写真の縁側
「縁側」はヒラメやツギラマだけではなく、ご覧のように「写真」にも存在する。
これは35mmフィルムをデジカメで複写したものだが、通常はこの「縁側」部分をカットした部分のみプリントする。
この意味で、デジカメで撮影した写真には「縁側」が存在しない。
ところが・・・
最近のオリンパスE-PL2などのデジカメには「アートフレーム効果」と称して、デジタル写真にフィルム写真のような「縁側」を付加するモードが搭載されてたりする。
フィルムの縁側を少し残してプリントすると、アートっぽいカッコイイ写真になり、その効果をデジタルでシミュレーションしているのだ。
しかしこのように「縁側」を残そうともカットしようとも、「写真」をアートとして考える限りこの「縁側」は避けて通れない問題なのである。
つまり「額装」の問題なのだが、「写真」をアートとして流通させるには額装しなければならず、つまり「縁側」を付加することになるのだ。
この「反ー反写真」の額装は彦坂尚嘉さんに丸投げでお願いしてみたのだが、「馬子にも衣装」という感じで驚いてしまった。
料理に置き換えて考えると、フランス料理でヒラメの縁側をカットしたとしても、キレイなお皿にキチンと盛りつけることで「縁側」を付加させる。
「縁側」がキチンとしてこそ成立するのが「高尚な文化」としての料理であり、写真を含めたアートもまた同じだと言える。
ただしぼくはこれまで「縁側」の問題をなおざりにし過ぎていて、その点は反省しなければならない。
ぼくはこれまで、美術館などで「自然のままの縁側」が付いたツギラマを「むき身」で展示することが多かったのだが、これは「新鮮な食材をナマのまま提供する」という感覚に近いかも知れない。
しかしナマの食材はいかに新鮮であっても扱いに困ってしまう。
実際、金沢21世紀美術館で展示したツギラマの大型作品は、展示後に撤去してしまったのである。
これに限らず、ぼくのツギラマは美術館で展示する「見世物アート」として機能しているが、「タブロー」としてアートマーケットには流通していないのである。
いや、本当のことを言えば、「非人称芸術」の概念に忠実に従う限り、アートを食物に例えるとそれは調理の必要すらなく、木の実や獣など自然物を狩ったその場で齧り付くのがいちばん美味いし、「食の本質」により近づけるのである。
もちろん、例えではなく実際の食物でそれを実行することはできないが、アートに置き換えて実行するとそれは「非人称芸術」になる。
路上のさまざまなオブジェクトを絵に描いたり写真に撮ったりせずに、それを生で見ながら「非人称芸術」として鑑賞しながら歩き回る。
この場合、本質的にはフォトモやツギラマなどを含めた写真を撮る必要は全くないのだが、「副産物」としてそのような写真を撮ることも可能だろう。
そして「副産物」として得られた写真を展示する際は、もとの「非人称芸術」の鮮度がなるべく損なわれないように「むき身」のままの方が良いだろうと、そのように判断していたのだった。
しかしあらためて考えると、そのような展示のあり方は「方法論のひとつ」としてはアリなのだろうが、やはり「多数ある方法論のひとつ」でしかなく、それはあらゆる可能性の中から選択されるべきでなのである。
ぼくは「非人称芸術」という単一のコンセプトに縛られすぎて、他の可能性をスポイルしてきたのだった。
もしくはさまざまな可能性を含めて考えてこそ、「非人称芸術」のコンセプトがより深まるはずである(それが否定される可能性も含め)。
そもそも矛盾しているのは、自分は「非人称芸術」によって「作品製作」を本質的には否定していながら、結局は「作品製作」を食い扶持にしていることである。
しかしだからといって「非人称芸術」と「作品製作」のどちらかを止めてしまう必要もないだろう。
「反ー反写真」について書いたように、自分の中で複数の矛盾する要素を共存させることは可能なのだ。
だからこそ「作品製作」についてあらためて考え直し反省する必要がある。
それがつまり「縁側」の問題なのである(笑)。
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