思想・哲学・宗教

2014年4月21日 (月)

存在と証拠

現実が存在する証拠が不足し、現実を完全に取り逃がすと、人はそこで死ぬ。
目が見えなくなると、人はその分だけ現実が存在する証拠を失う。が、耳や鼻や手触りなどを使って別の証拠を集めることもできる。
寒いと感じることは、気温が下がったことの証拠であると同時に、自らの生命が脅かされている証拠でもある。
自分がこの作品を「好きだ」と思うことが、この作品が優れている証拠となり得るのか?
自分がこの店のラーメンを「美味い」と判断することが、この店のラーメンが本当に美味いことの証拠になり得るのか?
自分がこの温泉の湯を「熱い」と感じることが、この温泉の湯が本当に熱いことの証拠になり得るのか?
さまざまな自分の記憶が、世界が存在する証拠となる。人はあらゆる自分の記憶を証拠として、世界が存在すると信じる。
自分が毎日会社に行っているという記憶が、会社が存在する証拠となる。
この道の先に駅があるという記憶が、駅が存在する証拠となる。
吉野家で牛丼を食べた記憶が、吉野家の牛丼が存在する証拠となる。
人は何事も証拠だけで判断し、そのための証拠集めをしている。
経験的直感に逆らって諦観することが本質把握。
現象学の領域。
現実と思えるものは、様々な意味によって組み立てられている。それらの意味を解体すること。
目の前にあるものが、本当に存在すると、自然に信じる気持ちに依拠するのが自然主義。
自然主義者は疑うことを知らない素朴な人。
疑う心は邪悪な心、素朴な心はピュア心。
自然主義的に自己観察や反省をしても、現象学的には意味が無い。
「目の前にあるものが、本当に存在するわけでは無い」と知識として知っていることと、そのような見方を徹底することは異なる。
個体は本質では無いが、本質を持っている。
単独者は永久に限りが無い。

| | コメント (0)

自己保身と自己犠牲

「貧すれば鈍する」からこそ「痩せ我慢」が意味を持つ。

貧して鈍するのは「文明性」であり、貧すごとに人は「自然性」に還る。

自分の身を守るのが「自然性」だとすれば、その反対の「文明性」とは自分の身を呈することにある。


自己保身は生物に共通の自然性であり、自己犠牲は反自然的な文明性なのである。


生物にも自己犠牲的行動は見られるが、リチャード ドーキンスによればそれは遺伝子を守っているのである。

遺伝子を守るのが自然性なのだとすれば「遺伝子を外在化した言語による行動プログラム」を守るのが文明性だと言える。

例えば、我が子を戦地に送り、統治者としての誇りを守る王や貴族のように。


自己保身は身を滅ぼし、自己犠牲は身を助ける。

| | コメント (0)

2014年4月20日 (日)

鏡のアフォーダンス

<p><p><p>Untitled Page</p></p></p>

私は「物」を見ているのであり、写真には「物」が写っている。

「物」を見ることと、「写真に写る物」を見ることの違い。

「目に映る物」を見ることと、「写真に写る物」を見ることとの違い。

「目に映る物」を見ることと、「目に映る写真に写る物」を見ることとの違い。

「目に映る写真に写る物」を見ることと、「目に映る写真に写る写真に写る物」を見ることとの違い。

人間はミラーマンであり、その他の動物はミラーマンではない。

水を飲用としてのみならず、鏡として利用するのは人間だけ。

鏡のアフォーダンス。

人の身体は、人の身体のみで完結しておらず、身体外部に存在する「鏡」もまた、人間ならではの身体の一部なのである。

進化論的に、鏡は生物身体のどの部位に発生したか?一つは眼球の光量増幅のための反射鏡として存在する。

またある種の昆虫は、鏡を擬態として利用する。

また、イカやタコの身体構造が鏡だとすれば、これも擬態に利用される。

いや違うのだ。動物の目は本質的に鏡なのであり、外部にもう一枚の鏡を見出す人の目だけが「合わせ鏡」になっている。

鏡は本質的に合わせ鏡なのである。

本質認識は事実認識ではない。

事実を事実として見ない人は、事実が存在する証拠を隠蔽しているに過ぎない。

知覚するのではなく、知覚を知覚すること。

すなわち、見るのではなく、見ることを見ること。

そして、写真を撮るのではなく、写真を撮ることを撮ること。

見るだけの人と、見ることを見る人とがいるように、写真を撮る人と、写真を撮ることを撮る人とがいる。

絵描きにも、絵を描く人と、絵を描くことを描く人とがいる。

| | コメント (0)

2014年4月19日 (土)

犯人と証拠

世の中には、本当に偉い人と、偉そうにしてる人の二種類がいて、その区別はなかなか難しいのですが、本当に偉い人は偉そうにしている人を見分けるので、偉そうにしてる人は本当に偉い人を嫌うのです。
何事もためらうごとに反復するチャンスを失う。
世の中を渡ってゆく上で「性格の悪さ」は問題にならない。
素朴で自然的認識には魅力があり、そこから目を逸らすことは非常に困難。
現象を現象として捉える視点が本質諦観。
人間の視界は、光学的スクリーンと、心理的スクリーンの、二つのスクリーンが重なっている。
我々はいつでも「証拠」と「犯人」を取り違える。なぜなら、原理的に「犯人」を特定することは出来ない状況であるにもかかわらず、人はその原理に背き、いつでも「功を焦っている」からである。
素朴な人は功を焦って、証拠と犯人を取り違え、見てもいない現実を「見た」と言い張る。
つまり、デジカメの撮像素子には「ローパスフィルター」や「IRカットフィルター」が装着され、専門技術を修めた人はそれを分解し取り外すことが出来る。同じように、人の精神に備わった種々の認識フィルターを、専門技術を修めることにより分解し取り外すことが出来る。そのためにフッサールを読む!
実のところ多くの人は「人を見る目が無い」のであり、優れた人も、邪な人も、聖のオーラも、負のオーラも、見分けることが出来ない。従って、世の中を渡ってゆく上で性格の悪さは問題にならず、さらに言えばまともな人ほど無視される。
随伴的思念を少しも含んでいない純粋直覚(フッサール : 厳密な学としての哲学)
デジカメで写真を撮るのではなくデジカメを分解してその構造を解析するように、目で「見る」のではなく「現象」を解析する本質直覚。
人はそれぞれに適合した「歪んだ鏡」を求めているのであり、完全なる平面鏡は避けられる。
歪んだ人は、自らの歪みを矯正する「歪んだ鏡」を必要とし、歪みを映す「平面鏡」を忌み嫌う。
人気者は自ら進んで「歪んだ鏡」となり、多くの人はそれを選ぶ。
微妙な色と色、微妙な音と音を区別くるのは難しいが、色と音とを区別するのは簡単だという不思議…我々は騙されている??
色は音かも知れず、音は色かも知れず、なぜなら色のリズムや音色が存在する。
とは言え、人は光と音とを取り違えることは無い!
光と音の取り違えのない絶対的な相違が《本質》となる?
知覚、想像、回想、判断、感情、意志、並びにそれら一切の無数の特殊形態といったようなあの周知のタイトルに対応している自我。(フッサール : 厳密な学としての哲学)
知覚と、意志と、感情移入。
見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。見ることは物である。
物があってそれを見るのではなく、見ることによって物が生じるのでもなく、見ることがすなわち物なのである。
物があってそれを撮るのではなく、撮ることによって物が生じるのでもなく、撮ることがすなわち物なのである。

| | コメント (0)

2014年4月17日 (木)

構造と反復

<p><p><p>Untitled Page</p></p></p>

人は目覚めている間もずっと夢を見ていて、その夢から逃れることは出来ず、目覚めることはない。

即ち、人は夢の中で傷付けば現実に傷つき、夢の中で失敗すれば現実に失敗し、夢の中で死ねば現実に死ぬ。

夢の中にしか生きえない人にとって、夢でしかあり得ないものが現実でしかあり得ないものになる。

現象は現実とは異なるが、現象と現実は連関している。

似たことが繰り返されることが「関係」と言われる。

記憶が反復を支えている。

iPhoneのカメラアプリを立ち上げると、液晶に風景が映し出される、という「現象」が生じる。この現象は、人の認識として現れる「現象」と同一ではないが、共通する要素も持っている。

われわれは現実を見ているのではなく、現実が存在する「証拠」を見ている。現実は決して直接見ることは出来ず、間接的な証拠だけを見て、現実の存在を確信している。

反復の記憶が現実の存在の証拠となる。

移動が反復を生み出す。

もし、網膜に映る像が固定されてしまったならば、目は見えていても何も見えていないのと同じことになる。

人間は他人を見て、自分が存在する証拠を掴む。

自分の存在は他人が存在することの証拠となる。

構造とは反復であり、反復のないものに構造はない。

オリジナリティの高いものは内在する反復を持っている。

自分の絵を見ながら描く、自分の音楽を聞きながら演奏する、ということには反復が含まれ、見ないで描き、聞かないで演奏することの内に反復はない。

反復は生命の本質

反復が終わると生命も終わる

内在的反復と、外在的反復とがある。

人は見えない「現実」が存在する証拠を集めながら、その証拠の隠蔽工作を図る。

人は現実から目を背けるのではなく、その証拠の隠蔽工作を図る。

人は現実が存在する証拠を見つけてはそれを隠す。

| | コメント (0)

2014年4月15日 (火)

現象学の練習

Untitled Page

我ながら頭が石のように固くて呆れてしまう。

自分の頭の固さを意識すると、少しずつ頭が柔らかくなる…

現象学的な「構」を首尾一貫して純粋に守ること、

自然的な「構」のうちで生活し、考え、心理的なものを自然主義的に変造してゆくという、自然発生的な習慣を克服するのは、生易しいことではない。-フッサール

世界は存在しているのではなく反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復されている。

目の前のものは存在するのではなく繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返しり返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返しり返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返しり返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返されている。

我々はものを見ているのではなく何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も見ている。

人はものを見ているのではなく見たものを回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想回想している。

人は人生を生きるのではなく反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復する。

認識してるのではなく記憶が回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰回帰している。

認識ではなく感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入感情移入している。

フッサール読みながら現象学の練習してます。

言葉には明快な階級差があり、つまり哲学が難解なのも、そういうこと。

世界を存在としてではなく現象として語ること。

目の前に人が存在しているのではなく、目の前に人があたかも存在しているように現象している。

目の前の人は物理的な存在ではなく、心理的な現象。

カメラで写真を撮っただけでは写真にはならず、撮ったフィルムやデータを現像しなければ写真にはならない。このように、写真とは現象であり、人間もまた同じ。

現象は自然ではない。

現象は自然ではなく本質を持っている。

| | コメント (0)

2014年4月14日 (月)

文明と背理

Untitled Page

感情移入と認識。

時間の流れ。諦観と経験。

油断すると、文明人の精神はすぐに自然化し、文明人しての理に背く。

背理となる自然化を許さないこと。

自分の精神の自然性の発露とその動きを、事あるごとにチェックしモニターし続けること。

糸崎さんは頭が柔らかい、などとたまに言われるが実のところぼくは非常に固い人間で柔軟性が無い。

柔軟性が無いからこそ、他人の考えを理解したり取り入れたり受け入れたりできず、結果として自分のやり方に凝り固まった表現になり、他人から見て柔軟で独自性がある、と誤解されているに過ぎない。

アタマが固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!固い!

一見、柔軟な発想の元に生み出されたフォトモなどの自分の作品は、だからこそ実は逆説的に自分の頭の固さが如実に現れている。

まず自分の頭の固さを自覚しなければ、これを克服する道は開けない。

| | コメント (0)

2014年4月13日 (日)

回想と反復

現象は、常にさも現実であるかのように自動翻訳される。

人間の現象は歴史の産物でもある。
なぜなら、言語が歴史の産物であり、固有の歴史を持っているからである。

美術作品とは現象であり、しかも二重の現象である。
美術作品は第一に現象として製作され、第二に現象として認識される。

芸術とは現象であり、内部でこの現象が生じる人と、生じない人とが存在する。

現象は回想の回想であるところの再回想として体験される。

知覚現象は、それが生じた瞬間から過去へと流れ去り、再回想されることで現象として体験される。

何度も繰り返される同様の知覚現象が、知覚現象そのものを成立させる。

万能感は素朴で自然な感情で、その意味では誰にでもある。

万能感を克服するには、自分の万能感を注意深く観察する必要がある。

観察とは他人との比較で、他人を見て自らを反省する視点であり、反省により自分の万能感を対象化する第三者の視点が生じる。

「今起きたこと」を繰り返し思い出しながら「今起きていること」を繰り返し認識する。

知覚が反復され、回想が反復され、忘却が反復される。

人は常に同じものを繰り返し見て、繰り返し見るものを見るたびに繰り返し思い出し、一方で忘れたものを繰り返し忘れ闇の中に葬り去ろうとする。

反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復反復するものだけが現象として立ち現れる。

| | コメント (0)

2014年4月12日 (土)

現実と現象

現実と思えるものは、ことごとく夢幻(ゆめまぼろし)に過ぎない。
夢幻だからこそ、現実と思えるものには確かなリアリティが感じられる。
夢はリアルだからこそ夢であり、例えば泥棒して捕まれば刑務所に入れられる、というリアリティも、夢幻の中での出来事だからこそ、ありありとリアルな掟として感じられるのだ。

現実を見ているのでは無く、知覚世界に起きる現象を見ているのである。

現実そのものを見たり、現実そのものに触れたりすることはできない。
われわれは現実を見たり現実に触れたりしているつもりで、その実、現実に触発された現象を知覚しているに過ぎない。
夢が現実に触発された現象であるのと変わりはない。

夢も、現実と思えるものも、現実に触発され発生する現象であることに変わりはない。
現実は現象の原因であり、現象は現実そのものではあり得ず、現象は現実と必ず異なっている。

夢を見ているだけで済まされないのは、夢は現実の影響を受けるのであり、その意味で、たとえ夢の中にあっても現実の存在を無視しないわけにはいかないのである。

現象を現実と錯覚する態度が「素朴」と言われる。
文化が死滅し人は素朴に還る。

人は現実に対しリアリティを持つのでは無く、現実の触発により発生した現象に対しリアリティを持つ。

生命とは生命現象であり、現実とは生前と死後の世界なのである。
生きているうちは現象だけが見えて、死ねば現実に還る。

人生が夢幻なら、死ねば現実に目が開かれる。
ということは、赤ん坊は現実を見て泣き叫び、ほどなくして夢の世界へと堕ちて行く…?

知覚世界の全てが無根拠の夢幻ではない。
現象にはそれが触発されるところの原因があり、その根拠が現実なのである。
例えば、前方に見える木に向かって歩けばやがてぶつかり、その木が現実に存在することは確認できる。
だがその木は少なくともあ「目に見えるように」は存在しない。

| | コメント (0)

2014年4月11日 (金)

反省と機能

経験的分析と、現象学的本質分析。
経験的に得られた確信は砂上の楼閣に過ぎない。
経験は、何かを建てる土台としては砂漠に等しい。
多くの人は砂漠の上に自らの塔を建てる。
通俗の曖昧で全く混沌とした意味ー我々はそれをどうして得たか知らないがこれらの語が意識の《歴史》のうちですでに獲得している。
ーフッサール『厳密な学としての哲学』
ブリコラージュには機能はあっても反省が無い。
エンジニアリングは反省によって機能を実現させる。
素朴な区別は粗雑であり、通俗的区別もまた粗雑。
素朴な人は粗雑は物で間に合っていて、厳密な物を必要としない。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧