抜き書き

2014年1月29日 (水)

『アトリエ 構図入門』抜き書きメモ

『アトリエ 構図入門』藤本藤一良 1959年12月号、を適当に抜き書きしながらメモ。

絵を描くと言うことは、家を建てることに似ている。

絵を描く際に、画面の上に表現すべきものの設計図を考える、これが構図である。

感激や直感だけで絵を描こうとするのは、甚だ危険を伴う。

人は感激を持って何かを表現しようとするならば、それは理性を持って規制されなければならない。
従って、子供が自由に描く絵は芸術になり得ず、自然の造形物も芸術とはならない。

画面の上でのいろいろな要素や約束が結合されて構成されるものが構図となる。

例えばリンゴが一つ画面の中央に置かれているだけは構図にならない。
これが二つになると、お互いの対応関係が生じて、二つは単なる二つではなく、画面上においては一つであるという関係になる。

画面に二つのリンゴを置くと、そのことにより生ずる空間の量、すなわち周囲との関係が生じる。
しかしデザイン的に、例えば上下左右等間隔に置かれた場合には、構図とは言えない。
二つのリンゴが置かれる場所により、画面上の役割や働きが生じ、その効果を踏まえて決定されなければならない。

画面上に一本の地平線が引かれると、空と陸それぞれの量的な関係が生じる。この区切られた一本の地平線というものは、一画面上の面積を分割する大切な位置であり、二つの空間の量を決定して、構図上の重要な効果を生み出す要素となる。

画面の中に水平線が無意味に適当な位置に引かれた場合と、充分に面積の量的関係とを考えて惹かれた場合とは、画面構成上大きな違いが生まれる。
それは一本の木をどこに建てるかと言うことにも成り、リンゴをどこにまず置くかという問題にもなる。

絵画の画面は小宇宙、すなわちミクロコスモスなのである。
つまり画は単なる自然の一部の切り抜きではなく、一個の独立した世界であり、すなわち小宇宙であらねばならない。
そこには抜き差しならない統一された宇宙、すなわち空間があり、それを統一するものが構図なのである。

構図がある。そして形と色がある。
それには線の美しさ、量感(ボリューム)、運動(ムーブマン)、物の対比(コントラスト)と相似、連結などと言う心理的な要素、数理的なものから来るリズムや距離感などがある。
これらを全部兼ね備える必要は無く2、3あれば良い。

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2013年7月17日 (水)

フロイト『機知』抜き書き05

●これで、敵意ある攻撃における基地の役割を究明する準備はできた。
我々は対立して障害となっているもののために、敵の笑うべき点を大きな声で、あるいは意識的に申し立てすることはできなかったのだが、機知のおかげでその笑うべき点を活用することができるようになるだろう。

●つまり、機知はまたしても制限を迂回し手の届かなかった快楽源への道を開いてくれるであろう。
さらに機知は聞き手に会を獲得させることで抱き込み、とことん吟味する我々を見方につけるだろう。

●機知には、表向きの面ーー我々の事例では滑稽なーー外見があり、そこに眼差しが止まってしまう者もあれば、その裏側を覗き込もうとする者もいるということである。
それにこの外見は吟味する眼差しをくらますためにあるのではないか。
つまりこういった小噺は何かを隠しているのではないかという疑念も芽生えてこよう。

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2013年7月16日 (火)

フロイト『機知』(1905年)抜き書き04

●洗練され教養のある社会に成り上がって初めて、形式面での機知の条件が加わってくる。
猥談は機知的になり、機知的でないと大目に見てもらえない。
猥談がたいていの場合に用いる技術的手段はほのめかしである。

つまり、小さな事、遠く関連していることで代替し、聞き手がそれを表象して従前十全かつ直接的な猥褻さへと復元する。
猥談で直接口にされていることと、猥談によって聞き手の内に必然的にかき立てられるものとの間の不釣り合いが大きければ大きいほど、機知は洗練され、上流社会でも通用する。粗野または洗練されたほのめかし以外にも、機知を帯びた猥談は__例を挙げて簡単に示せるように__その他あらゆる語機知や思想機知の手段を用いる。

機知の傾向に対してその機知がどんな役割を果たしているか、ここでついに明らかになる。
すなわち妨げとなっている障害に負けずに欲動(好色な、あるいは敵対的な)を充足することが、機知によって可能となる。
機知はその障害を迂回することにより、生涯のために接近できなくなっていた快源泉から快をくみ出す。
妨げとなっていた障害とは、女性の教育水準や社会的階層が高くなればなるほど、剥き出しの性的なものには耐えられなくなると言う、その女性の事情のことに他ならない。

基本状況では、居合わせると考えられた女性は、その後も引き続き存在感を保つというか、女性がいなくなってもその影響は、男性たちに対して威嚇的に作用し続ける。
観察していると分かるが、身分の低い娘が同席すると、高い身分の男性たちはたちまち猥談のレベルを硬化させ、機知的ではないただの猥談をやりたがる。

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2013年7月12日 (金)

フロイト『機知』(1905年)抜き書き04

●まさに同じ方向を、思想的機知の諸技法、すなわち遷移、理論的誤謬、不条理、間接的呈示、反対物による呈示、も指し示している。これらはことごとくみな夢工作の技法でも姿を見せるからである。

●第一に、夢の様子が我々に違和感を与え、夢を覚醒時の思考の継続とみなすことを妨げるのは、遷移のためである。

●第二に、不条理や馬鹿げたことが夢で用いられるために、夢は心的所産が持つべき栄誉を失い、精神活動の崩壊、批判、道徳、論理の一時停止こそが夢形成の条件だと諸家に思い違い違いさせた。

●第三に反対物の呈示は夢ではごく普通なので、妄言ばかりの大衆向けの夢解釈本でさえ、反対物による呈示を計算にいれるのが常である。

●第四に、間接的呈示、夢思考をほのめかし、小さなこと、比喩と似た象徴表現で代替すること、これこそが夢の表現様式を覚醒思考のそれから区別するものである。機知工作の媒体と夢工作の媒体との間にこれほど大幅な一致があるということは、偶然ではあり得ないだろう。

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2013年7月10日 (水)

フロイト『機知』(1905年)抜き書き03

●これらの例では同一語が多重使用されると言っても、そこに二重意味的要素は全くない。等に私が強調したいのは意外な新しいまとまり_表象の相互関係、相互定義、あるいは共通の第三のものへの定義_がここでは生じていることである。この現象を私は「一体化」と呼びたい。

●続けて何度も同じように反応した人物が、その次に同じような仕方で答えるが、今回は不適切で裏目に出てしまう。彼は慣れ切って自動作用に身を委ね、状況の必要に合わせる事を怠ってしまう。

●どの例でも、思考と表現を目的に応じて変更する事がなおざりにされ、自動作用が勝利する。

●「いいえ」というしかないところ、その代わりに反対の答えをする点にこそ基地の手段があるということである。反対の答えができるためには「はい」と言った後で「ただ」と続けねばならず「はい」プラス「ただ」が「いいえ」と同じ意味になるのである。これを「反対物の提示」と名付けたい。

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2013年7月 8日 (月)

フロイト『機知』(1905年)抜き書き02

●縮合の結果起こっているのは、一方ではまたしても顕著な短縮であり、他方ではそれも分かる合成語ではなく、二つの構成要素の諸部分の相互貫入である。

●こう言ったグループの機知をわずかな変更を伴う機知と言い表すことができるし、変更がわずかであればあるほど機知はさえているだろうと見当がつく。

●この変換過程の総体を私は「夢工作」と名付け、この夢工作の一部をなすある縮合過程を記述したが、それは機知技法の縮合過程と極めて大きな類似性を示すのであって、機知技法と同じく縮約へと導き、それと同質の代替形成を引き起こすような過程であった。

●還元の手続きとはつまり、表現を変えて機知を帳消しにし、その代わりにもともとあった十全な意味をそこに入れ込むことであり、機知がよくできていればその意味を推定することは確実に出来る。

●機知の技法は、同一の語が一方では全体として、他方では綴り当てゲームのように音節に分解されて(それぞれ意味を持つ語となり)、二重に使用されるところにある。

●一つの名前が二度使用されるが、一度は全体として、次に音節に分解して使用されているのである。分解されると、名前を構成していた音節はある別の意味を帯びてくる。

●「同一素材の多重使用」を拡張して、機知が密着している(一つまたは複数の)語をある場合は変更なしで、別の場合は小さな変更とともに用いることができれば、機知技法には豊かな活動領域が開けることになる。

●語は柔軟な素材であるから、それでもってあらゆることができる。語によっては、ある使い方をすれば元来の十全な意味を失ってしまうが、別のつながりにおいてはその意味はなお保たれている。

●機知はその技法によって何を節約しているのか。新しい語、すなわち大抵は労せずして成立したであろう後をいけつか繋ぎ合わせることを節約している。その代わりに機知が引き受けねばならぬ労苦とは、二つの思考をカバーしてくれるまさにその一つの語を探し求めることである。

●それらの機知とはふつう駄洒落と呼ばれるもので、語をめぐる機知の変種のうちで最も低次元とみなされている。恐らくその訳はこの機知が「最も安価」でいちばん労少なくして生まれるからであろう。実際本来の言葉遊びが表現の技法を最大限に要求するのに対して、駄洒落はそれを最小限にしか要求しない。

●私はそれを「遷移」と名付けることを提案する。なぜなら、その技法の本質は、思考過程の方向を逸らし、心的力点を当初のテーマとは別のテーマに遷移することだからである。

●この小噺もまた、見かけは理論を装っている。それが理論的誤謬を隠すのに格好の外見であることは、先刻承知の通りである。◯言ってみれば客は「の代わりに」という関係を二重的意味に適用している。というか、二重的意味を用いて、実際には根拠のない結びつきを作り出している。

●研究の結果として判断基準が生じてくるまでは、われわれに基準はないのである。言語慣用は当てにならず、それ自身が正当化どうか吟味される必要がある。決定に際して我々が頼れることができるのは、ある種の「感覚」だけである。

●この感覚は何かというと、我々が判断する時、まだ我々が認識できていない一定の基準に即して決定が行われることと解釈できるだろう。十分な証明のためには、こう言った「感覚」を引き合いに出すことをやめてはならないだろう。

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2013年7月 5日 (金)

フロイト『機知』(1905年)抜き書き01

●機知とは遊戯的判断である。美的な自由が事物の遊戯的考察であるように、という類比を参照せよ。

●欲求の充足を切実に要求せず、見る喜びで満足する。

●美的態度は労働とは逆に遊戯的である。

●美的自由からは、日常的な束縛や基準から解き放たれた判断のあり方が生じるかもしれない。遊戯的判断。自由は機知を与え、機知は自由を与える。機知とは、単なる観念の遊戯である。

●機知とは似ていないものの間に類縁性を見出す、つまり隠れた類縁性を見出す技術である。機知とは、どんなカップルでも娶わせる変装した司祭である。その司祭は、その結合を親戚が認めたがらないカップルを最も好んで娶わせる。

●機知とは、内的な意味内容の点からしても相互関係の点からしても本来は異質であるいくつかの表象を驚くべき速さで一つに結びつける技術である。

●表象の対比、無意味の中の意味、意表を突かれて納得する。機知とは何らかの意味において、対照的な二つの表象を大抵は言葉を用いて勝手に結合ないし接合するものである。

●言葉と結びついた諸表彰があれこれと対比されているのではなく、言葉の意味と無意味との対比もしくは矛盾なのである。その言葉に意味があると最初は認めたものの、その後はまた認められなくなる…とき始めて対比が生じる。

●ある時意味があると思ったものが、全く無意味なものとして現れる。そこにここでいう滑稽な成り行きがある。

●滑稽の感情を生み出す心的過程は、言われた事にいったんは意味を与え、なるほどと思い、認めたのに、たちまちにして意味がないという意識や印象にとって代わられるというものである。

●滑稽なものが奇妙なのは、ただ一瞬しか我々を欺けないことだ。

●簡潔さが機知の肉体にして魂であり、いや機知そのものである。

●意表を突かれる事と納得することが踵を接して起こるために、機知の効果が生じる。

●機知の内容は、常に少ない言葉で語られるというより、常に少なすぎる言葉で、すなわち厳密な理論や普通の思考法、話法から言うと不十分な言葉で語られるのである。とどのつまり、機知はその内容について沈黙することにより、端的に語ることができる。

●機知は秘匿されたもの、隠されたものを引っ張り出してこなければならない。

●散乱した断片をある有機的全体へと結び合わせること。例えば一連の逸話を読んでもある人物の性格がわかることはなく、そのためには伝記を紐解く必要がある。

●成果を当てに出来るためには、新しい観点を仕事に持ち込むか、それとも注意力を一層研ぎ澄まし、関心を一層深めつつさらに前進するよう努めるか、そのどちらかであろう。

●あらゆる心の中の生起は内密に関連しあっているので、たとえどんなに人目を惹かぬ領域であろうと、それに関して心理的人しにが生ずれば、他の領域にとっても予見し得ないほどの価値を確実に持つということである。

●機知の性格と効果は、機知を他のものに代替してしまうと消え去る。

●勝利を呼ぶのは単なる配置。兵士のそれぞれあれ、文のそれぞれであれ。

●言葉の合成によって、機知の性格と笑の効果は結びついている。

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2013年7月 3日 (水)

デザインの定義

●デザインとは,現状を少しでも望ましいものに変えようとするための一連の行為である。

●デザインの語源はデッサン(dessin)と同じく“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareである。つまりデザインとは、ある問題を解決するために思考・概念の組み立てを行い、それを様々な媒体に応じて表現することと解される 。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3…

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