個展・グループ展

2012年5月25日 (金)

糸崎公朗写真展『反ー反写真』TAPギャラリー会場写真

遅ればせながらアップしますが、TAP Galleryにて2012/4/3〜4/15に開催された、糸崎公朗 写真展『反-反写真』の会場記録写真です。
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2010年8月14日 (土)

ホンモノの「写真」みたいな「反-反写真」

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遅ればせながら、8月9日に搬入した「フリーアート第一回展」の、ぼくの展示作品の様子。
我ながら、ホンモノの「写真」の展示みたいで笑ってしまったのだが、その意味でうまくいったようで安心した。

いや、展示の直前まではけっこう不安で、「ブログ4」の写真を見るとけっこうイケてると思うのだが、いざ展示作品としてセレクトし始めると「こんなのわざわざプリントして展示する価値があるのか?」と疑問に思えてしまったのだ。
実は自宅のプリンターが故障して、写真屋さんにA4サイズの銀塩プリントをお願いすることにしたのだが、その分お金がかかり敷居が上がったせいもあるだろう。
何より、ごくありふれた住宅街をふつうにスナップしただけの写真で、そこにどういう「芸術」の価値があるのか?冷静に考えると分からなくなってくる。

しかし、8月7日に小山登美夫ギャラリーで開催された、福居伸宏さんの個展「アステリズム」を見に行ったら、ごくありふれた街並みの夜景写真がずらりと並んでいて、「ぼくも普通の街並み写真で良かったんだ」と安心してしまった。
さらに同じビルのタカイシイギャラリーで開催してた畠山直哉さんの「線をなぞる/山手通り」を見たらこちらも普通の街並み写真で、まったくもって安心してしまった。

そもそも、多くの日本人写真家は「普通の街並み写真」を撮っており、だからそれに「右へ倣え」で同じような写真を撮る、と言うのが「反ー反写真」のコンセプトなのである。
しかし、そういうことを自分はやり慣れておらず、油断するとついコンセプトを見失って不安になってしまうのだ。
だから気を取り直して、ともかく「右に倣え」の精神を信じて準備を続行し、何とかそれらしい展示に仕上げることができたのだ。

今回は、彦坂尚嘉さんのアトリエ内の「気体分子ギャラリー」での展示で、駅から遠いし見に行くには予約も必要なので、仲間内で楽しむのが目的みたいなグループ展だが、いつかはこの「反ー反写真」でちゃんとしたところで個展をし、人並みに正当な評価を受けてみたい。
それだけ「本気」と言うことなのだが、例え冗談で始めたとしてもそのうち本気になるのが「行動プログラム」のインストールなのである。

あと、彦坂さんのブログにぼくのインタビュー動画が晒されてますw
http://hikosaka3.blog.so-net.ne.jp/2010-08-13-1
ぼくの紹介が「ホトモ」になってるが、これはもちろん「フォトモ」の間違い。
彦坂さんはこの記事以外でも何度か「ホトモ」と誤記されてるが、面白いのでそのままにしているw
そもそも、写真を使ってるから「フォトモ」なのであって、それを理解していれば「ホトモ」とは間違えないと思うのだが、実際には間違えているのが興味深い。
彦坂さんは、何事も正確な情報と微妙な差異にこだわって評価する割に、一方では実におおざっぱな認識(誤認)をされるので、周囲が振り回されたりするのだw

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2010年8月 7日 (土)

「フリーアート」第1回展 に出展します


美術家の彦坂尚嘉さんが主催される「フリーアート」第一回展に出展します。
展示の詳細は上記のリンク先をご覧下さい。
概要は以下の通りです。

会期:2010年8月9日(月)〜22日(日)
時間:11:00~19:00会場:気体分子ギャラリー
住所:藤沢市亀井野3-23-11
   要アポイントメント(いない事もありますので予約してください。)
彦坂携帯:090-1040-1445

*特に明記されてませんが、初日9日が搬入日でもあるので、ぼくも含めたみなさんは会場にいるはずだと思います。
ぼくはフラフラと撮影に出るかも知れませんが・・・でも暑いので会場には戻ってくるでしょうw

フリーアートとは、価格がフリーなのであって、つまり「無料」です。
これは恐ろしいことで、ぼくもコンセプトや状況がよく分かってないのですが、とりあえずは最近の新シリーズ「反ー反写真」のプリントを出展します。
プリントの大きさや点数はまだ決めてないのですが・・・いや、もうそろそろ決めて注文を出さないといけません。

迷っているのは「無料」の解釈が難しい点で、ひとつは無料なんだから極限まで手間や材料費を抑えた、言ってみればゴミのような作品を提供することです。
しかし、「芸術至上主義」と言う価値観に照らして考えると、芸術の価値とは本質的にお金の価値に換算できない、自律したものなのです。
この意味での「芸術」とは芸術家による「贈与」であり、作品の価格はそれに対する「返礼」です。
一般的な商品は貨幣との「等価交換」で成り立っていますから、その点で「芸術」は異なるわけです。

ですから「フリーアート」とは「返礼なき贈与」のことであって、それは「贈与」なんだから当たり前だとも言えます。
ぼくの知っている範囲だと、デュシャンは作品を売らずに人にプレゼントしたことが、たびたびあったそうです。
いや、そんなビッグネームを出さずとも、現代の日本人アーティストの多くが自費で作品制作し、売れる当てもないのに無料で個展を開催しているわけで、そのように芸術家の「贈与」は当たり前のように行われているのです。

そう考えるといくら「無料」とはいえ、ゴミのように手を抜いた作品を提供するのもおかしなことです(それも一つの解釈でしょうが)。
しかしだからといって、どこまで手間とお金を掛けるか(あるいは省略するか)を考えるのが難しく、悩んでいるのです。

そもそも「無料の芸術」と言うことであれば、「非人称芸術」によってそれはもう実現されているのです。
ぼくは芸術家ではなく、言ってみれば「世界そのもの」からの「贈与」を受け、日々それを全身で堪能して感動しているわけです。
そのような観点で見ると、今さら「フリーアート」などと言われても、正直なところ「馬鹿馬鹿しい」としか思えない。
いくら芸術を無料化したところで、はじめから無料であるところの「非人称芸術」の偉大さにかなうわけがないのです。

しかし、そのような立場に凝り固まっているのが「糸崎公朗(A)」であって、そう言う自分を棚に上げた状態で、新たに「糸崎公朗(B)」をインストールしたい、と思ってるのが最近の自分です。
ということで、糸崎公朗(B)の実験作であるところの「反ー反写真」をフリーアート展に出品することにしたのです。
とは言え、ぼくの中ではそれほど人格は分裂しておらず、けっきょくのところ「反ー反写真」はフォトモやツギラマと同じく「相互的非人称芸術」になってしまいました。
いや、当初はもっと違うものになるはずだったんですが、どうしてもそうなってしまいますね・・・実験は始めたばかりで、将来的にどうなるかは分かりませんが。

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2010年7月 6日 (火)

「ミュージアムトレイン」の復元フォトモ

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いろいろ事情があって、夕べは大阪の事務所にて徹夜で作業してました。

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できた・・・天満橋駅の「復元フォトモ」です。

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こんなところにハメ込まれてますが、京阪電鉄開業100周年記念事業の「ミュージアムトレイン」です。
このイベントのために、「復元フォトモ」を2点制作しました。

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2010年6月13日 (日)

「趣味的判断」を超越する

デュシャンは「レディ・メイド」の選択から自分の趣味的判断を排除している。
それだけでなく、芸術の良し悪しについての「趣味的判断」をたびたび非難している。
ところが、自分は「非人称芸術」をもっぱら自分の「趣味判断」で鑑賞してきた。
もしデュシャンに従うなら、「非人称芸術」の鑑賞においても自分の「趣味的判断」を排除しなければならないし、そうなれば「非人称芸術」の可能性はもっと広がるかも知れない。
しかし、ぼくの中では鑑賞と趣味は不可分に結びついていて、それを分離することの意味や方法論が今ひとつ分からない。
それでいろいろ試してみたのだが、ひとつは「復元フォトモ」で、これは素材が「他人の写真」なので、その意味では自分の趣味判断を排除できている。
また、フォトモワークショップの生徒作品も、これは「他人の作品」だから、そのうちにぼくの趣味判断は含まれない。
もう一つの試みは、昨年のユカコンテンポラリーで展示したツギラマの新作だが、これはモチーフの選択をギャラリーオーナーに依頼する形で、自分の趣味判断を排除してみたのだ。

それぞれの方法は、それなりにうまくはいったと言えるのだが、しかし今ひとつ釈然としないというか、少なくとも「趣味的判断を排除する」と言うことの意味をどうもつかみかねている感じがするのだ。

ところが『彦坂尚嘉のエクリチュール』を読んでいてあっ、と思ったのだが、そこには芸術の鑑賞には芸術の趣味を広げる必要がある、と言うように書いてある。
彦坂さんは、芸術鑑賞を「味覚」と結びつけて考えておられるのだが、その点はぼくも同じだったので、説明としては非常に分かりやすいし納得できる。
つまり、いわゆるグルメの人というのは好き嫌いが無くて、味覚に関しての趣味の範囲が広いのだ。
これに対して食にこだわりのない人は、いつも同じものばかり食べていたりして、味覚に関しての趣味の範囲が狭い。
その意味で言えば、ぼくは食に関しては趣味は結構広いと言えるかも知れず、特に好き嫌いもなく、まだ大好物というものも特になく「美味しいものだったら何でも好き」だったりする。
また例えまずい料理でも、「まずいなりの味」というものがあって、場合によってはそういう味を楽しんだりもする。

それを考えると、ぼくの「芸術の趣味」は味覚の趣味ほど広くはないことに思い当たるのだ。
ぼくは芸術に関しては好き嫌いが激しく「好きな芸術」より「嫌いな芸術」や「分からない芸術」の方がむしろ多いと言えるかも知れない。
そして嫌いな芸術を嫌いなりに楽しんだり、分からない芸術を分からないなりに楽しんだりと言うこともしない。
芸術に関しては「嫌い」「分からない」でシャットダウンしてしまうのだ。
これに対し味覚については、「嫌い」な味覚があれば「なぜこれが嫌いなのか?」を考え、「他の人が好きだったら自分も好きになれるかも?」とその可能性を探ったりするはずだと思う。
「分からない味」については、ほんらい人間の食べ物ではない木の実などの味を確認する「味覚ネイチャー」などの前衛的試みまで行っている。

これを「非人称芸術」に当てはめると、恐らくぼくは「自分が嫌いな非人称芸術」や「理解できない非人称芸術」を排除してしまって、その存在にすら気づかないままでいるのかも知れない。
ぼくが自分の狭い趣味判断の領域に囚われているのだとすれば、その状態はまさに行き詰まりと言えるだろう。
これを打開するには、味覚のように芸術の趣味の領域を広げるしかない。
趣味を広げていけば、やがて「趣味」というものは無くなってしまう。
味覚の趣味が広がれば、特定の趣味を超えて「美味しいものだったら何でも好き」になるし、「まずいものもそれなりに味わえる」ようになる。
デュシャンは「悪い感情もまた感情であるように、悪い芸術もまた芸術なのです」というように書いていたが、「まずい料理もまた料理」であるわけで、つまりそれは趣味の拡大による無効化と解釈できるのだ。

実は、ぼくはこのような「趣味の拡大」の試みをあまり自覚せずにすでに実行していて、ブログ4の「写真」がまさにそれなのだ。

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2010年3月26日 (金)

高松市の『変身アート』は28日まで!

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撮影者から「この写真を使ってくれ」と言われた気がしたので・・・w
高松市美術館の展示も、地元丸亀町商店街でのアートイベントも、もうすぐ終わりです。

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2010年3月23日 (火)

実験・ストリートでのフォトモ展示

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お知らせ遅れましたが、高松市丸亀町の商店街のアートイベントで「復元フォトモ」を展示中です。
これは国鉄時代の高松駅前ですが・・・

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スタッフの皆さんと協議した結果、こんな展示になりました。
「ストリート」ということで、フォトモの中から出てきた人間(ヒトガタ)がその辺を歩き回ってる、と言うイメージです。

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ぼくは高松滞在中にヒトガタの画像データと試作品だけを作り、制作とレイアウトはスタッフにお願いしました(この写真もスタッフによる撮影です)。
丸亀町商店街の「一番街」というショッピングビルの通路です。

この展示が「成功」なのかは微妙ですが、ともかくフォトモをストリートに展示するのは困難で、いろいろアイデアを出して実験してみるしかありません。

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2010年3月18日 (木)

実験・トランクの中の箱とリカちゃんハウス

前回の記事で、高松市美術館の企画展での新作として『イメージの連鎖』を紹介したのだが、これらは「組写真」としては確かに新作なのだが、素材写真はフィルムで撮影された古いものだったりする。
しかし、今回の展示に合わせて特別に制作した、正真正銘の「新作」も出品している。

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それが『イメージの連鎖(トランクの中の箱とリカちゃんハウス』である。
ぼくは、高松市美術館で初めて『トランクの中の箱』を見た際、子供の頃妹が遊んでいた「リカちゃんハウス」を思い出してしまった。
そこであらためてネットで画像検索して、思った以上に両者が「そっくり」だったこ とに驚いてしまったのだ。
と言うことは、「アートと類似」という記事で詳細に語っている。
しかし、今回の高松市美術館の展示は驚く無かれ・・・

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これはどういうことかというと、実は展示会場では『トランクの中の箱』の実物の隣に、「リカちゃんハウス」の実物が並べられているのだ
そして、この「実物を並べた展示」を実現するため、ぼくはネットショップで見つけた「リカちゃんファッションハウス」のデットストック品を、結局のところよんまんごせんえんで購入してしまったのだ!
それだけではなく、ご覧の『トランクの中の箱』のための展示ケースも、この企画を実現するために自腹(じゅうまんえん)で注文制作したのだ!!
なぜなら美術館にはこの半分のサイズの展示ケースしか無く、しかも美術館は年度末で予算もなく、だったらぼくが自腹で!!!というふうに思い切ったのだ。

ともかく、この場に置かれたリカちゃんハウスを「まるで『トランクの中の箱』の 別バージョンのようだ」と思うか、それとも「こんな比較はそもそも馬鹿馬鹿しい」と思うのかは、まさにその人の「アート」のとらえ方によるだろう。
アートの捉え方が異なれば「何をシニフィアンと見なすか」も異なり、ぼくが提示した「シニフィアン連鎖」も全員に通用するとは限らない。
その意味で、ぼくは自分なりの「アートの概念」を提示しているつもりではある。

この展示はまた、ぼくが普段から行っている路上(フィールド)での「イメージの連鎖」を、美術館(実験室)で試みた再現実験だとも言えるだろう。
前回の記事で紹介したその他の『イメージの連鎖』は、あくまでフィールドで発見されたものの記録であり、「室内の実験」とはその意味で異なっている。
果たしてこの「実験」は成功なのか?と言うと、自分としてはまずは成功であり満足している。
いや金を掛けた分、成功だと思いたいだけなのかも知れないが・・・

ーー

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イメージの連鎖(本番)

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以前に「イメージの連鎖」というタイトルの記事をアップして、後で加筆しようと思ってそのまま放置になってしまったのだが、今回の高松市美術館での企画展が「本番」なのである。

すでに説明したとおり、ぼくは高松市美術館の企画展の一コーナーで、美術館コレクションのデュシャン作品と、自分の作品を組み合わせる展示を自分で企画することになった。
ぼくは自分が提唱する「非人称芸術」と、デュシャンが示した「レディ・メイド」のコンセプトとは何らかの関係があると感じていた。
だからこの 機会に自分のアート観を捉え直す意味でも、デュシャンと自分の「実作品」と組み合わせた展示を行ったら・・・今から思えば大変に無謀なことを考 え、そのキュレーション(展示企画)を引き受けたのである。

ところが、あらためてデュシャンに関する本をいろいろと読んでみると、これまでの自分の知識がいかにいい加減であったかが思い知らされてしまった。
と同時に、デュシャンの言葉は全ては理解できないものの非常に刺激的であり、おかげでいろいろなアイデアが思い浮かび収拾が付かなくなってしまった。

それでいろいろ悩んだあげく、デュシャンと自分とを結ぶ一点として思い至ったのが「イメージの連鎖」というコンセプトである。
まずは、ぼくが展示用に書いたテキストを引用してみよう。

『イメージの連鎖』

あるとき、自宅そばの洋品屋の店先に、帽子が掛けられていない帽子掛けがずっと置かれていることに気づいた。
何より驚いたのは、その佇まいが、マルセ ル・デュシャンの代表的なレディ・メイド『瓶掛け』にそっくりなことだった。
もちろんその帽子掛けはレディ・メイドなどではなく、単に「似ている」だけに すぎない。しかし私は、この帽子掛けをまるでレディ・メイド=芸術のように鑑賞していた。


この状況を自己分析すると、自分の脳内で「イメージの連鎖」が起きていることに気づく。
つまり『瓶掛け』のイメージが「帽子掛け」のイメージと連鎖する ことで、『瓶掛け』に含まれる「芸術としての意味内容」が、オブジェとしての帽子掛けに転移結合している。
と同時に、「実用品としての帽子掛け」という本 来的な意味内容は完全に見失われている。


このように特定のモデルとなる作品がなくとも、私は芸術からの「イメージの連鎖」によって、路上の建物や街並みなどを、まるで芸術のように鑑賞しながら 歩く。
芸術作品とは「人の手による造形物」であり、「イメージとしての芸術」は路上のあらゆる造形物と連鎖する可能性を持つ。


そのように路上で見出された「芸術に似たもの」はレディ・メイドではなく、もちろん私の作品でもなく、あらゆる一人称的な(芸術家による)芸術とは異 なっている。
そこで私はこれらを「非人称芸術」と呼ぶことにした。
イメージの連鎖は全くの主観的作用であり、「非人称芸術」の存在は鑑賞者の主観のみに委ねられているのである。


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まずは『イメージの連鎖(瓶掛けと帽子掛け)』を見ていただこう。
額装した状態ではわかりにくいので、4枚組写真を1枚に再構成してみた。
左上が デュシャンの『瓶掛け』であり、デュシャンはワインの空き瓶を逆さに掛ける器具をデパートで購入し「レディ・メイド」とした。
左下は「シュルレアリスム展」での『瓶掛け』の展示写真で、ダリの作品なども並んでいる(これらの図版は作品集をスキャンして引用)。

右の2枚はぼくが自宅そばで見かけた「帽子掛け」で、このように並べると我ながら感慨深いものがある。
これは美術史家の高階修爾さんの受け売り (ブリコラージュ)なのだが、絵画や彫刻をはじめとするアートの原点は「実物そのもの」ではなく「実物に似ている」という点にある。
それは「写真」も同じ であり、写真は「三次元の実物に似た二次元平面」だからこそアートになりうる。
その意味で、ぼくは路上でアートとは異なる「アートに似たもの」を探し出 し、それを「非人称芸術」と呼んでいるのだ。

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次の組写真は『イメージの連鎖(自転車の車輪)』で、左がデュシャンによる最初のレディ・メイド『自転車の車輪』で、右はぼくが江戸川区小岩の路地で発見した「自転車の車輪」である。
この「自転車の車輪」は、ポストの上に何の気なしに置かれたのだろう。
少なくとも「アートとしての意図」によって置かれたとは考えにくく、だからこそ「非人称芸術」として指し示すことが出来る。
この場合の「非人称」とは「主体が無い行為」を意味している。
例えば「雨が降った」という文の主語は「非人称」である。
また、裁判で判決を下すのは一人称(私)としての裁判官ではなく、「非人称的な日本国民」を代表した裁判官なのである。

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この組写真は『イメージの連鎖(アポリネールとキャメル)』で、上の『エナメルを塗られたアポリネール』は、デュシャンによる「手を加えられたレ ディ・メイド」のひとつである。
デュシャンは「SAPOLIN ENAMEL(サポラン エナメル」という塗料の広告に加筆して、「APOLINERE ENAMELD(エナメルを塗られたアポリネール)」と改竄した。
その結果、少女にエナメルを塗られた金属製ベッドが、詩人(アポリネール)に変身してし まっている。

これは精神分析の分野で「シニフィアン連鎖」といわれる現象を利用した創造手法だと言える(デュシャンはそのような用語を使ってはいないが)。
この場合の「シニフィアン」とは文字や音声など、言葉の持つ「記号的側面」を指す。『エナメルを塗られたアポリネール』では、「SAPOLIN」と 「APOLINERE 」という似た記号が連鎖することで、アートとしての「新しい意味」が生じている。
一般的に「言葉遊び」とか「地口」と言われるものと同じだが、デュシャン は「シニフィアン連鎖」の手法を自作の多くに取り入れている。

それに対しぼくは「イメージの連鎖」により「アポリネール」にそっくりの「キャメル」を水戸市で発見してしまう(下)。
これは駐車場奥の車止め であり「キャメル」は店名なのだろう。しかし「キャメル」と名づけられたそれは「ペンキを塗られたキャメル(アポリネールの亜種)」だとしか思えないのである。

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さて、再びデュシャンの作品『L.H.O.O.Q』(左)を見てもらうが、この作品は市販されたモナリザの複製印刷に鉛筆で口ひげとあごひげが描かれ、絵の下に同じく鉛筆で「L.H.O.O.Q」という文字が書かれている。
この「L.H.O.O.Q」の文字列はフランス語で続けて発音すると「Elle a chaud au cul(彼女のお尻は熱い)」となり、ダヴィンチが男色家であったことや、モナリザは実はダヴィンチの自画像であったことの説への暗示となっている。
これもまさに、言葉の記号的側面が連鎖する「シニフィアン連鎖」を利用した創造なのである。

そのようなデュシャンに対し、ぼくは自分自身の創造的方法論として「イメージの連鎖」を採用していたことに思い当たったのだが、しかし「イメージの連鎖」もまた「シニフィアン連鎖」のひとつなのだ。
つまり「似たイメージ」に反応することは、イメージを「記号」として捉えることと同意なのだ。
ソシュールによると、言葉(シーニュ)は記号表現(シニフィアン)と意味内容(シニフィエ)の結びつきなのだが、「イメージ」は記号表現として認識されることもあるし、意味内容として認識されることもある。

例えば「犬」という言葉からいろいろな犬の姿をイメージすれば、それは意味内容(シニフィエ)である。
対して「犬」という文字は活字であっても、へたくそな手書き文字でも、同じ「犬」という字として認識されるが、それがイメージとしての記号表現である。
だらか「イメージの連鎖」とは、さまざまなイメージを「文字」のように認識することであり、それによって新たな「意味内容」を読み取ることなのだと、言い換えられるかも知れない。

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デュシャンの『トランクの中の箱』

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前回の記事の続きだが、3月28日まで高松市美術館の企画展で展示中のデュシャン作品の紹介である。
ともかく、ぼくの今回のキュレーションした展示コーナー『デュシャンと対話するフォトモ』に何の価値も見出せなかったとしても、この『トランクの中の箱』だけでも見る価値は十分にあるだろうと確信する。
これは、デュシャン作品の複製印刷やミニチュアなどが納められた、「携帯式移動美術館」といった作品で、1941年から1971年にかけて基本的に 同じものが300点あまり作られたマルチプル(複数制作品)である。

この作品は収納状態では文字通り「箱」なのだが、その箱を開け、左右の「引き戸」を展開すると、中央にデュシャンの代表的な大作『大ガラス』のセルロイド製ミニチュアと、その 左に並んだ「レディ・メイド」などがお目見えする。
さらに下部の蓋を開けると、中には絵画やスケッチ、立体作品の写真などの複製印刷物が数十点納められており、今回の展示ではこれらを周囲に重ねて配置している。
デュシャンは『トランクの中の箱』について、以下のように語っている。

ささやかな商売です、まったくのところ。そのほうが新しい絵を描くよりはるかに容易だし、一人の人間の生活を表現するものをひとまとめに するのはもっと面白い。

デュシャンの書簡集を読むと、『トランクの中の箱』の制作のため、作品の撮影を友人のマン・レイなどに依頼したり、気に入った印刷所を探したり、『大ガラス』のミニチュアのための透明素材を吟味したり、いろいろ手はずを整えている様子がうかがえて興味深い。
ともかく単なる「作品集」とは概念の異なる前代未聞の作品であり、だからこそデュシャンも情熱を注ぐことが出来たのだろう。

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『トランクの中の箱』を裏から見るのも実に感慨深い。
『大ガラス』のミニチュアも裏から透かしてみることが出来る。
ボードの裏側の「逆M字」の構造体も目を引くが、工芸品的にもキッチリ作られていることに、当然のことながら感心してしまう。
この設計は当然デュシャンによるものだが、組み立てには助手も使われ、初期のロットにはジョセフ・コーネルが手がけたものが含まれているそうだ。
高松市美術館の収蔵品は最終ロットで、デュシャンの死後を引き継いだアンリ・マティスの孫が組み立てを請け負っている。

手前に見える『階段を降りる裸体No2』は、前回の記事で紹介した複製印刷と基本的に同じもののようで、デュシャンは『トランクの中の箱』の資金調達のため、前もって印刷した複製印刷の一部を販売したそうだ。

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個人的に目を引くのがレディ・メイドのミニチュアで、下に見えるのが言わずと知れた『泉』で、つまりは便器である。
その上は『旅行用折りたたみ品』で、もとはunderwood社製タイプライターのカバーである(経年変化で素材が痛んでいるが)。
さらにその上に、ここには写っていないが『パリの空気』(元は空の血清アンプル)と、3つのミニチュアが納められている。

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さて、これは展示準備中の『トランクの中の箱』で、中の複製印刷を一通り並べたところだ。
本来は、このように内容物が全て見えるような展示をするのが本来的なようにも思えるのだが、実はそれは不可能なのである。

なぜなら、ぼくも実物を見て驚いてしまったのだが、複製印刷は黒ラシャ紙の「両面」に貼り付けられ、ものによっては二つ折りにされたラシャ紙の内側にも貼られており、だから「全作品を同時に見せる展示」は不可能なのだ。

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また本体下部の、複製印刷が納められた箱の表には初期のキュビズム的絵画『ソナタ』の複製が貼られており、この蓋を開くと内側の『チョコレート粉砕器No2』しか見えなくなってしまう。
さらにその隣には『停止原器』のミニチュアが納められているが、これも「蓋」を開くと隠れてしまう。

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この『停止原器』のミニチュアは紙に印刷されたものではあるが、このような折りたみの仕掛けがしてある。
が、これも当然このような形で展示することは不可能だ。

つまりこの作品の正式な鑑賞方法は、複製印刷を一枚ずつめくって見るしかなく、今回それが可能だったのは事前に作品をチェックしたぼく(と学芸員さ ん)だけなのであり、だからもう、それだけで今回の企画展を引き受けてよかったと思えるのだ。

ともかく、「不完全な形でしか展示できない」というのは『トランクの中の箱』の大きな特徴であり、その意味で「美術館」という制度そのものが否定されていると解釈することも出来る。
デュシャンの実作品の大半が、デュシャンの意志によってフィラデルフィア美術館に収められている以上、その他の美術館はこの「携帯式移動美術館」をコレクションするしかないのだが、そのような「矛盾」が仕掛けられているところがデュシャン作品の魅力でもあるのだ。

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