ツギラマ

2011年3月 6日 (日)

写真の縁側

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「縁側」はヒラメやツギラマだけではなく、ご覧のように「写真」にも存在する。
これは35mmフィルムをデジカメで複写したものだが、通常はこの「縁側」部分をカットした部分のみプリントする。
この意味で、デジカメで撮影した写真には「縁側」が存在しない。
ところが・・・

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最近のオリンパスE-PL2などのデジカメには「アートフレーム効果」と称して、デジタル写真にフィルム写真のような「縁側」を付加するモードが搭載されてたりする。
フィルムの縁側を少し残してプリントすると、アートっぽいカッコイイ写真になり、その効果をデジタルでシミュレーションしているのだ。

しかしこのように「縁側」を残そうともカットしようとも、「写真」をアートとして考える限りこの「縁側」は避けて通れない問題なのである。

つまり「額装」の問題なのだが、「写真」をアートとして流通させるには額装しなければならず、つまり「縁側」を付加することになるのだ。
この「反ー反写真」の額装は彦坂尚嘉さんに丸投げでお願いしてみたのだが、「馬子にも衣装」という感じで驚いてしまった。
料理に置き換えて考えると、フランス料理でヒラメの縁側をカットしたとしても、キレイなお皿にキチンと盛りつけることで「縁側」を付加させる。
「縁側」がキチンとしてこそ成立するのが「高尚な文化」としての料理であり、写真を含めたアートもまた同じだと言える。
ただしぼくはこれまで「縁側」の問題をなおざりにし過ぎていて、その点は反省しなければならない。

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ぼくはこれまで、美術館などで「自然のままの縁側」が付いたツギラマを「むき身」で展示することが多かったのだが、これは「新鮮な食材をナマのまま提供する」という感覚に近いかも知れない。
しかしナマの食材はいかに新鮮であっても扱いに困ってしまう。
実際、金沢21世紀美術館で展示したツギラマの大型作品は、展示後に撤去してしまったのである。
これに限らず、ぼくのツギラマは美術館で展示する「見世物アート」として機能しているが、「タブロー」としてアートマーケットには流通していないのである。

いや、本当のことを言えば、「非人称芸術」の概念に忠実に従う限り、アートを食物に例えるとそれは調理の必要すらなく、木の実や獣など自然物を狩ったその場で齧り付くのがいちばん美味いし、「食の本質」により近づけるのである。
もちろん、例えではなく実際の食物でそれを実行することはできないが、アートに置き換えて実行するとそれは「非人称芸術」になる。
路上のさまざまなオブジェクトを絵に描いたり写真に撮ったりせずに、それを生で見ながら「非人称芸術」として鑑賞しながら歩き回る。
この場合、本質的にはフォトモやツギラマなどを含めた写真を撮る必要は全くないのだが、「副産物」としてそのような写真を撮ることも可能だろう。
そして「副産物」として得られた写真を展示する際は、もとの「非人称芸術」の鮮度がなるべく損なわれないように「むき身」のままの方が良いだろうと、そのように判断していたのだった。

しかしあらためて考えると、そのような展示のあり方は「方法論のひとつ」としてはアリなのだろうが、やはり「多数ある方法論のひとつ」でしかなく、それはあらゆる可能性の中から選択されるべきでなのである。
ぼくは「非人称芸術」という単一のコンセプトに縛られすぎて、他の可能性をスポイルしてきたのだった。
もしくはさまざまな可能性を含めて考えてこそ、「非人称芸術」のコンセプトがより深まるはずである(それが否定される可能性も含め)。

そもそも矛盾しているのは、自分は「非人称芸術」によって「作品製作」を本質的には否定していながら、結局は「作品製作」を食い扶持にしていることである。
しかしだからといって「非人称芸術」と「作品製作」のどちらかを止めてしまう必要もないだろう。
「反ー反写真」について書いたように、自分の中で複数の矛盾する要素を共存させることは可能なのだ。
だからこそ「作品製作」についてあらためて考え直し反省する必要がある。
それがつまり「縁側」の問題なのである(笑)。

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ツギラマの縁側

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前回の記事「ツギラマは四角くなくなくていい」の続きだが、いただいたコメントを元に、ツギラマの矩形からはみ出す部位を「ツギラマの縁側」と名付けることにしたw

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と言うわけで、今回もツギラマの縁側についての研究を続けてみるのだが、まずは元のツギラマ。

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こちらは縁側を切り落としたツギラマ。
ちなみに上のツギラマの縁側をそのまま切り落とすと画面が小さくなってしまうので、空や地面の縁側部分を補完したうえでカットしている。

実は、このツギラマについて「縁側をカットした方が良い」とアドバイスをくれたのは彦坂尚嘉さんで(その時はまだこの用語はなかったがw)、さらに「縁側を残したツギラマの外形は、言わば成り行きでできた形であり、それゆえに必然性に乏しく美しくないし、だから四角くカットした方が断然良くなる」と理由も述べていただいた。

だがぼくとしては「自分の才能の足りないところは自然に身を任せて補う」という方法論を採用しており、だからツギラマの「成り行き的外形」にも意味があり、何より縁側もツギラマの重要な要素だと考えていた。
だから彦坂さんのアドバイスは一理あると思うものの、全面的に納得しかねていたのだった。

しかし前回の記事にも書いたように、最近は気分が変わってきている。
プラトンや儒教などの「古典」を読むようになったのも理由だし、自分で「反ー反写真」を撮るようになったのも理由なのだが、「伝統」というものを重視するようになってきた。

これまでのぼくは「自然」を重視し「伝統」を軽視してきたのだが、この態度を「反省」するようになったのだ。
勿論自然は偉大なのだが、だからといって人間の文化や歴史を軽視する理由はないわけで、ともに「偉大なもの」として崇拝すればよかったのだ。

と考えると「才能の足りないところは自然に身を任せて補う」の他に「才能の足りないところは伝統に身を任せて補う」という方法論も有効なのであり、適宜使い分ければいい。
ツギラマの縁側が自然のなりゆきで上手く造形できなければ、「四角」という伝統に任せてカットすればいいのだ。

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もう一点、こちらは縁側付きのツギラマ・・・

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縁側をカットしたツギラマ・・・

実は上のツギラマは全体の形に変化を付けるため、写真の並べ方をちょっと工夫している。
この路線をさらに突き詰めれば、ツギラマの縁側で「間」としての造形が可能になるのかも知れないが、この研究もまた続ける必要はあるだろう。

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2011年3月 5日 (土)

ツギラマは四角くなくなくてもいい?

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写真は四角くなくてもいい!
と思って撮ったツギラマだが・・・

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やっぱ四角くなくなくてもいいかも?と思い四角くしてみた・・・・

最近、ぼくは中国やギリシアの古典をいろいろ読んでいて、文明の「基本」と言うことに興味がある。
そのような「基本」を重んじる感覚で考えると、「四角」とは芸術の基本である以前に文明の基本なのであって、簡単に否定していいものだろうか?ということにあらためて気づくのだ。

加工したツギラマは文明の基本に沿って「四角」を受け入れてはいるが、しかし相変わらず「一点透視法」は否定している。
ツギラマに一点透視法まで取り入れてしまったら、それは単なる「写真」になってしまうからだ。
それに基本と歴史を重んずる感覚で考えてみても、「一点透視法」も絵画の基本のひとつではあるが、「四角」に比べると格段に歴史が浅くそれだけに重要度は低いと言えるのだ。
その証拠に印象派以降「一点透視法」を捨てた絵画はいくらでもあるが、しかし平面でありながら「四角」を捨てた絵画というのはほとんど無いのである。
ぼくはそのように「四角を重んじる風潮」に反発するために、「四角」を否定したツギラマの技法を採用した。
しかしその態度は、オルテガが指摘する「反何々」のパターンにはまっていて、結局のところ「四角とは何か?」をよく知らないまま「四角」というものを否定しているに過ぎないのだ。

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2011年3月 2日 (水)

静岡市美術館「フォトモワークショップ」最終報告

遅ればせながら、2月20日に終了した静岡市美術館で開催のフォトモワークショップの報告です。
生徒作品は現在静岡市美術館の無料スペースで展示中です。
詳細は美術館のブログ記事をご覧ください。

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さて、最後の追い込みの作業風景ですが・・・

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由比駅前のフォトモですが、次の日ぼくも由比駅に行ったら全く同じ風景があって驚きました、あたりまえですが・・・w

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野心的な夜景フォトモ・・・

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作品ができあがって、これから講評会するところです。
展示は静岡市美術ロビーの「多目的室」にて、4月中旬頃まで行われるそうです。

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眼を近づけるとこんな風に見えたり・・・

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こんな風に見えたりします。

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この漁船、なんと開くと飛び出すポップアップ形式のフォトモです!
いや、機構はぼくが考えたのですがw・・・生徒さんが撮影した素材のツギラマは「ツギメーション」としてこちらのブログにあります。

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会場には、ワークショップ初日に制作した「ツギラマ」も展示してます。
大作揃いで見応えがあります。

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最後、打ち上げの飲み会で、漫画家の逆柱いみりさんにサインをいただきました。
唐突になぜ・・・というと、実はご夫婦でワークショップに参加していただいたのですw

ということで今回は、ぼくとしては初めての試みとして、計5回延べ10日の日程のワークショップを行いましたが、時間を掛けただけあって非常に素晴らしい作品ができました。
生徒さんには単なるぼくの技術的トレースだけではなく、それそれ独自に工夫して作品作りを楽しんでいただけたように思います。
それだけに、ぼくの方もいろいろな発見や刺激があり、非常に有意義でした。
参加者のみなさん、美術館のスタッフのみなさんにあらためてお礼申し上げます。

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2010年6月13日 (日)

「趣味的判断」を超越する

デュシャンは「レディ・メイド」の選択から自分の趣味的判断を排除している。
それだけでなく、芸術の良し悪しについての「趣味的判断」をたびたび非難している。
ところが、自分は「非人称芸術」をもっぱら自分の「趣味判断」で鑑賞してきた。
もしデュシャンに従うなら、「非人称芸術」の鑑賞においても自分の「趣味的判断」を排除しなければならないし、そうなれば「非人称芸術」の可能性はもっと広がるかも知れない。
しかし、ぼくの中では鑑賞と趣味は不可分に結びついていて、それを分離することの意味や方法論が今ひとつ分からない。
それでいろいろ試してみたのだが、ひとつは「復元フォトモ」で、これは素材が「他人の写真」なので、その意味では自分の趣味判断を排除できている。
また、フォトモワークショップの生徒作品も、これは「他人の作品」だから、そのうちにぼくの趣味判断は含まれない。
もう一つの試みは、昨年のユカコンテンポラリーで展示したツギラマの新作だが、これはモチーフの選択をギャラリーオーナーに依頼する形で、自分の趣味判断を排除してみたのだ。

それぞれの方法は、それなりにうまくはいったと言えるのだが、しかし今ひとつ釈然としないというか、少なくとも「趣味的判断を排除する」と言うことの意味をどうもつかみかねている感じがするのだ。

ところが『彦坂尚嘉のエクリチュール』を読んでいてあっ、と思ったのだが、そこには芸術の鑑賞には芸術の趣味を広げる必要がある、と言うように書いてある。
彦坂さんは、芸術鑑賞を「味覚」と結びつけて考えておられるのだが、その点はぼくも同じだったので、説明としては非常に分かりやすいし納得できる。
つまり、いわゆるグルメの人というのは好き嫌いが無くて、味覚に関しての趣味の範囲が広いのだ。
これに対して食にこだわりのない人は、いつも同じものばかり食べていたりして、味覚に関しての趣味の範囲が狭い。
その意味で言えば、ぼくは食に関しては趣味は結構広いと言えるかも知れず、特に好き嫌いもなく、まだ大好物というものも特になく「美味しいものだったら何でも好き」だったりする。
また例えまずい料理でも、「まずいなりの味」というものがあって、場合によってはそういう味を楽しんだりもする。

それを考えると、ぼくの「芸術の趣味」は味覚の趣味ほど広くはないことに思い当たるのだ。
ぼくは芸術に関しては好き嫌いが激しく「好きな芸術」より「嫌いな芸術」や「分からない芸術」の方がむしろ多いと言えるかも知れない。
そして嫌いな芸術を嫌いなりに楽しんだり、分からない芸術を分からないなりに楽しんだりと言うこともしない。
芸術に関しては「嫌い」「分からない」でシャットダウンしてしまうのだ。
これに対し味覚については、「嫌い」な味覚があれば「なぜこれが嫌いなのか?」を考え、「他の人が好きだったら自分も好きになれるかも?」とその可能性を探ったりするはずだと思う。
「分からない味」については、ほんらい人間の食べ物ではない木の実などの味を確認する「味覚ネイチャー」などの前衛的試みまで行っている。

これを「非人称芸術」に当てはめると、恐らくぼくは「自分が嫌いな非人称芸術」や「理解できない非人称芸術」を排除してしまって、その存在にすら気づかないままでいるのかも知れない。
ぼくが自分の狭い趣味判断の領域に囚われているのだとすれば、その状態はまさに行き詰まりと言えるだろう。
これを打開するには、味覚のように芸術の趣味の領域を広げるしかない。
趣味を広げていけば、やがて「趣味」というものは無くなってしまう。
味覚の趣味が広がれば、特定の趣味を超えて「美味しいものだったら何でも好き」になるし、「まずいものもそれなりに味わえる」ようになる。
デュシャンは「悪い感情もまた感情であるように、悪い芸術もまた芸術なのです」というように書いていたが、「まずい料理もまた料理」であるわけで、つまりそれは趣味の拡大による無効化と解釈できるのだ。

実は、ぼくはこのような「趣味の拡大」の試みをあまり自覚せずにすでに実行していて、ブログ4の「写真」がまさにそれなのだ。

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2010年6月 4日 (金)

「写真」とツギラマ

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今日から水道橋のアップフィールドギャラリーでの企画展「ながめる まなざす」DIVISION-2で、ぼくの「写真」の師匠(と勝手に思ってる)山方伸さんの展示が始まる。http://d.hatena.ne.jp/blepharisma/20100604
ぼくはこれまで「写真」の良し悪しについて全く分からなかったのだけど、自分で「写真」を撮るようになって見方がガラリと変わってるかも知れず、その意味では非常に楽しみだ。
ちなみに「ツギラマ」については師事するような先人がいないので、いつも五里霧中なのだが、「写真」についてはそういう「独りよがり」はやめてみようと思うのだ。

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2010年6月 1日 (火)

二つの意味で「反写真」

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数日前鹿児島で撮影したツギラマをつないでみたのだが、(とは言えフォトショップでの加工だが)、これも写真と言えば写真なのだが、いわゆる「写真」の作法に反しているから「反写真」と言えるかも知れない。
しかし、ぼくが言う「反写真」はこのような技術面の他にもう一つ意味があって、それが「撮らない」と言うことだ。

そもそも「非人称芸術」とは鑑賞すべき対象であって、撮る対象ではない。
これは、芸術作品が鑑賞の対象であって、(特殊な場合を除いて)撮影対象にならないのと同じ事である。
しかし、路上に存在する「非人称芸術」には原理的に著作権などないし、撮影禁止にもなってない場合がほとんどである。
だから写真に撮ることもあるのだが、しかしそれはあくまで「記録写真」であって、本質的には「写真作品」とは異なっている。
例えばこのツギラマにしても、肝心なのは写真の向こう側の「非人称芸術」そのものであり、写真はその不完全な記録にしか過ぎない。

「非人称芸術」を目の前にして、記録写真ばかり撮って鑑賞がおろそかになってしまっては、本末転倒である。
実際、「非人称芸術」の鑑賞そのものに没入すると、写真など撮る気が失せてしまう。
無理に撮影しようとカメラを構えると、それだけで「鑑賞の空気」が乱れてしまい、イヤな気分になる。
だから「非人称芸術」に対し真剣モードの時は、写真は一切撮らず、客観的にはただ歩いているだけで何もしていないのと同じ事になる。
しかし、現代社会を生きる上では(見かけ上)何もしないと言うわけにもいかず、だから時々ツギラマやフォトモを撮って「芸術家のフリ」をしてるのだ。
つまりツギラマやフォトモは技法の面でも「反写真」なのだが、それに加えて撮影時に「撮らない」ことを常に意識しており、その意味でも「反写真」なのである。

しかし最近の自分は「反-反写真」のコンセプトを掲げて、いわゆる「写真」を撮る実験をしている。
この場合、「非人称芸術」の視点との衝突を避けるため、撮影場所はもっぱら近所をはじめとする、よく知っている場所に限っている。
よく知っている場所であれば、「非人称芸術」としての発見も(いちおうは)ないわけで、心おきなく別の実験ができるのだ。

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2010年3月 4日 (木)

新潟でのツギラマ追加撮影

昨日は新潟市美術館の依頼で、新潟市内の万代橋で以下のようなツギラマを撮影した。
これは昔のパノラマ写真との比較として、大伸ばしして展示に加えられる予定である。
リコーGXR A10ユニットの70mm相当での撮影。
このほかに、オリンパスプロサロンからE-P2と50-200mmをお借りして、超望遠400mm相当で大幅に枚数を増やしたツギラマも撮影したのだが、こちらは1/3程度がピンぼけで大ショック!
ピピッとピントのあった音はするのだが、実際にはピンぼけのことがあり・・・E-P2のコントラストAFは通常撮影でも若干遅めのようだが、アダプターを使っての超望遠の撮影には全く適さない。
EVFで露出が確認できるので、EP-2はツギラマに適してる・・・と思ったのだが、とんだ落とし穴だった。
まぁ、プロだったら自選に機材をテストすべきなのでこれば自分のミスなのだが、その辺が「プロ」とは若干職種が異なるアーティストのダメなところだ。
しかし、結果的にはいかに掲載したツギラマがシンプルでよかったので、結果オーライなのである。

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2010年1月13日 (水)

『discollage -ものの組み合わせには何かルールがありますか。』

自分が出品中のグループ展の紹介を忘れてました。

YUKA CONTEMPORARYで開催中の『discollage -ものの組み合わせには何かルールがありますか。』です。
シンポジウム:2010年1月23日(土)16:00〜18:00、というのも開催されます(最終日)

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それでぼくのフォトモなのですが、裏が黒いです。
高級感を持たせるため、銀塩ペーパーの裏に黒ケントを貼ってみたのですが、このために大幅に手間が掛かってしまいました。
切り抜きにハサミが使えないので、デザインカッターを使ったのですが、思った以上に大変でした。

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これが表ですが、江戸川区にある駄菓子屋さんです。
このフォトモのポイントは、まず被写体をぼくの「趣味」で選んでいない点です。
デュシャンがレディ・メイドの選択から「趣味」を完全に排除していると書いていたので、ぼくも方法論的にそれに倣ってみたのです。
ぼくの場合、いかに趣味を排除したかといえば、早い話このフォトモは「注文制作」なのです。
このフォトモはもとは、テレビの深夜番組「東京セレソンDX」の番組内で使われたもので、この駄菓子屋も監督に依頼されて撮影したのです。
被写体としての駄菓子屋はあまりにも「ベタ」でだからテレビ的なのですが、しかし「非人称芸術」の観点からは「すべてが非人称芸術の可能態」なのです。
ですから理由がどうであれ、このようにフォトモとして切り取られた場面は、結果的にはすばらしい非人称芸術として見いだされるわけです。
重要なのは、この駄菓子屋さんは何のウケ狙いもなく、昔と同じように淡々と営業を続けている点で、周囲の建物を含めすべてが自然で非人称的なのです。

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このフォトモはさっきのと同じようで何かが違う・・・実はこれは「第1バージョン」で、オープニングの際はこの作品が展示してありました。
実はこの作品は、テレビ用の小道具そのもので、監督の依頼によって駄菓子屋さんの周囲の街並が、実際と異なるものに差し替えられています。
ですのでこれは「ニセモノの風景」なのですが、フォトショップで巧妙に合成してあるので自分で見ても全くわかりませんw
実景を忠実に再現した「第2バージョン」もフォトショップが駆使されていて、駄菓子屋さんの店内などは超広角レンズで撮影した何枚もの写真を、変形して何枚も張り合わせたり、いろいろやってます。
こういうデジタル的な苦労は、うまく処理すればするほど苦労が表に現れず報われませんw

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ツギラマは横幅1.6mくらいあります。
撮影はデジタル一眼レフですが、つぎはぎ作業は手でやってます。
これをデジタル処理でやってしまうと「視点移動」のリアリティがなくなってしまうので、ツギラマとしての特徴がだいぶスポイルされてしまいます。
今回は写真の貼り方を「重ね貼り」ではなく「面一」にしてるので、ものすごい手間でした。
この被写体も、ぼく自身が選んでいないのがポイントで、ギャラリーのオーナーのゆかさんに選んでもらいました。
というか、ギャラリーの前の風景なのですが、左右で360度の視覚があります。
自分で選ぶと多分この桜並木は撮らなかったと思いますが、結果としては枝振りのフラクタル模様がなかなか見事です(この部分のつぎはぎが特に大変でしたが)。
まぁ、デュシャンの言う「趣味の排除」はおそらく意味がだいぶ違うのかもしれませんが、ぼく自身もこのところ「選択」の問題で悩んでいたのも確かなのです。

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ツギラマとフォトモはこんな風に展示され、奥に小林史子さんのインスタレーションのビデオが流れてます。

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右が彦坂敏明さんの作品で、左が阿部大介さんの作品。
今回の企画展は、ぼくが彦坂敏明さんに「何か一緒にできたら面白いかも?」と飲み会の席で何気なく言ったのが発端でした。
阿部大介さんはINAX銀座の個展を見てぼくが誘い、名古屋からわざわざ設置に来ていただきました(シンポジウムも参加されます)。
彦坂さんと阿部さんについては、『デジタル写真生活』の自分の連載で、写真に絡めた文脈で紹介していますので、そちらもぜひご覧ください。

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阿部さんの作品の右にあるのが八木貴史さんの作品で、彼はゆかさんが発掘した新人ですが、若いのに技術レベルはすごいものがあります。
ということで、はじめはどうなることかと思いましたが、なかなか面白い展示になったと思います。
ちなみにタイトルの「ものの組み合わせには何かルールがありますか。」はぼくが考えたのですが、この一説は小林史子さんの作品ファイルから抜粋したもので、つまりブリコラージュの手法を使ってみたのです。

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2009年12月 9日 (水)

RING CUBE ツギラマワークショップ(2日目)

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遅ればせながら、12月5日に行われたRING CUBEでのツギラマワークショップでの続き。
皆さんには宿題としてツギラマを撮影してきてもらったのだが、どれも大作ばかりで驚いてしまった。
ツギラマは枚数が多くなると、写真を張り合わせる順番を考えないと収拾が付かなくなってしまう。
その順番はセオリーがあるようで作品ごとに異なるので、教えるほうもかなり頭を使う。
作業は結局予定時間を大幅にオーバーしてしまったが、皆さんには充実して楽しんでいただけたようだ。
実際、どれもすばらしい作品に仕上がり、ぼく自身も大変に刺激になった。
また、生徒作品はRING CUBE内で展示することになったので、ぜひご覧いただければと思う。

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