「作品製作」を食い扶持にしていることである。
しかしだからといって「非人称芸術」と「作品製作」のどちらかを止めてしまう必要もないだろう。
「反ー反写真」について書いたように、自分の中で複数の矛盾する要素を共存させることは可能なのだ。
だからこそ「作品製作」についてあらためて考え直し反省する必要がある。
それがつまり「縁側」の問題なのである(笑)。

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2011年3月 4日 (金)

デリケートな勝負

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実は「反ー反写真」の個展を企んでて、先日はギャラリー審査のための写真セレクトについての相談を、先輩写真家にしてたのだった。
長年「反写真」の立場にいたぼくは「写真」については全くの初心者であり、写真家の話を聞くのは非常に勉強になる。
で、その先輩写真家の、ぼくの「反ー反写真」への評価だが「普通にうまい写真だけどそれ以上でもなく、既に写真家として活躍してる人たちに比べ構図などがユルい感じ…」と言うような感じでなかなか厳しい。
こういう率直なアドバイスをしてくれる方は信頼できるし、実に有難い。

ところで、写真は誰でも簡単に撮れるので、写真家が撮る「写真」は素人が見てもその良さ分からない。
前回の記事を受けて言えば、それだけ「圧縮率」の高い写真を写真家たちは撮っている。
だから鑑賞者には自前の「解凍ソフト」が必要なのであり、それがいわゆる「目を鍛える」ことなのである。
というわけで、ぼくも「写真を見る目」を鍛えるため、自分でも「写真」を撮ってみることを思い立ち、そのシリーズを「反ー反写真」と名付けた。
つまりこれは認識のための写真でもあるのだが、まぁ、写真の入門者なら誰でもやってることだとも言えるだろう(笑)

で、作品セレクトについてだが、ぼくのこれまでの「反写真」はどのシリーズも特徴がハッキリしてたので、個展用のセレクトも迷いが少かった。
だが「反ー反写真」は多くの写真家が撮るのと同じような路上スナップで、作品セレクトが難しい。
他の写真家と極めてデリケートな勝負になることに、改めて気付くのだ。
そう言えば、ぼくはこれまで他の写真家に対し、微妙な差異で争う事を避けてきたのだった。
しかしそれは素人から見て「微妙な差異」に過ぎず、あくまで玄人目には「大きな差異」なのであり、その様な高度なレベルを写真形は競っているのだ。
自分も遅ればせながら、そういう世界に参入する事になるのだが…
結局、今回の写真セレクトは悩んだあげく締め切りに間に合わず、ギャラリーの応募は次回に持ち越すことになった(笑)

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2011年2月12日 (土)

ややネタ写真

ぼくが言うところの「反写真」とは、像としての「写真」のその向こう側の「ネタ」を重視した写真であって、例えば「路上ネイチャー」や「2コマ写真」などがそれである。
そして、その「反写真」の反省から撮り始めたのが「反ー反写真」であって、これは「何か明確に面白いものが写っている」というようなネタを徹底的に排除した写真である。
で、それらの中間の「ややネタっぽいものが写っている写真」というのもちょくちょく試していて、このブログにもたびたびアップしてたのだが、あらためて並べてみることにした。

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以上、こうして見ると被写体が偏っている(犬と子供が多い?)ように思えるし、「ややネタ」という割には「オモシロ」に偏りすぎているような気もする。
しかし「写真」というものには「ネタ写真」から「ややネタ写真」を経て「ネタ抜き写真」に至るグラデーションがあるというのは、分かってきたような気がする。
もしくは、ネタ写真というのは意味内容(シニフィエ)の写真であり、ネタ抜き写真は記号表現(シニフィアン)の写真、と言えるのかも知れない。
いずれにしろ、そのグラデーションを自在にコントロールして撮り分けることができれば、「多彩な表現ができる写真家」になれるだろうw
もちろん、「写真」の傾向を分類するための軸は「ネタ」以外にも色々あるはずで、いずれ学んでゆく必要はあるだろう。

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2010年12月31日 (金)

作品落札の報告と額装

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twitterでお知らせして、こちらでの報告がすっかり遅くなってしまいましたが、「気体分子ギャラリー」のネットオークションに出品した作品『反ー反写真』が、4点落札されました。
http://hikosaka3.blog.so-net.ne.jp/2010-12-22
購入された方並びにオークション主宰者である彦坂尚嘉さんにあらためてお礼申し上げます。
原稿料や印税という形以外で、自分の作品が直接売れたのは初めてなので、非常に嬉しく思います。

で先日、彦坂さんにぼくの作品を額装していただいた状態を見せてもらったのですが、自分で言うのも何ですが大変に素晴らしいですね(笑)
額とマットによって、作品の印象がこうも変わるのかと驚いてしまいましたが、自分でも欲しくなってしまいます(笑)
実のところぼくはこれまで額装のことはほとんど考えたてなかったのですが、彦坂さんは長年の蓄積による技術をお持ちで、大変勉強になります。

来年も引き続き「気体分子ギャラリー」のネットオークションに「反ー反写真」を出品予定で、その他にも違った作品も考えておりますので、どうかよろしくお願いいたします。

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2010年12月16日 (木)

平和な時代のチャンバラ劇ー彦坂尚嘉さんとの関係について

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既にお知らせしてるとおり、美術家の彦坂尚嘉さんが主宰される「気体分子ギャラリー」のネットオークションに、作品を出品しています。
入札はこちらから。
101216現在4点出品中で、1点入札ありました、ありがとうございます。

それでいろいろ評論などもしていただいており、ぼくもそれについて何か書きたいのですが、彦坂さんの方が書くのが速いので(笑)、とりあえず以下の記事について書きます。
http://hikosaka3.blog.so-net.ne.jp/2010-12-14

彦坂さんは美術家でもありますが、「気体分子ギャラリー」を運営されるからには「画商」の側面もあるわけで、ぼくはその取り扱い作家になったわけです。
これについての事情説明ですが、実はぼくは作品を美術館で展示したり、ワークショップを開催したり、雑誌や作品集として出版したりしてますが、作品そのものを販売したことがありませんでした。
以前にもブログに書きましたが、ぼくの作品は言わば「見世物」であり、「売り物」とはしてなかったのです。

ぼくはどうも、美術館の学芸員さんはともかく、現代美術のギャラリストとはほとんど縁がありませんでした。
いや去年までは四国のギャラリーアルテさんの契約作家だったのですが、ごく短期間の契約に終わり、作品も売れませんでした。
アルテさんは「フォトモ」をはじめとする作品は評価してくれたのですが、ぼくの言うことについてはほとんど相手にしてせず・・・いやぼくも「非人称芸術」などというおかしなことを口にするので、たいていの現代アートのギャラリーでは相手にしてくれないのです。

それが、ようやく自分の言うことをマトモに取り合ってくれる相手に巡り会った・・・というのが彦坂尚嘉さんです。
「マトモに取り合う」というのは、まずは彦坂さんのブログによるぼくへの「批判」で、これは「悪口」というべきものでもありますが、そういうことを突然書かれたのです(笑)
それでぼくも、反論を長々と書き込むのですが、それについてキチンと返信をくれて、そうするとぼくも長々と反論し・・・ということをしたのです。
つまりここでは「議論」が成立して、議論とはチャンバラのようなもので、真剣を使いながら命をかけて斬り合うのです。
いや、あくまで議論のチャンバラなので命を落とすことはないですが、しかし「おまえの芸術は間違ってる!」と言われ、「そうかも知れない・・・」とうっかり思ってしまったら(笑)、それは芸術家としての「死」を意味します。
もしくは命を落とさないまでも、腕を切り落とされたり、足を切り落とされたり、いずれにしろただでは済まない覚悟で臨むのが、真剣勝負の「議論」というものです。

いやしかし、「議論」の目的は「死」ではなく「創造」です。
そして「創造」とは「死」の後になされるものであり、つまりは自分を殺さなければ「新しい自分」は創造されない・・・真剣勝負の「議論」とは、そう言うものであると思うのです。

ところが日本人の多くは、「議論に負けて、自分が死んだらそれで終わり」と思っているフシがあります。
生物学的な意味での自分の命は、もちろん死んだら終わりです。
しかし議論で負けて死ぬのは「自分とは何か」という定義に過ぎません。
議論の末「自分とは何か」と言う定義が否定されたら、新しい「自分とは何か」という定義を創造すればいいのです。
ところが多くの日本人は「自分とは何か」という定義が絶対のものであると捉えていて、その内容を否定したり変更したりできる、と言う発想そのものがないように思えるのです。
ですので日本人は「議論」というものを避ける傾向にあり、ぼくの言うことをマトモに取り合ってくれるギャラリーもいないのです。

今書いたような、ぼくの「議論」のあり方は、岡本太郎の著作に学んだものです。
岡本太郎は『今日の芸術』で「旧い芸術」を批判し悪口を書きながら「モダニズム」のあり方を示します。
そしてヨーロッパ発祥のモダニズムとは、つまりは「議論による武士道(騎士道)」であり、言葉による真剣勝負であり、概念上の命のやりとりなのです。
まぁ、これは岡本太郎の言葉ではなく、あくまでもぼくの解釈ですが、岡本太郎の姿勢そのものが「チャンバラ」なのです。

ところが日本はどういうわけか、『今日の芸術』が出版された1954年当時から、議論のチャンバラを好まない「平和主義者」が多いのです。
だからこそ岡本太郎は猛然と攻撃したのですが、もしかしたらこの意味での平和主義は、モダンをすっ飛ばした「ポストモダニズム」なのかも知れません。
モダニズム(近代)は「正しさの主張」のために大きな戦争を引き起こし、その反省の上に立つのがポストモダニズムだとすれば、それは「共存」のための平和主義だと解釈できます。
いやぼくは専門家から見れば実に乱暴で適当なことを言ってるのかも知れませんが、その意味で、日本はヨーロッパに先駆けて「新しさ」を獲得していたと言えるかもしれません。

ともかく、平和の時代にチャンバラというのはいかにも時代遅れで、ぼくと彦坂さんはそう言うところで馬が合った・・・と言うのがぼくの解釈です。
もっとも、チャンバラの実力は彦坂さんの方が圧倒的に上ですから、ぼくなんかはもうかなり切り刻まれてしまってるわけです(笑)
しかしヒトデやプラナリアなどのいわゆる下等動物は、切り刻まれるとそれぞれの破片から新たな個体が再生されます。
そして人間の肉体はともかく、精神はプラナリアのごとく切り刻まれると再生され、しかもプラナリアと異なり「新たな別の自分」が再生されるわけです。

もちろん「新たな自分の再生」というのは、彦坂さんの言葉を鵜呑みにすることではありません。
鵜呑みにしようとも、彦坂さんの言葉は独特で難解すぎてほとんど理解不可能だからです(これについては後日書きます)。
ただ、彦坂さんとぼくとでは「構造主義」という概念を共有しており、それが議論を成立させる要因にもなっています。
構造主義の「構造」とは、分かりやすく言えば「関係」のことです。
構造主義ではあらゆる物事を「実体」としてではなく「関係」として捉える、そこから思考をスタートさせます。
例えば、「自分」というものを「実体」と捉えると「自分とは何か」という定義も固定されたものとして捉えられます。
しかし「自分」を「関係」として捉えれば、それはいかようにも組み替え可能なものとして捉えることができます。

ぼくは構造主義については入門書でオベンキョーしてきましたが(笑)、その成果によって「自分を変える」と言うことが評価されたと言えるかもしれません。
ただ、ぼくの「反ー反写真」が何でここまで彦坂さんに絶賛されるのか?ぼくにもわからないところがあります。
だから今後、自分が意図せず彦坂さんの評価から外れていく可能性は十分あって、それは彦坂さんのブログでも釘を刺してあり、それは公正なことだと思うわけです。

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2010年12月14日 (火)

「気体分子オークション」参加

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twitterでお知らせしましたが、美術家の彦坂尚嘉さんが主宰する「気体分子ギャラリー」がネット上で行う「気体分子オークション」に、作家として出品することになりました。

入札はこちら。

締め切り12/20(月)で、それ以後は通常価格の販売になります。

「芸術分析」および解説はこちら(彦坂尚嘉の《第100次元》アート)。

何だかえらく褒められていて、「芸術分析」って何?という疑問もあるでしょうが、ぼく自身もよく分かっていない難しい問題です(笑)
これについては、ぼくの理解の範囲で解説を書こうと思うのですが、まずはシンプルにご報告だけ、ということにいたします。

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2010年11月18日 (木)

Photo Archives 123 瀬戸内国際芸術祭2010

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(*写真は本文と無関係です)

お知らせするのを忘れていたが、建築雑誌「10+1」のウェブサイトに、「Photo Archives 123 瀬戸内国際芸術祭2010」としてぼくが撮影した写真が掲載されている。
ツアー主催者のひとり五十嵐太郎さんに、写真の「寄贈公開」をお願いされたわけなのだが、それはぼくの「反ー反写真」が「普通の写真として良い」と認められた証拠であって、実にメデタイことであるw
こんな写真、カメラマンなら撮れて当たり前なのかも知れないが、そう言う「当たり前」が自分にできるとは思ってなかったので、非常に妙な気分だ。

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2010年11月16日 (火)

「宗教」じゃなくて「反ー反宗教」

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前回の記事よりまたしても間が空いてしまったが、以下のような返信をいただいたので、これを元に記事にしてみたい。

無宗教なのが正当な社会では全ての宗教は異端なのですね、

投稿: schlegel | 2010年11月13日 (土) 00時46分

ぼくがこれまでブログで主張するように「科学は宗教の延長にあり、むしろ呪術である」という観点で捉えると、科学的思考に基づく「無宗教」の世界ではあらゆる宗教は異端だと言えるだろう。
しかしこれは、あくまでひとつのものの見方を提示したまでであって、何ら「真実」を言い当てたものではない。
「科学は宗教だ」というのは言ってみれば例え話で、例えを外すと「科学と宗教は異なる」し「科学は呪術ではない」のである。

そもそも科学の起源はキリスト教神学にある。
キリスト教が支配的だった時代のヨーロッパでは、人間の理性とは「神」が創造したこの世界の「完全性」を解き明かし理解する能力であり、それをすることが「神の存在証明」に繋がると信じられていた。
ところが、人間が理性を働かせて天体の運行や物理法則などの解明にいそしむうちに、どうも「神」の存在そのものが不合理で荒唐無稽であることに気づいていったのだった。
世の中のあらゆる事物が合理的に説明できることが「神の存在証明」だったはずが、合理的に突き詰めた結果「神は存在しない」と言うことになってしまったのだ。
宗教は形而上的な超越的存在である「神」を前提とするが、科学はそのような「無前提の前提」をもはや必要としない。
科学は人間の理性と、歴史的な知識の蓄積を使いながら、観察と理論と実証に基づき「世界」を読み解きコントロールする方法論である。
科学によると「理性的人間」が存在すれば「神」は不要であり、その意味で科学は「反宗教」なのである。

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ところが、現代では科学が万能でないことが、人々の間に何となく知れ渡っている。
科学の行き着く先は「ニヒリズム=虚無主義」なのである。
科学は早い話が「考えても仕方ないことは考えない」という思想である。
だから人間は「死んだら終わり」であり、人生のむなしさを人々に突きつける。
科学的合理性を徹底して考えると、人間は「死んだら終わり」であり、それ以降の結論の出しようがない。
科学がいくら発展し、そのおかげでいくら幸福な人生が送れたとしても、「死んだら終わり」という事実の前には全てが空しくなってしまう。
それに、科学の発達が必ずしも人々の幸福には結びつかないことも明らかになってきた。
世の中が便利になっても「世の中が変わっただけ」であり、決して「昔より時代が良くなった」と言い切れないのが、現代人に共通の思いなのである。

それは科学がもたらすニヒリズムであると同時に、科学に対するニヒリズムでもある。
現代の人々は、少し前の時代の人々にくらべ、科学の有効性に疑いを持っているのである。
しかしだからといって、科学を否定した「反科学」の態度によって「宗教」や「呪術」にみんながもどるのかというと、そうでもない。
例え何らかの宗教団体に属してはいても、多くの人が同時に科学の有効性を認めそれを利用している。
自らの宗教のために科学を根底から否定するような「狂信的」な人は、現代の文明国ではごくまれだろうと思われる。
つまり現代の人々は、科学に疑いを持ちつつ「反科学」にも徹しきれないという、宙ぶらりんな立場にいるのではないかと思われる。
宙ぶらりんと言うことは「それについて突き詰めて考えない」と言うことであり、それをして「非科学的である」とか「無宗教という宗教に陥っている」などと揶揄されるのだ。

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そこで最近ぼくが撮っている立場がなんなのかと言えば、それは「反ー反宗教」であり「反ー反科学」であることにふと気がついたのだ。
これはもちろん、最近のぼくの「反ー反写真」や「反ー反芸術」が考えの基になっている。
つまり最近のぼくは、原始仏典や聖書を読んだり、「科学は呪術である」とか「携帯電話は宗教だ」とか「芸術家は芸術の神を信仰している」などと言ったりしてるが、それは単純に「宗教」に走ったことを示さないのだ。

それはぼくがモノクロ写真を始めたからと言って単純に「写真」に転向したわけではなく、「写真」の有効性を認めながらもそれを疑いつつ実行する「反ー反写真」の立場にいるのと同じなのだ。
ぼくの「反ー反写真」の根底にはさらに「反ー反芸術」があるのだが、そもそも「反芸術」の「反」には「運動」の意味がある。
これを試しに「無芸術」や「非芸術」に置き換えると分かるのだが、「無」や「非」には動的な意味はなく、静的な状態を指している。
つまり「反芸術」は運動なのだが、その結果にたどり着いた「無芸術」や「非芸術」はもはや運動ではない。

前回の記事を引き合いに出すなら、赤瀬川原平さんはかつて「反芸術」の運動をしていたのが、現在は「無芸術」あるいは「非芸術」の状態に落ち着いていると言える。
赤瀬川さんの「超芸術トマソン」にはまだ「反芸術」としての運動が感じられたのだが、その後の「路上観察学会」はもはや芸術の無い状態、芸術ではない状態であり、運動のない静止状態なのである。

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いや実は、「反芸術」とは本質的に「反ー反芸術」ではないかと思うのだ。
と言うのも「反芸術」の運動の目標は、決して「無芸術」や「非芸術」の状態に至ることを目標としていないからである。
「反芸術」は、あくまでも「芸術」を成立させるために「反芸術」的態度を取る。
つまり「反芸術」は、「芸術」という枠組みの中で、その枠組みを疑う「反芸術」的運動を繰り返し継続する「反ー反芸術」であり、ピストン運動する内燃機関のようなものではないかと思うのだ。
一方の解釈の「反芸術」は弾丸のような放物線を描き、着地点で「無芸術」や「非芸術」となって静止する。

それは、「新約聖書」に書かれたキリストの教えが、必ずしも「反ユダヤ教」ではないことと似ているのだ。
キリストは、ユダヤ教の「神」を否定したわけではなく、むしろより「神」に忠実であろうとするあまり「反ユダヤ教」的な教えを説いている。
キリスト教の「反ユダヤ教」的教えは決して「無キリスト教」や「非キリスト教」を目標とはしていない。
そう考えると、恐らくあらゆる宗教は「反ー反宗教」としての運動なのではないか?と思えてくる。

「宗教」が「反ー反宗教」の往復運動から解放され、一方的な放物線運動に移行すると、その着地点で「無宗教」や「非宗教」となって静止するのだ。
それが例えば、現代日本の形骸化した仏教や、その他の新興宗教ではないかと思われるのだ。
科学にしても「反ー反科学」の往復運動が無くなれば、すなわち「科学の前提を疑いながら科学を遂行する」という運動をしなければ、やがては「無科学」「非科学」となって、疑似科学的な迷信状態に陥ったまま静止してしまうだろう。

「反ー反○○」とは言ってみれば「反省の態度」であり、「反省」もまた「運動」なのだと言える。
○○という対象を反省的に捉える、と言うことは「常に反省し続ける」ことであり、だからそれは運動なのだ。
まぁ、ぼくは力不足なので「写真」や「芸術」や「宗教」をどこまでちゃんと反省的に捉え続けられるのか心許ないが、ともかくそのような「運動」が必要なことだけは自覚している。
対して「静止」というのは安心であり、「運動しない」のは楽なことなので、もしかするとこっちを目標にするのが良いのかも知れない。

実は先日、長野市に帰省した折、小布施の「北斎館」と「中島千波館」に行ってきたのだが、中島千波という現代の画家が技巧は達者だが似たような桜の絵を大量に描いて静止し、全く堂々と落ち着いているのに感じ入ってしまった。
対して北斎は、絶筆と言われる90歳で描いた作品に至るまで「動的」であったことに、非常に感動してしまったのだ。

などと書いていたら、自分が提唱する「非人称芸術」には「非」が付いていることにあらためて気づいたのだが(笑)、「反」とは異なる「非」や「無」についてはあらためて考えてみたい。

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