非人称芸術

2011年3月10日 (木)

たまにはトマソン

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最近は路上を歩きながら「反ー反写真」モードになっているか、「歩行読書術」モードになっているのだが(笑)、「超芸術トマソン」も見かけたら撮るようにしている。
これは両国で見つけた「高所ドア」・・・

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ドアを開けると階段があるようで、実は別の階段室の屋根が空しく横たわっている。

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次は静岡市由比で見つけた「純粋階段」・・・・

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全体は遺跡のような佇まいの駐車場で、ちょっとインガのピラミッドぽくもある。

以上、二つのトマソンを「2コマ写真」で表現してみたが、この手法は「現物の伝達」が第一の目的で、そのために「写真」としての完成度はスポイルしているのであり、その意味で「反写真」的だと言えるのだ。

これに対し、例えば先日プレイスMで見た旭大地さんの写真展は、「面白い物件」を選んで撮っているにもかかわらず、同時に「写真」としての完成度も求めているため「物件の伝達」が多少なりともスポイルされてしまっている。
だからぼくとしては同じ物件の別角度や、引いて撮った全体写真も見たくなってしまい、そのあたりをご本人にちょっと突っ込んでみたりしたのだ(笑)

まぁぼくとしても「現物至上主義」に偏りすぎた自分の態度を反省し、「反ー反写真」や「ややネタ写真」なども試しているのだが、これらと平行し「2コマ写真」も続けていこうとは思っている。

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2011年3月 4日 (金)

<超現実>と<現実界>

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1月12日に書いたtwitterのまとめで、自分の考えとしては早くも古びているような気もするが(笑)自分のメモ用の意味で一応アップしてみる。

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シュルレアリスムが示す「超現実 」とラカンの<現実界>の関係を自分なりに考えてみる。
例えば夢の世界が覚醒時と異なり辻褄が合わないのは、イメージを指し示す言葉の秩序が壊れてるから…
つまり<象徴界>の亀裂の向こうに<現実界>が垣間見える、という状況が「超現実」なのだと言えそう…

シュルレアリスムの<超現実>と、ラカンの<現実界>では「現実」という言葉の意味が違うのでややこしいが…シュルレアリスムで言う「現実」は、むしろラカンの示す<想像界>に相当する。
その<想像界>を成立させる<象徴界>が壊れると、シュルレアリスムで言う<超現実>が出現する。

睡眠時の夢とは<象徴界>の亀裂であり<超現実>なのだが、覚醒後に「変な夢を見た」などと思い出した時点で、全ては<想像界>に還元される。
同じように<超現実>を描いたシュルレアリスム絵画は、あくまで<想像界>の産物でしかない。

シュルレアリスム絵画はあくまで<想像界>の産物に過ぎないが、しかしそれ自体が<想像界>のその向こう側を指し示す「矢印」の機能を持つ。
例えばマグリットの絵画がなぜペンキ絵のように薄っぺらく描かれているのかというと、その意味が「描かれたイメージ」にあるのではなく、その存在自体が「矢印」に過ぎないからなのである。

ぼくはマグリットやエルンストなどシュルレアリスム絵画が好きなのだが、それらをあくまで「矢印」として捉えており、そして、それが指し示す「<想像界>としての現実」の向こう側に<非人称芸術>を見い出したのだった。
<非人称芸術>とは、夢を見るのではなく、狂気に陥るのでもなく、<象徴界>に亀裂を生じさせることのできる方法論である、と言えるだろう。
<非人称芸術>という言葉は、<象徴界>の亀裂を指し示す「矢印」として、ぼくがそう名付けたのだった。
そして「フォトモ」「ツギラマ」「反ー反写真」などの作品は全て同様の「矢印」として制作している。

ぼくの作品は<非人称芸術>を指し示す「矢印」であり、<非人称芸術>そのものではない。
これはシュルレアリスム絵画が<超現実>を指し示す「矢印」であり、<超現実>そのものではない、という事と同様である。
もしかすると芸術の本質は「矢印」なのであり、だとすれば「矢印の向こう側」を鑑賞する人と、「矢印そのもの」を鑑賞する人の二種類がいるのかも知れない。

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2011年2月14日 (月)

たまにはネタ写真(静岡編)

ここのところ反省的な「ネタ無し写真」ばっかりなんですが、これまでの「ネタ写真」も捨てたわけではなく、もちょくちょく撮ってはいるのです。 言ってみれば「表現の幅」を維持するためでもあるのですが、頭の切り替えがなかなか難しい・・・ とりあえず最近、静岡を訪れた際の成果です。

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シュールレアリスム的なメモ。いやメモ書きというのは、必然的にシュールレアリスムになるのかも知れません。
(静岡市清水区)

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カラフルな無用庇、トタンとの組み合わせも味わい深い。
住所表示板も半分無用物化してます。
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実に堂々とした人物ですが・・・

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院長先生でした・・・
(焼津市)
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空き地の出現によって、見事に切り出されたカタチ・・・

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反対側も切り出されています。
(静岡市清水区)
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このシートは・・・?

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自転車の隠れ家でした。

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素朴ながら芸が細かい・・・
(焼津市)
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ということで、久々にネタ写真にコメントを書いてみると、もはや自分のセンスとしては「古い」ですねw
と思えるのは、ここ最近いろいろ新しい知識を仕入れて新しい試みもして、「自分」というのの内容がそれなりに変化したことのあらわれかも知れません。
いや、単に自分の飽きっぽい性格の表れなのかも知れませんがw
いずれにしろ「古い」と感じるのはぼくの主観であって、他の人が新鮮に面白いと思えばそれで良いのだし、だからぼくも「表現の幅」を維持するためにこの路線はそれとして続けていこうと思っているわけです。

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2011年1月 8日 (土)

味の道くさ

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正月の長野市滞在中、昼食を食べに権堂の「いむらや」へ行ってみた。
なんと言うこともない中華屋なのだが、安いので学生時代に帰省した時など友達と入った記憶がある。
特に美味くはないが、独特の味わいがあったような気がして、それを改めて確認したくなったのだ。

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で、以前の記憶を頼りに「焼きそば」頼んでみたのだった。
パリパリのかた焼きそばで、並盛りで500円。
それが大盛の量で出てきたて、ちょっと驚いてしまった。

で実際の味だが、自分の好みとしてはちょっと甘ったるい味付け。
さらに味わいながら食べ続けると…どうも釈然としない…と思ったら、ほとんど調味料の味しかしない。
具材は白菜、インゲン、キクラゲ、肉も少々などいろいろ入ってるのだが、具材固有の味がほとんどしないのだ。
麺もバリバリした歯応えだけで小麦粉の味がしない。
そして何しろ量が多く、そして量も味のうちだとすれば、これは思った以上に手強い相手である。
けっきょく完食したのだが、なにしろ味がないというか単調なので、大量の水道水を飲んだみたいな感じである。

恐らくこの焼きそばは、焼きそばの「実在」ではなく、焼きそばの「概念」なのかもしれない。
だから概念的には満腹のはずなのだが、心は満たされず空洞のままで、満腹なのにどうも腹が減っているのである。
恐らくニッチ(生態的地位)としてはサイゼリアに近く、ぼくもサイゼリアはよく行くのだが、概念の満腹とは生きる上での「実用」なのである。

と言うわけで、美味しいものもそうでないものにも固有の「味」がある。
そして、店の外観や内装などを含め、トータルで味わうのが真のグルメ道ではないかと思うのだ。

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ちなみにこのような店内で…

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あらためて隣を見るとフーゾクだったりして、味わい深すぎる…
個人的にはまた行ってみたいと思うお店です(笑)

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2010年12月24日 (金)

非人称芸術とアウトサイダーアート

言論の武士道、真剣によるチャンバラの極意は「最大の敵は自分」であり、「敵に向ける刃を自分にも向ける」事であり、「敵が隙を見せたらすかさず切りつけるように、自分が隙を見せたらすかさず切りつける」事であり、それが出来なければ「公正」とは言えないのである。

相手のプライドに止めを刺すような「言論の刃」は、自分にこそ向けるべきである。
相手のプライドを気遣い、そのために収めた刃を、再び引き抜いて自分のプライドをズタズタにする目的で使用する事。それが出来る「技術」と「覚悟」の無い言論人は、ポストモダニズム的に新しいwww

さて、自分にとっては非常に恐ろしい事だか、自分の芸術の根拠である「非人称芸術」が、ヘンリー・ダーガーと同様の「アウトサイダーアート」に過ぎないのではないか?という疑いが出てきた。

引きこもりのヘンリー・ダーガーは、誰に見せる為でもなく、純粋に自分の為だけの「非現実の王国」を描き続けた。
一方、純粋な意味での「非人称芸術」は、原理的に自分以外の鑑賞者が不在であり、故にそれは自分の主観的な「非現実の王国」でしかない。

岡本太郎の「芸術は新しくなければならない」を掘り下げると、新しい芸術は常に「芸術の外部」として認識されると解釈出来る。
そして、その延長上に「作者」の存在を否定した「非人称芸術」のコンセプトが見い出された。
だがそれは文字通りの「アウトサイダーアート」に過ぎない疑いが出てきたのだ、恐ろしい…w

「アウトサイダーアート」はフランス語で「アール・ブリュ=ナマの芸術」と言われるが、この言葉に惑わされてはいけない。
「ナマの芸術」という言葉は「芸術の根源は、理性や知性にではなく、それらを獲得する以前の状態にある」というイデオロギーに支えられているが、その芸術観は妥当なのか?

「アール・ブリュ=ナマの芸術」の芸術観は、岡本太郎の芸術観と符合する。
岡本太郎は「自分を捨てて無心になれば、誰でも真に自由な芸術を描くことが出来る」みたいなことを主張したが、そのような芸術観だからこそ、「曖昧な自分」である知的障害者の作品が「ナマの芸術」として解釈されるのだ。

岡本太郎流のモダンアート=今日の芸術は、伝統の否定、形式の否定、常識の否定であり、それにより「自由」が獲得されるとしている。
これをラカンの概念で解釈すると、<象徴界>を否定することで、<想像界>の自由を獲得する、ということなのかもしれない。
と考えると、ずいぶん無理があるように思える。

ラカンの概念で考えると、<想像界>の多様性は<象徴界>の多様性が保証する。
だから<象徴界>を否定し抑圧し、その多様性を損なうと、<想像界>の多様性も損なうことになり、多様性を損なった状態を「自由」とは呼ばないのである。
つまり岡本太郎的な「自由な芸術」は、結局どれも似てしまう。

ぼくは結局、<象徴界>に支障をきたした人々による、一定の傾向の作品が好きで、それを「芸術」と勘違いしてたのかもしれない。
だからダーガーに惹かれるし、学生時代ぼくがその才能に嫉妬してた友人は、卒業後に「ビョーキ」が治って絵を描かなくなってしまったw

学生時代のぼくは、芸術の根拠を<象徴界>の故障に見い出したのだが、ぼくは<象徴界>が正常な健康人だったので、その意味での「芸術の才能」があるはずもなく、絶望したのであった。
そんな絶望の仕方も別の意味で病的だがw…もちろんラカンの概念は当時は知らず、今あらためて解釈している。

勝手な芸術観により失望していたぼくは、いろいろのたうち回ってた末に、「非人称芸術」の概念に行き着いた。
これはあらためて解釈すると、岡本太郎流の<象徴界>の否定を受け継ぎながら、<想像界>も否定し、<現実界>に根拠を見い出す芸術観だと言える。

「非人称芸術」は、様々な人工物の「それが何であるか」という意味を意図的に忘却することで、目の前に現れる。
これは<想像界>から<象徴界>取り除くという操作を行い、<現実界>そのものへ迫るための技術だとも言える。

「非人称芸術」は、不可知世界である<現実界>と、可知世界である<想像界>との「境界面」として現れる。
だから「非人称芸術」は作品という「実体」として存在しえず、その場限りの刹那的な「関係」として立ち現れ、または<神>のごとく遍在する。

刹那的に出現した「非人称芸術」の記録写真は、作品という「実体」として存在する。
だが、それはあくまで「非人称芸術」の影でしかない。または、「非人称芸術」という「非実体」を利用して制作した、「作品」という「実体」に過ぎない。

岡本太郎流の「芸術は新しくなければならない」の「新しい芸術」は、既知(現在)と、未知(未来)との境界面として立ち現れる。
つまり芸術は新しくある以前に「境界面」であることが本質なのであり、その延長上に「非実体」としての<非人称芸術>が導き出されたのだ。

<非人称芸術>が<象徴界>を否定するのは、レヴィ・ストロースの<構造主義>の影響もある。
レヴィ・ストロースは西洋の「歴史」を、いわゆる未開部族の「神話」と同列に比較することで、その意味を相対化し、絶対と思われていた「西洋の知」の優位性を否定した。

世界説明には「唯一の正解」はなく、異なる視点による様々な解釈の仕方があるのみである。
そして、ひとつの「世界」に対する、様々に異なる解釈のその「差異」の中に、<象徴界>の裂け目としての<現実界>が垣間見える。
この原理を、芸術の方法論として応用したのが<非人称芸術>だと言える。

以上、レヴィ・ストロースとかラカンとか、入門書レベルの知識がごちゃ混ぜになってるが、最近の「非人称芸術」の解釈はそんな感じ。
と言うことで、そこには<象徴界>の要素がゴッソリ抜けていることに、あらためて気がついた。
これは流石にヤバイと思い始めているのだが…アウトサイダー過ぎるw

聖書によると<神>は人間には見ることが出来ず、ただ<神>の存在をありありと感じられる人と、<神>の存在を感じたくても感じられない人と、<神>など知りたくも無い人との3種類がいる。
<神>をラカンの<現実界>に置き換えると、これにも同じ事が言える。

人間の世界認識は「五感」により制限されており、その外部に認識不可能な<現実界>が広がっていると仮定出来る。
このことを理屈として理解する事と、不可知の<現実界>の存在をありありと感じる事とは異なる。

ぼくは自分がありありと感じられる<現実界>への畏れを「芸術」の問題に直結し、そこから<非人称芸術>の概念が生じた。
だが、芸術にとって<現実界>がどれほど重要な要素であろうとも、<象徴界>をすっ飛ばしたその手続きが、その意味で有効かどうかは疑わしい。

<非人称芸術>の明確な欠点は、その経験の蓄積が「教養」に結び付かないことである。
<非人称芸術>の経験は原理的に<象徴界>を欠いているため、他者と共有可能な「教養」とはなり得ないのだ。

はじめに書いたように、<非人称芸術>は主観的経験でしかあり得ず、ただその記録写真だけが実体化され、<想像界>の中で他者と共有される。
だからぼくのコンセプトは誰にも理解されず、作品だけが喜ばれる。これではヘンリー・ダーガーの「閉ざされた心」と大差ないかもしれないw

以上のように改めて反省すると、<非人称芸術>には明らかな欠点があり、アウトサイダーアートである疑いも出てきた。
たが、だからと言って<非人称芸術>には芸術としての真実や有効性が一片も含まれていない、とは未だ断言することは出来ない。

早い話、<非人称芸術>を否定する事は、自分のアイデンティティを否定する事であり、かなり辛い…だからと言って、重大な欠点のある概念に固執したままでは自分がダメになる…

そこで「自分」というものを分割し、「<非人称芸術>を探究する自分」とは別に、「<象徴界>としての芸術を探究する自分」を立てる事にしたのだ。
そしてこの方法論による最初の試みが、「反-反写真」なのである。

<象徴界>とは、人類の歴史であり、知恵と知識の蓄積であり、まずはそれらを素直に学ぶところから「<象徴界>の芸術」は始まる。
レヴィ・ストロースも西洋史の優位性は否定したが、歴史の有効性そのものを否定したわけではない。<構造主義>も人類史の蓄積上に成立しているのだ。

<象徴界>としての芸術の基本は「学ぶこと」であり、学ぶことは「真似ること」でもある。
ということで、ぼくは友人の写真家の真似をした写真を撮ることを思い立ち、それが「反-反写真」なのである。

ぼくが「反-反写真」を始めたのは、友人の写真家達のグループ展を見た際、それらの写真が全く分からず、孤立して寂しい気分になったことも原因の一つだw

<非人称芸術>の思想は「反芸術」であり「反写真」でもあり、だから「写真の良さが分からない」のはコンセプト上当たり前だ。
だがその様に「孤高のアーティスト」を気取っても、それこそダーガーとどこが違うのか?
やはり他人と共有可能な「教養」が無ければ、付き合いは広がらないし、深まらない。

変な話しだが、ぼくは写真家の友人達と交流を深めるため「写真とは何か」を知ろうと決意した。
そして自分の「反写真」をさらに反転した「反-反写真」として、他人の「写真」を形式的に模倣し始めたのだ。
つまり、フォトモやツギラマなどの「反写真」ではなく、普通の「写真」をアートのつもりで撮ることにしたのだ。

だからぼくの「反-反写真」は認識のための写真であり、コミュニケーションのための写真であり、教養としての写真であり、自分の作品となりうる写真であり、「<象徴界>としての芸術」の探究なのである。

また、ぼくは「反-反写真」として路上の何気ない風景を撮っており、だからこれは「フォトモ」や「ツギラマ」と同様<非人称芸術>の記録写真でもある。
実はぼくは「反-反写真」を「平面のフォトモ」のつもりで撮っており、たからフォトモ同様<非人称芸術>を利用した芸術作品でもある。

ということで、今のぼくは芸術を「境界面」の問題として追求しながら、アウトサイダー過ぎる自分の立場の軌道修正を試みている。
まぁいちおう「心掛け」としてであり、実力が伴うかは別ですが…w

「アウトサイダーアート」について再び考えてみると、その定義の一つに「ちゃんとした美術教育を受けていない人の作品」というのがある。
その点ぼくは東京造形大学を出ているから、その事例は当てはまらない。

ところが、ぼくが通っていた当時の造形大は、教授はほとんど何も教えず、ぼくも人にものを教わるのが苦手で、テキトーなことばかりやっていた。
「自由」と言えばそうなのだが、そんな自分が果たして「ちゃんとした美術教育を受けた」と言えるのか?

そんな調子でいちおう造形大を卒業したぼくなのだが、程なくして自分が大学時代あまりにサボり過ぎ、何も学んでこなかったことに焦ってしまったw
それで遅ればせながら勉強を始めたのだが、芸術の勉強をすると自分独自の芸術が出来なくなると思い、芸術以外の分野の勉強をいろいろする事にした。

とは言え別の学校に行き直したのでもなく、自分の興味で思想、哲学、自然科学など、主に入門書で読むようになっただけだ。
これは全く無駄ではないが「ちゃんとした教育を受けた」とも言えない。
そんな勉強の成果が<非人称芸術>なら、それが「アウトサイダーアート」だと言われても返す言葉がないw

<非人称芸術>をアウトサイダーアートで終わらさないためには、ともかくさらに学ぶ必要がある。
それはまぁ自分の問題だからいいとして、じゃあ今の日本のアーティストのうち、誰が「ちゃんとした美術教育」を受けているのか?非常に疑問である。
いや、自分を棚に上げてるのは承知なのですが…w

あくまで自分の見た範囲からの勝手なイメージだが、どうも日本の美大ではちゃんとした美術教育が行われてない気がする。
その原因は岡本太郎に代表される風潮にあって、つまり「芸術家は勉強しなくていい」のであり「それこそが各自の自由な芸術を育む」という思想であり、つまり<象徴界>の軽視である。

<象徴界>の軽視とは歴史の軽視であり、それは岡本太郎の『今日の芸術』からはっきり読み取れる。
そこには「先入観を捨てれば誰でも芸術が描ける」というように書いてある。
つまり岡本太郎は「アウトサイダーアート」を提唱しているのであり、現在の美大も共通の土台に立っているような気がするのだ。

ぼくは美大でサボってばかりいたからそう思うのかもしれないが、どれだけ優等生であっても、美大の教育方針そのものが<象徴界>を軽視してるのであれば、その意味での「アウトサイダーアート」である事には変わらない。
まぁ、ポストモダンは「大きな物語としての歴史」が無効化した時代だと言われるから、芸術全般がアウトサイダーアート化するのは必然だし、正しい事なのかもしれない。

いや、これはあくまで仮説あり、実際のぼくの友人のアーティスト達は、美術家でも写真家でも、自分の専門分野については、ぼくよりはるかに勉強熱心で豊富な知識を持っている。
そもそも美術における<象徴界>を軽視したのはぼく自身であって、アウトサイダーアートの問題も自分の事として考えるべきだろう。

以上、家にあったヘンリー・ダーガー画集をじっとり見て、巻末の解説を読み思った事を書いたのだか、自分は結局ダーガーに惹かれてるのだ。
ただ「ダーガーなんか芸術じゃない」という人もいて、そういう他人の価値観に学ぶのが<象徴界>の思考だと言える。
それに対して、あくまで自然な「自分の好み」に従うのが<想像界>の思考で、いろいろ試行錯誤しているw

ところで、「自分の好み」という概念には気をつけなくてはならない。
なぜなら全ての好み=欲望は「他人の欲望」のコピーなのである。
コピーされた他人の欲望は<想像界>の中で「自分の欲望」として内面化される。
「自分の好み」にこだわる人は、実は「他人の欲望」に踊らされてるだけなのである。

「自分の好み=他人の欲望」に踊らされないようにするにはどうすれば良いのか?
それにはまず自分の好みを「自明=<想像界>」から「対象化=<象徴界>」に転じることが必要だ。
そして、あらかじめ<象徴界>として対象化されている「他人の欲望」を意図的にコピーし、「自分の好み」の世界をより豊かにすればいい。
というのが「勉強」と一般に言われてるものではないかと思われる。
ぼくも今書きながら気づいたのだがw

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2010年9月27日 (月)

彦坂尚嘉さんへの返信と解説

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話題にするのが遅くなりましたが、彦坂尚嘉さんのブログにまたしても取り上げられてますね・・・

糸崎公朗さんの真摯な思考(加筆2校正1) [アート論]

あちらのブログに返信しようかと思ったんですが、このブログの読者への「解説」も兼ねてこっちで記事にしてみます。

糸崎公朗さんの顔写真です。
糸崎さんには、私のマキイマサルファインアーツでの搬入搬出で助けていただいて、深く感謝しています。

こういうふうに、近しい人の顔をブログに掲載して分析することは、褒めるにしろ貶すにしろ、あまりやる人はいません(ぼくもやりません)。
ぼくはこれまでも何度か彦坂さんのブログに晒されながら分析されていて、「糸崎さんはあんな失礼なことされて平気なんですか?」と心配してくれる友人もいるのですが、ぼくはもうそういうもんだとあきらめて(笑)おつきあいしています。
そもそもぼく自身も議論好きで、批判を厭わず、『唐沢俊一検証blog』なんかも面白がって見てますから、そういう自分が他人から批判されたり検証されたからといって、それを嫌がってたら辻褄が合わないわけです。
それで最近は彦坂さんに限らず、ネット上の匿名の意見であっても、自分に対する批判はありがたいものとして受け止めることにしてるのです。

この写真は、搬出時の集合写真の中から切り出したものです。集合写真を撮ったのは糸崎公朗さんで、セルフタイマーによる自動撮影です。
切り出してみると、流通している一般的なイメージとしての、やさしい糸崎公朗さんとは、ずいぶんと違う顔をしています。
何よりも眼が鋭く、口元も締まっていて意志的で、凶暴で、傲岸不屈、自尊心に満ちています。

まぁ、これは写真を撮ったらブログに掲載されるだろうと思って(笑)そういう顔をしたに過ぎません。

凶暴ではありますが、しかし軍人の顔ではないし、憲兵や警察官の顔ではありません。
神官や牧師の顔ではないし、哲学者や思想家、インテリゲンチャの顔でもありません。
糸崎公朗さんの顔は、芸術家の顔で、しかも画家の顔をしています。彫刻家ではないし、写真家でもないのです。アウグスト・ザンダーというドイツの写真家が「農民」「熟練工」「女性」「階級と職業」「芸術家」「町」「Last People(ホームレス、退役軍人、など)」と7つのセクションに分けて撮影していますが、その中の「芸術家」の顔写真に類似している要素があるのです。

デュシャンによると「画家のようにバカ」という言葉が昔からあって、そういう類なのかもしれません・・・
しかしぼく自身は「画家」を志して挫折した経緯があります。

こういう判断は《言語判定法》という、言葉をこの画像に投げかけて、その木霊(こだま)を取る形で判断しています。その判断には彦坂尚嘉の私的な記憶の集積が反映しているので、客観的な無名性による判断ではなくて、観測している主体である彦坂尚嘉のあくまでも私的な判断なのです。

ぼくはいちおう「構造主義」を理解してるつもりであって、だから「言語」がなんであるかも、その意味で理解してるつもりでいます。
しかし、彦坂さんがおっしゃるように「言葉を画像に投げかけて、その木霊(こだま)を取る形で判断する」という方法論は他に聞いたことがないし、その《言語判定法》に同意した第三者というのも知りません。
つまり彦坂さんの《言語判定法》は、何ら客観性のない、誰も理解できない主観的な手法で、常識的には(本人が自称してるように)キチガイの世迷い言として片付けることもできます。
しかし彦坂さんは実際にはキチガイではないわけで、とりあえず面白そうだし判断を「保留」してるのです。

その《言語判定法》を使って彦坂尚嘉の私的責任による人相分析をしてみると次のようになります。

《想像界》の眼で《第1次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第1次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《第1次元》のデザイン的人格

《象徴界》の人格
プラズマ人間
《シリアス人間》《ハイアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間であって、
シニフィアン(記号表現)的人間ではない。

『真実の人』

みなさんに解説すると、ここで示される《想像界》《象徴界》《現実界》は本来は精神分析医のジャック・ラカンによって示された概念ですが、彦坂さんの言う《想像界》《象徴界》《現実界》は、実はラカンの概念をベースにしながらも、そこから大きく外れた独特の概念になってるようです。
ぼくはラカンの《想像界》《象徴界》《現実界》は、斉藤環さんによる入門書『生きのびるためのラカン』を通してしか理解してませんが、これによるとラカンの《現実界》は「人間には見ることも理解することも不可能なレベルの世界」を指しています。
ですのでラカンの考えに従うと「《現実界》の眼で」という言葉自体が成り立ちません。
またラカンの《想像界》《象徴界》《現実界》はそれぞれ別の3つの世界があるのではなく、一つの世界の3つの様態(あるいは側面)を指しているので、「《象徴界》の人格」という言葉も成り立ちません。

だから彦坂さんの《想像界》《象徴界》《現実界》は、ラカンの概念の応用であり、そこから離れた独自のものです。
これについては彦坂さんのブログでたびたび解説されてるのですが、ぼくには何となく分かる気がするだけで完全な理解にはなかなか至りません。
ついでにいうと、ぼくは彦坂さんの《想像界》《象徴界》《現実界》は、ラカンのいう《想像界》をさらに3界に分けたものではないかと仮に想像してるのですが、本人には否定されるかもしれません(笑)

昆虫写真も撮っておられるので、昆虫が好きな養老孟司さんのように《第6次元 自然領域》の人格なのかと思っていたのですが、顔写真を《言語判定法》で分析してみると《第1次元 社会的理性領域》の人格でした。これは意外であると同時に納得のいく分析結果でありました。

字義通りにいえば、ぼくは「遅刻」が多いので、社会的理性は弱いでしょう。
それが理由で大学卒業後になったサラリーマンも、1年ちょっとでやめてしまいました。

糸崎公朗さんとは何度も徹夜をご一緒していますが、《第6次元 自然領域》の人物は徹夜はやらないのです。つまり徹夜をじさない性格は、《第6次元》ではなくて《第1次元》のものなのです。

徹夜するのはアーティストなので時間が不規則だから・・・と思ってましたが。
社会性のある人は明日の社会生活に備えて徹夜をせず、だらしなく自然にまかせた人が徹夜でおしゃべり・・・というふうに自分には思えてしまいます。

そして糸崎公朗さんは味覚のセンスが私なんかよりも良い方で、一緒に美味しいレストランに行くと、率直で適切な反応を口にしてくれる楽しい人なのですが、これも《第1次元 社会的理性領域》の人物であると分かると、納得がいきます。なぜなら料理というのは《第1次元 社会的理性領域》のものであるからです。《第6次元 自然領域》の人は野蛮で、味覚も自然主義で、料理という人工性を理解できないのです。《第1次元》、つまり《1流》の人でないと、料理を理解し、楽しみ、語る事はできないのです。糸崎公朗さんは、すぐれて《1流》の人物なのです。

やせの大食いで食いしん坊なんですね・・・特にグルメというわけではなく、普段も「サイゼリヤ」とかろくでもないところでしか食べてないですが、美味しいものは普通に美味しいと思います。
しかしいろんな味覚を詳細に比較検討したり、自炊も適当なので、ぼくより味覚レベルの高い人はたくさんいるでしょう。
しかし、料理が社会的理性の産物だということは、分かる気がします。
例えば、とれたての野菜をその場で丸かじりすると「自然の味」がして美味いようですが、実は野菜は人工的な品種改良の産物です。
また、新鮮なお刺身がいくら美味くても、生きてるマグロにそのまま齧り付いても美味くはないでしょう。
原始の人間にとって、全ての食材は「自然のまま」提供されてますが、「このようにもっと美味しくなる」という操作を加えたものが「料理」であり「文化」であると言えるかもしれません。
それは芸術にも共通していて、ぼくは先日、大宮の『盆栽美術館』に行ってきたのですが、盆栽というのは元の自然(植物)に対し「こうすればもっと美しくなるのに」という操作を加えるから「芸術」になるのだと理解しました。

もう一つ意外なのは、《象徴界》の人格を持っておられる事です。最近はずいぶんと読書をなさっておられますが、その辺も納得できる分析結果であります。

みなさんに解説すると「象徴」には「儀式・儀礼」といった意味と、「言葉」や「言葉の連鎖」といった意味があります。
ということで考えると、ぼくは一般的な「儀式・儀礼」が苦手で、どうも馬鹿馬鹿しいと思ってしまうのです。
その意味で社会性が無いとも言えるし、そういうところで哲学者の中島義道さんにシンパシーを感じるのです。

一方でぼくは「言葉」や「言葉の整合性」の奴隷であって、「言葉に対する裏切り」を激しく嫌う傾向があります。
そこも中島義道さんに同調するのですが、象徴的な「儀式・儀礼」は時として「言葉の内実」を伴わない「言葉の整合性」のない「言葉に対する裏切り」となり、それで嫌悪するところがあります。
もちろん、ぼくと中島義道さんでは「頭のレベル」が違うし、だから「師匠」として倣うことは早々に挫折してしまいました(笑)
読書も遅ればせながらするようになって、しかも読むのが遅いので、買いかぶられても困るものがあります・・・

もう一つの驚きは、プラズマ人間であるという事です。つまり新しい現代の人格であって、その辺が、なかなか私は見落としていたのですが、実際にデジタルカメラのウオッチャーでいらして、プロとして批評を連載なさってておられることのも、納得できる分析結果でありました。

「プラズマ」というのは文明の発展段階を示した彦坂さん独自の用語で、分かりやすくいえば現代のパソコンやケータイやネット社会に上手く適応できた人が「プラズマ人間」で、時代に取り残された頑固な堅物が「個体人間」です。
実はぼくはデジカメの導入は決して早いほうではなく、しばらくのあいだ「あんなのは馬鹿馬鹿しい」とパソコン共々否定してました。
というのも、ぼくは「フォトモ」をはじめとする「自分が考えた新しいもの」が好きな反面、「他人の考えた新しいもの」が好きになれなかったのです。
それに「デジタル時代の新技術」は、自分がこれまで開発してきた「アナログによる新技術」を否定するものであり、そこもしゃくに障りました。
しかしデジカメもパソコンも、試しに使ってみたらなかなか便利で、デジカメもカメラに違いはなくカメラオタク的愛情の対象物にもなり、自分なりにデジタルならではの新技術を開発できることもわかり、現代に至る感じです。

しかし、携帯電話については、これをいまだに持つことを拒否してるのは、それが「言葉に対する裏切り」になるからですね。
携帯電話の登場によって、人々の「言葉」の使い方のマナーが非常に悪くなった。
マナーというのは儀礼的な意味ではなく、「言葉の整合性」がないがしろにされるようになった、ということです。
ですから自分が携帯電話を持つことは我慢ができないし、それは明確な自己否定に繋がります。
ただ、最近はそうも言っていられないようなので、「あきらめて」携帯電話を買おうとは思っています。
「あきらめる」というのも最近試してることで、彦坂さんともいろいろなことを「あきらめる」ことでおつきあいが可能になってるわけです(笑)

最近、糸崎公朗さんのブログで、「科学と宗教」という長文のシリアスな文章を書かれています。
http://itozaki.cocolog-nifty.com/
その最後が、次のようなものでした。

宗教も、科学も、芸術も、その本来の目的は「認識の外側」へ開かれている、ということではないかと思うのです。しかしそれは理想論であって、ぼくのように対して頭のよくない凡庸な人間は>>「サル知恵」でどうにかしなければならないわけです(笑)。

彦坂尚嘉の《言語判定法》を使った人格分析でいえば、まず、糸崎公朗さんは凡庸ではないし、「サル知恵」ではないのですね。

「サル知恵」というのは自戒の意味もあって、そうでもなければぼくはすぐ調子に乗ってしまうのです(笑)

問題があるとすると、《1流》であることです。《1流》というのは《社会的理性領域》であって、あまりにも社会的理性領域が強くて、非合理なものや、価値の多様性を理解できないのです。
彦坂尚嘉的に言えば、世界はⅠ00次元のディメンションの重層によって成立しているので、一つのことがらについても、Ⅰ00通りの理解や解釈があるのです。糸崎公朗さんが議論している哲学や宗>教そのものが、実は100次元の意味の重層によって成立しているのですが、糸崎公朗さんはそれを《第1次元 社会的理性領域》だけで切って理解しようとする還元主義の論を進めておられる。
それは無理なのです。

彦坂さんのいう《1流》も《100流》まであるので(笑)、一般的な「一流」とはニュアンスが違います。
思い切り意訳してみると、ぼくの性格が一面的で「硬い」「堅物」ということでしょうか?
確かに、当該記事のコメント欄のやりとりも、読み返すと我ながら「硬い」ような気がします(笑)
それと「還元主義」といわれれば、明確にそうですね・・・
これは高田明典さんの影響が大ですが、高田さんは「科学」や「現代思想」を「道具」として捉える見方を教えてくれました(本を読んだだけですが)。
まぁ、ぼくはあまり頭がよくないし、そうすると「考える道具」はシンプルな方がいいので、だからなおさら還元主義になるのだろうと思います。

ただ、ぼくは芸術という「非合理なもの」を扱ってるつもりだし、実のところ特定の宗教に属してはいないものの「無宗教」ではないのです。
ですからいってみれば、あくまで「非合理なもの」に接近するために、シンプルな道具(還元主義)を使っているつもりです。

ぼくの「還元主義」は「思考の整理法」でもあって、つまりパソコンのデスクトップにフォルダを作るのと同じです。
ぼくが「誰も宗教から逃れることはできない」といったとき、「宗教」というフォルダをとりあえず作って、その中に全部のものを入れます。
さらに「宗教」フォルダの下の階層に、「科学」とか「無宗教」とか「キリスト教」とか「芸術」とか新たなフォルダを作り整理します。
そうやってキッチリ整理すると、そのうちどのフォルダにも収まらない要素が必ず出てきて、それが「非合理なもの」だったりするかもしれません。
また、全てのフォルダは暫定的に設置されたもので、整理法も一つとは限らないでしょう。

しかし彦坂さんの《言語判定法》や《100次元アート》などの複雑怪奇な分類法は、単純な「還元主義」とは異なるようで、また別の理解の仕方があることは検討しなければいけません。
ちなみに、彦坂さんの実際のパソコンのデスクトップを見たことがあるのですが、フォルダがまったく整理されず、散らかり放題だったのが印象的でした(笑)
「これで仕事ができるのか?」と思いましたが、独特の仕事の仕方があるのかもしれません。

糸崎公朗さんは、自らの《1流》性を理解しないで生きて来ておられるように思います。《第1次元 社会的理性領域》である人格なのに、《第6次元》的な直接性に依拠する傾向があるのです。美術家としても、もっと多様で、《ハイアート》としての作品をつくりえる人物であると思います。

岡本太郎の『今日の芸術』に依拠すると、社会的理性を打ち壊したものが芸術だということになり、自分なりに行き着いたところが『非人称芸術』と『自然科学写真』になりました。
しかし最近は別の方法論として『反ー反写真』を試みていて、これはいってみれば「社会的理性」としての「写真」のあり方を意図的に学んで取り入れてるつもりです。

芸術を「非人称芸術」として見る見方は、間違っているのではなくて、正しいのです。つまり芸術には2種類があって、《人称芸術》と《非人称芸術》の2つがあるのです。この二つは、どちらも重要なのであって、糸崎公朗さんは、非人称芸術を選択したのです。
《非人称芸術》というのは、民衆芸術とか、フォークロア、大衆芸術に見られる構造なのです。原始美術にも見られる性格であって、人間の基本である動物としての存在に密着した芸術の基礎であり、基盤を有するものなのです。
つまり彦坂尚嘉の用語を使うと、《自然芸術》と、《文明芸術》の2種類があって、この2つはしかし相互に影響し合って複雑に入り組んでいるのですが、その混乱を、糸崎公朗さんは、「非人称芸術」として論じて来たのです。

間違ってはいないけど、見方が一面的だということですね。
これは最近、自分でも意識するようになって《文明芸術》も理解しようと試みてます。

ただ普通には、「非人称芸術」という民衆芸術や大衆芸術というのは《第6次元 自然領域》であるので、糸崎公朗さんの《第1次元 社会的理性領域》の人格とは、実は齟齬や矛盾があるのです。この齟齬や矛盾が、糸崎公朗さんの作品の複雑さを生み、魅力あるものにしているのです。同時に糸崎公朗さんを苦しめ、悩ませていると言えます。

おっしゃるとおり、齟齬や矛盾はあって、それは有利な点でもありますが、最近は特に大いに苦しみ悩んでいます(笑)
ぼくは意識的に「自然崇拝主義」なのですが、ぼくはこれまで自然の「よい面」しか見てこなかったのかもしれません。
しかし自然のよい面だけを見て自然を理解したと思うのは、現代人特有の浅はかさですね・・・
いや実際「自然からの逆襲」を受けてるし、恐ろしいことです(笑)

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2010年8月 3日 (火)

精神病の治し方

芸術とそうでないものの区別が付かない精神病」の続き。

人類の歴史を振り返ると、そのほとんどの数百万年が狩猟採集生活をしており、それに比べると農業による文明の誕生が数千年前でしかなく、近代文明の歴史はさらに短く百数十年ほどしか経っていない。
だから人類という生物種にとって狩猟採集生活こそが「正常」であり、そこからかけ離れた文明社会はまったくの「異常」であり、「現代では誰もが精神病である」と捉えることができる。
「自分が王様だと思い込んでいる乞食と、本物の王様は、同程度の精神を患っている」というのはどの本で読んだのか忘れてしまったが、どちらも狩猟採集社会には存在し得ない「役割」である。
そのような意味で、自分は「芸術とそうでないものの区別が付かない精神病」を患っている。

このことを、ぼくは美術好きの友人との会話で気づいたのだが、実はその友人からは同時に「精神病の治し方」のアドバイスをもらっていたのだ。
つまり「糸崎さんは美術館やギャラリーには滅多に行かないから、そんな勘違いをするだけで、実際にアートをたくさん見れば病気は治ります」と言うことなのだ。
その友人自身は、だいたい週に3日は何かしら美術館やギャラリーを見に行っているそうで、「そうじゃないと、人生サボってる気がしてしまう」と言うのだから説得力がある。
だからぼくもそれに倣って心を入れ替え、足繁く美術館やギャラリーに通えば、ヘンなビョーキは治ってまっとうな「美術愛好者」になれるかも知れない。

だがしかし、精神病患者は誰でも「現在の自分」が好きで、周囲がどれだけ心配しようとも治療を断固拒否するものなのだ。
精神病を治療する、と言うことは「現在の自分」を否定し殺してしまうことに他ならない。
だから患者は「病気の自分」に固執して、他人の話に耳を貸さず、一切変わろうとはしないのだ。

ぼくだって「芸術とそうでないものの区別が付かない精神病」に固執しており、それを治療したら自分のアイデンティティは崩壊してしまうだろう、と信じている。
言い方をかえると、ぼくが美術館やギャラリーにほとんど足を運ばないのは、「非人称芸術」というコンセプトでその存在を否定しているからで、それが美術家としてのアイデンティティになっているのだ。
その意味ではぼくは断固として自分の立場を守り続ければいいのであって、それをことさらかえる必要はないと言えるかも知れない。

ところがたびたび書いているように、「非人称芸術」のコンセプトでその他の「芸術」を否定するのは良いとしても、では自分はどれだけ「芸術」のことを知ってそれを否定しているのか?と言う疑問に最近ふと気づいてしまったのだ。
ぼくは、「非人称芸術」はその他の「芸術」より優れていると確信しているのだが、それがきちんと比較して検証した上での確信なのかと言えば、実はそうでもないのだ。
「芸術」が目の楽しみであるならば、ぼくは並の芸術愛好者以上に日常的に「目」を使っているかも知れないが、それはもっぱら「非人称芸術」のみに向けられており、比較としての「芸術」をほとんど欠いているのだった。
だからあらためて「芸術」と比較した結果、「やはり非人称芸術に意味や価値はなかった」という結論に至る可能性はゼロではない。
そうなると、ぼくの美術家としてのアイデンティティは崩壊し、そのような「自分の死」のために、これまであまり興味の持てなかった「芸術」をわざわざ見直すことはできない。
これは自分としては当たり前なのだが、まさに精神病患者の典型的な態度でもあるだろう。

しかし、実際の精神病の治療は道なのかは知らないが、ぼくは「病気の自分を棚に上げる」という方法を思いついて、最近それを実行しているのだ。
すなわち「非人称芸術によって芸術を否定する自分」を保持してそれを棚に上げながら、「非人称芸術を否定するかも知れない芸術を学ぶ」ということをやるのである。
これは、自分の中に「もう一人の新しい自分」を作り出そうとすることでもある。
いわば意図的な多重人格のようなもので、同じパソコンにMacOSとWindowsをインストールし切り替えて使うようなものである。

とりあえず最近のぼくは、以前は読まなかった芸術書や写真の本を読んだり、「反-反写真」と名付けた普通の「写真」を撮ったりしている。
そのうちもしかすると、この「反-反写真」が本当の「写真」として自分のアイデンティティに成り代わり、「非人称芸術」への固執はだんだんといつの間にか消滅してしまうかも知れない。
そうなったら「治療」も完了し、そこで初めて「まっとうな美術家」の仲間入りが出来るかもしれないのだ(笑)。

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2010年7月21日 (水)

芸術とそうでないものの区別が付かない精神病

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(川村記念美術館の庭園にあったヘンリー・ムーア)

前回の記事からの続き。

先日、美術に詳しい友人と川村記念美術館にジョセフ・コーネル展を見に行った。
川村記念美術館は初めて行ったのだが、というかぼくは美術館にはあまり行かないのだが、マーク・ロスコとかフランク・ステラとかアメリカ現代美術のデカイ作品がいろいろ展示してあって良かった。
こういう作品は写真で何となく知ってたけど、やはり実物を見るとその大きさもあって、だいぶ印象が異なる。

ロスコは「ロスコルーム」といわれる部屋に一堂に展示してあったのだが、これまでロスコがまったく分からなかったのに、あらためてその良さが分かった気がしたのだった。
もし抽象絵画というものが、キリスト教の「偶像崇拝の否定」から生じたのであれば、ロスコの描くボンヤリとした四角い光は、旧約聖書で預言者モーセが対面した神様がこんな感じだったのかも知れず、そう思うとなにやら感動した気分になる。
ぼくの解釈は浅はかでデタラメなのかも知れないが、「良い」と思えば「分かった」事になるのがアートではないだろうか。

ステラは平面絵画の他、壁面から飛び出した立体作品もあって、これは日比野克彦の段ボールアートのようにも見えるのだが、実際はアルミなどの金属でできている。
ある美術家が「糸崎さんのフォトモは、金属で巨大に作ればいいのに」と言っていて、ぼくはそれを聞き流していたのだけど、ステラの立体を見ると「なるほどそれも良いかも」と思えてしまう。
やはり実物を見ないことには、想像力も働かないのだ。

それで肝心のコーネルだが、これがどうもいまひとつ良くなかった。
暗い部屋に作品が置かれスポットライトが当てられているのだが、コーネルの作品は「箱」なので、よけいな影が出てしまい作品が非常に見づらいのだ。
他の作品と同じように普通のフラットな照明で見せて欲しかったが、今回は高橋陸郎の詩とコーネル作品を組み合わせた企画展で、会場内にお星様がキラキラちりばめられたり、いろいろ演出されていたのだった。

しかしそれでなくとも、コーネルは実物と印刷写真で見た印象がそれほど変わらないと、あらためて思ったりした。
コーネルは実は大学時代に洋書の作品集を買っていて、大好きでかなりの影響を受けたはずだが、(展示の悪さを差し引いても)初めて実物と対面した感動があまりないのだった。
その原因の一つは作品の大きさにあって、ステラなどの巨大作品に比べると、コーネルの作品規模は自分の作品(フォトモ)と変わらない、見慣れたサイズなのだ。
いやぼく自身、コーネルの作品サイズに影響されたのかも知れないが、よく言えば省エネルギーで効率が良く、悪く言えば貧乏性であり、日本人的でもある。

それと、コーネルに影響を受けたぼくは、路上でコーネルっぽい雰囲気の寂れたショーウィンドーを見つけては「コーネル物件」と呼んで喜んでたのだが、「非人称芸術」の観点からコーネルの作品が実物なのか、「コーネル物件」が実物なのか、判然としないことになる。
つまりぼくは「コーネル物件」スゴイ実物をさんざん見てきたので、今さらコーネル作品を見たところで、あまり驚かなかったのかも知れない。

****

さて、ここからが本題なのだが、帰りの道すがら同行した友人と話をするうち、実は自分はある種の精神病を患っていて、「非人称芸術」はその精神病のあらわれであることが判明したのだった。
その精神病とは「芸術とそうでないものの区別が付かない病気」なのだが、現代美術の実物を見た直後だとその症状は事に悪化する。

いや、普通の意味ではぼくは精神病ではないのだが、精神分析の世界では「現代人は誰でも精神病患者である」という事になっている。
だとしたら、自分というものを考える上で「どんな精神病を患っているか」を考えるのは有効な手段なはずである。

「現代人は誰でも精神病患者である」と言うことを、ぼくは「遺伝的プログラム論」と合わせて理解している。
まず、人間の「身体形成プログラム」は他の生物と同じように、ほぼ一律に決まっており、人間として受精した個体はプログラム通りに「人間固有の身体」を形成し成長する。
これに対し、人間の「行動プログラム」は他の生物とは異なり一律に決まっていない。
例えばモンシロチョウやオオカミは、それぞれ遺伝的に決められた「行動プログラム」に従って行動する。
もちろん人間にも遺伝的に決められた「行動プログラム」は具わっているが、しかし人間は「言語」というツールを使って自前で「行動プログラム」を形成するようにし向けられているのだ。
つまり人間の「行動プログラム=精神のあり方」には生物学的な「正常」が存在せず、全てが異常であるとも言えるのだ。
いや、正常とは数の論理であって、大多数の人間が同じ精神病(行動プログラム)を煩っていれば、それが「正常」とみなされる。
しかし現代は価値観が多様化し、精神のあり方(行動プログラム)も多様化し、だから「誰でも精神病患者である」が成り立つのである。

そう考えると、ぼくは「芸術とそうでないものの区別が付かない病気」を患っていることに気づくのだった。
いや、実のところそんなことは周知のことだったのだが、今回はあらためて他の人が「芸術とそうでないものの区別をハッキリ付けている」事に気づいて驚いてしまったのだ。

ぼくとしては、コーネルの作品を見た後は、街中の寂れたショーウィンドーも芸術に見えてしまうし、ステラの金属作品を見た後は、街中にあふれる金属のオブジェ(例えば地下鉄の車内とか)が全部芸術に見えて圧倒されてしまう。
つまり以前にブログに書いた「イメージの連鎖」なのだが、これによって美術館を超えて街全体が「豊かな世界」として再創造され、その視点こそが「非人称芸術」なのである。

ところが同行した友人に話を聞いてみると、美術館から一歩外に出れば「芸術」はもう終わりなのである。
帰りの路上はまさに通り道でしかなく、ときおり「雰囲気の良さそうな飲み屋」を見つけては喜んでいたが、それ以外には価値のない、少なくとも「芸術」の価値はまったく貧相な殺伐とした世界に生きている(ように思える)。
しかしそれはぼくの思いこみでしかなく、本人はぼくの知らない豊かな世界に生きているわけで、ぼくの方が特殊な精神病を患っているのだ。

そもそも、「芸術でないものが芸術に見える」という感覚は、スーザン・ソンダクの『写真論』によると、「写真」によってもたらされているのである。
写真に撮影されると、日常にありふれたどんなものでも「均質なオブジェ」となり、マグリットが描くようなシュルレアリスム的な世界へと変貌する。
今ぼくは『現代写真論 コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ』を読んでいるが、そこでしょうかいされた現代のデッドパン(無表情)写真は、写真の持つシュルレアリスム的特質と受け継いでいると言えるだろう。

しかし、「写真」の立場からは写された「写真」に価値があるのであって、写される以前の「世界そのもの」に芸術的価値が認められているわけではない。
芸術以外の「世界そのもの」に芸術の価値を認めてしまえば、もはや「写真」は不要だし、だから「写真」の立場からそれは絶対に認めることはできない。
このことは、先日のアップフィールドギャラリーでのトークショーでも話題に出たのだが、ある写真家は「風景とは写真に撮られて存在するのであり、撮られる以前に風景は存在しない」と語っていた。
つまり、撮られる以前の「世界そのもの」には「鑑賞に値する風景」なるものは存在せず、ここでも「芸術とそうでないもの」は画然とされている。

このような感覚は、常識的には当たり前なのだろうが、ぼくにはどうもよく分からない。
「写真」によって「世界そのもの」が芸術であることが示されたのなら、「写真」の役目はもう終わりで、後は「世界そのもの」を鑑賞すればいい、とごく自然に思ってしまうのだ。
同じようにコーネルにしろステラにしろ、ぼくにとってあらゆる芸術は「世界そのもの」が芸術的であることを示しており、だから「芸術」よりも「世界そのもの」を鑑賞してしまいたくなってしまうのだ。ぼくが美術展や写真展にあまり行かないのもそれが理由で、行ったらそれなりに楽しいしためになるけれど、その展示場にたどり着くまでの「世界そのもの」の芸術性に圧倒してしまい、目的地に行くのが面倒になってしまうのだ。

これは常識で考えると、まったく価値体系が倒錯した「精神病」の世界である。
もちろんぼくは、通常は「芸術とそうでないものの区別」はちゃんと付けて生活してるので「正常」なのだが、しかし芸術として考えるとその区別は無意味だと本気で信じているから、やっぱり「精神病」なのである。
いや、精神分析からの見解では、現代は誰が精神病患者なのか判然としないのだが、それを踏まえた上で自分と他者の「距離」を量ることは有効なのだと、あらためて思った次第である。

ある意味、現代美術とは、自己と他者の距離そのものであって、折に触れて計測すべきものなのだと言える。
その「距離」とは、精神的な正常と異常との「距離」であり、つまり現代美術とは常に「新たな精神病」を創造し続けてきた、と言えるのだ。

例えば、ルネッサンスに始まる写真そっくりの絵画を「正常」だとすれば、印象派などは精神病患者の絵画である(実際、当時それに類する批判を浴びた)。
さらに印象派に輪を掛けたロスコなどの抽象絵画や、ステラなどの立体が「芸術」に思えるなんて、さらに精神に異常をきたしているようにしか思えない。
このように現代美術の歴史とは「こんなものまで芸術に見えてしまう」という新たな精神病の創造の歴史でもあるのだ。
そう考えるとぼくが提唱する「非人称芸術」は正攻法とも言えるのだが、それだけに他者との「距離」の確認は必要なのだ。

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2010年7月10日 (土)

現実を超現実に転化する

前回の記事から、ソンダクの『写真論』と「非人称芸術」との関係の続き。

ぼくは自分が提唱する「非人称芸術」を、シュルレアリスムの延長上にあると捉えている。
まず、前回も挙げたマグリットの絵を見ていただこう。



『個人的価値観』と題されたこの絵は、部屋の中の小物(櫛、マッチ棒、コップ、シェービングブラシ、石けん)が、不自然に大きく描かれている。
それが壁紙に描かれた青空に白い雲と相まって、何とも不思議な雰囲気を醸し出している。

ここに描かれた小物たちは、形をそのままに拡大されることでその用途を失っている。
ベッドより大きな櫛は櫛として用をなさなず、同じスケールのマッチ棒やコップもまたしかりである。
つまりこの絵には、「イメージ」とそれを指し示す「言葉(意味)」のズレが描かれおり、それこそが「超現実」の世界なのである。
このことは、「室内」を意味する壁紙に「屋外」のイメージが描かれている点にもあらわれている。

シュルレアリスムはフロイトが提唱する「無意識」の作用を利用した芸術の方法論だが、平たく言えば、無意識の世界ではイメージとそれが指し示す言葉は分離している。
だから夢の中では辻褄の合わない不思議な出来事が連続するのだが、それを意識の世界に定着すると、マグリットのようなシュルレアリスム芸術になる。
マグリットによって描かれた巨大な櫛やコップたちは、見慣れたイメージであるにもかかわらず、意味不明の芸術的オブジェとして再発見されるのだ。

無意識に対する「意識」の世界では、イメージとそれを指し示す言葉(意味)は一定の法則(辻褄や文脈)によって結びついており、それが夢に対する「現実」の世界である。
そのように意識が覚醒した現実世界の中に、無意識の作用による「超現実」を描き出すことは容易ではなく、だからシュルレアリスムには芸術としての希少性があると言えるのだ。
そして、ぼくは学生時代はマグリットやエルンストなどシュルレアリスムが大好きだったのだが、自分自身にシュルレアリストとしての特殊な才能がないのが分かってしまい、芸術への道を断念してしまったのだ。

ところが、大学卒業後いろいろあって、しばらくしてふと気がついたのだが、例えばマグリットの描いた巨大な櫛が芸術的オブジェなら、そのままの大きさの「実物の櫛」も芸術的オブジェとして再発見できるのだ。
意識の世界ではイメージと言葉(意味)は一定の法則によって結びついているが、そのカラクリさえ分かってしまえば、それを意図的に分離することができる。
つまり、イメージに結びつく言葉(意味)を、意図的に忘却=捨象してしまえばいいのだ。
例えば手に取った櫛の「櫛である」と意味を捨象すれば、自分の手には「無意味なオブジェ」だけが残り、それは自動的にシュルレアリスムという言葉(意味)と結びつく。

この感覚を周囲の世界に広げていけば、現実のあらゆる「意味あるもの」の「意味」を捨象することによって、現実世界そのものを「意味不明なオブジェ」で埋め尽くされた超現実へと転化できる。
いや、現実の全てとなるとキリがないので、さしあたって対象を都市空間である「路上」に絞ることにした。
と言うことで、ぼくは「路上」を歩きながら、あらゆるものの意味を指し示す言葉を捨象し、それらをシュルレアリスムの視点で「鑑賞」するようになったのだ。

と言うことで、またしても続きます。

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大阪では「写真」が撮れない

7月5日は急遽大阪に行って、福島区のイベント会社の事務所で「京阪ミュージアムトレイン」のための「復元フォトモ」を徹夜で制作し、翌6日朝に寝屋川市の京阪車庫に納品に行き、そのまま寝屋川市内を散策することにした。
とりあえずお腹がすいたので、寝屋川市駅まで歩くことにしたのだが、けっこう距離がある上に適当に歩いたら迷ってずいぶん行き過ぎてしまった。
それで、駅前でお好み焼きを食べて、どうしようかと考えたのだけど、もう一度車庫の近くまで戻って、隣の萱島駅まで歩くことにした。
別になりがあるわけでもないのだが、寝屋川市に来たんだからというわけで、マジックで塗りつぶすようにまんべんなく歩きたくなったのだ。

で、その道すがら当然のごとく「写真」を撮ろうと思ったのだが、すぐに「これは無理だ」とやめてしまった。
と言うのも、やはり大阪圏は何もかも良すぎて、「写真」を撮ってる場合じゃないのだ。
「写真」を撮る場合、それなりに神経を集中してファインダーを覗き、構図を微調整するのだが、そんなことをしたらせっかくの大阪の「路上」が堪能できなくなってしまう。
やはりカメラじゃなくて自分の目で見て、歩くたびに変わりゆく「立体造形」をナマで堪能するという、「非人称芸術」の本気モードに切り替えるしかない。
それでもいちおう無駄と分かっていながら、ときおり適当にシャッターを押すのだが・・・

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GXRのEVFを覗くのはつらいので、GRD3で適当に撮ったのだが、東京圏じゃ見かけないようなカッコイイ家・・・
しかし、この家だけが特にカッコイイとか優れているわけではなく、目に入るもののすべてがスゴイのだけど、いちおう写真に撮れるのはこれでした、と言うことで困ってしまう。

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これも東京じゃあまり見かけない、蛍光灯のゴミ箱・・・

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・・・まさに天然のシュルレアリスムで、こんなのを見るとマジメに「写真」なんか撮れなくなってしまう。
と言うことで、あきらめて「2コマ写真」をぼちぼち撮ったりするしかないのだ。

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おもちゃの隣はどこでしょう?

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おもちゃの隣にありました・・・

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耳なし芳一ダンボ。

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耳穴の奥まで書かれてる・・・

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よくわからないけど、閉鎖的な極楽みたいなところ。
ツギラマにしようと思って撮り始めたけど、疲れてるし、雨が降ってきたし、途中でやめ。
このあとお好み焼きを食べてたら再び雨が上がり・・・

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漠然と「ものすごく良い場所」を撮っても何も写らず・・・

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最後にこれを見つけて息をのんでしまったのだが・・・

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さらに驚愕することに・・・

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間違いなくここは日本ではなく、現実でもなく、超現実の国である。
もちろん、これらの「実物」は写真よりももっとスゴイし、このように写真に撮れる以外の街のあらゆるもの全てがスゴ過ぎて、何というか光り輝いて見えて感動してしまう。

今回は期せずして急遽大阪を訪れることになったのだが、やはりこの街は他の地方都市とは違う気がする。
先月は鹿児島に続いて実家の長野、その後静岡を訪れたが、いずれの都市も街並みは東京圏とあまり変わらない気がする。
しかしやはり大阪は、どうも他の都市とは違って独特で、いろいろなもののバランスが異なってるというか、同じ日本でもちょっと違う雰囲気がするのだ。

と言うことで、いつになくだらだらと写真を並べてしまったのだけど、そこにはほとんど何も写っていないに等しく、やはり「写真」は無力であって「非人称芸術」は実在することが確認されたわけだが、そう言う視点こそが「写真」によってもたらされたのだ、と言うのが最近ソンダクに学んだぼくの見解なのである。

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